かなしいうわさ
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朝起きる。顔を洗う。朝食を作って食べる。ウンコする。出かける。会社に着いて仕事をする。昼食を食べる。午後の仕事をする。終わらずに残業したりもする。帰って夕食を作って食べる。風呂に入る。そのあとほんのひととき、お酒を呑んだり本を読んだりテレビをみたりネットをみたりして、やりたいことをして、寝る。
日々の暮らしというものは、同じことの繰り返しなので、毎日毎日忙しく暮らしているうちにあっという間に過ぎていってしまう。そんな中で、日々のルーチンからはみ出した何かが起こると、持ち時間が少し膨らむ気がする。妻と結婚し一緒に暮らし始めて、ずいぶんと膨らんだ。やがて長野から野良猫がやってきて、またぐっと膨らんだ。そして1年半前に娘が産まれて、比較にならないくらい毎日が怒涛のように膨らんでいる。
人間は何事からも学ぶので、幾つになっても「あ、これは昨日よりあきらかに進歩したな」ということはあって、そのように自分が良く変わったことを確信できたり、誰かが良く変わった現場に立ち会えたりすると、どうしようもなく心動かされたりする。娘と暮らしていると、毎日毎日なにかしらそれがあるのだ。なにしろ、彼女は何もないゼロの状態からやってきた生き物だから、毎日毎日あたらしく何かができるようになる。(同時にそれによって何かをやらなくなったりして寂しくなったりもするんだけど。) それまでは感情ではなく反射で笑っていたのに、姿かたちが面白くて笑うようになって、自分が何かをしたいという欲求が満たされることで笑うようになり、音楽を聴いて楽しいから笑うようになり、最近は他者の存在自体が嬉しくて笑うようになってきた。これからもっといろんな理由で笑うだろう。 人間が持つ感情のなかでも「笑う」というのは奇跡に近いと思っていて、そんな奇跡が毎日更新されていくのを間近で見られるのだから、これはやはり心震えざるを得ないし、楽しいし、時間も否応なしに膨らみまくる。
とはいえ、膨らむのは喜びからだけではなく... なにしろ1歳と半年なもので、場所や状況によっては、10秒くらい目を離したら命が無くなったりするくらいに親に依存した、はかないはかない存在だ。だから、子供の世話というのは、大前提として本当に本当に本当に大変。これは、そうなんだろなと想像はしていたし直前にはそれなりに覚悟していたけど、やっぱり、やってみないとわからないものだった。
彼女たちは成長し変化することで、感情や自我をもち、意志の幹が太くなっていく。「自分のやりたいこと」を持つようになる。それは、前述したようにとても感動的だ。だけど...やりたいことができなかったり、大人の都合(会社いかないといけないから、お花をみるのはそろそろやめて、もう行こうね。等)で叶えられなかったりすると、のたうちまわって主張する。小さな体を振り絞り、あらん限りの力で。 「できない!」 「やらせろ!」 「それはちがう!」 「こわい!」 「ふゆかい!」 「たのしいからやめるな!」 「こっちいけ!」 「そっちはいくな!」 「とまとはいらない!」 「なっとうは、もっとくれ!」 「それはよくない!」 「りゆうはないけど、ギャー!!!!」 など など など。
そんな彼女のやることに、うんざりしたり、感動したり、デレデレしたり、困ったり、泣いたり、笑ったりして、どんどんと時間が膨らんでいく。 膨らむけど、楽しい時間の常として、あっという間に時間が経ってしまったりもする。長いけど短いというのも変な話で、時間がグニャッとひん曲がった不思議な気分にもなったりするんだけど、まぎれもない事実なので、渦に巻き込まれながらありのままを笑顔で受け止めていこうと思う。
引き続き世の中は剣呑だけど、彼女の今とこれからが少しでもよいお天気になるように、やれることをやれるだけやりつつ、 娘の成長と我儘に巻き込まれながら、時間を膨らませて、あっという間に歳をとっていこう。
そんな最近です。
雨のなかを歩くのも大好きな君だ。
でも、明日はお天気になるといいね!
牛乳カルピスを飲んで、おやすみなさい。
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