新知庵亭日乗
荷風翁に倣い日々の想いを正直に・・・

2002年12月22日(日) ’72パリ解剖学とサルトル

美大の学生とカフェでビールを飲みながら、色々お話をしました、「人体は美である、刻々の変化する細胞の瞬間を切りとって観察出来る我々は幸せだ!ダビンチの解剖図が絵描きにとって基本中の基本だよ」
なんてぬかしよる「じゃ質問だけど、俺達音楽科の学生にとって解剖学は何か価値を生むの?」「美しい淑女も一皮剥けばあーなるんだよ!」「???」「存在、そのものが美なんだ!で結局芸術は当為としてアウフヘーベンされるのだ!」
「おいサルトルかよ、まー流行やしな、そのフランス語俺には難解だよ」「日本には禅の思想があるだろ、真・善・美そのものだよ」「違うって、利・美・善やって」
サルトルの『嘔吐』は、退屈と言えば退屈なのだが、異様な魅力を持っている小説です。『嘔吐』は「実存主義の聖書」とまで言われているらしいが、別に「聖書」と言われるほどの思想は得られていない。しかしながら、ロカンタンが綴る彼の世界観は不思議な魅力を持っている。ロカンタンはどこまでもいけ好かない男だが、にもかかわらず、僕たちにはこの種の人間に密かな興味を寄せるという性向がある。ロカンタンはカミュの『異邦人』のムルソーと同系列の人間である。『嘔吐』と『異邦人』は、他の作家には見られない一風変わった小説である。そして彼らの世界観に触れるのは、決して無益ではないことと僕は考える。





↑メッセージがあるよ、クリック

「でもさーあのサルトル先生、朝は覚醒剤、夜は睡眠薬、それに紙巻たばこ60本、大酒、脂っぽい食事の日々らしいぜ、まさにアクセルとブレーキを同時に踏む生活だよなー。」

サン・ジェルマン・デ・プレに新しい広場が誕生した。哲学者のジャン・ポール・サルトルと作家のシモーヌ・ド・ボーヴォワールを記念した「サルトル‐ボーヴォワール広場

・・・・生はそれ自体を永続化することと、それ自体を超越することからなっている。もしそれが自らを維持することだけに
終始するなら、生きることは単に死なないということにすぎなくなってしまう・・ ――シモーヌ・ド・ボ−ボワール


「だいたい何の為に僕ら音楽科の学生が、解剖学教室に通っているの?」「とどのつまり脳の問題だよ、作曲したり演奏するレベルが本能か後天性なのかという事だろう?」「前頭葉で考えた結果が芸術にもなり戦争の兵器にもなり、サド・マゾにもなるんだろう」

「で女性を喜ばせる方法は解剖学で学べるかなー?」
「じゃー来週、質問してみようか?」

なんてカルチェラタンのカフェは夜中に入るのでした・・・。





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