ずいぶん久しぶりに、ある知り合いにあった。大学の近くの歩道橋の上だった。ずっとそこで話していたおかげで、その歩道橋の上で人が走ると、歩道橋が揺れるということを知った。
その人と、いろいろと研究室の話をしたりした。どこの研究室でも状況は似たようなものらしい。結局のところ、何がなんだか分からないということのようだ。みんな大変なんだな、という当り障りのない結論になりそうだ。しかしまあ、ちょっと会っただけで1時間以上も話し込むとは…。お互い、おしゃべりがかなり好きだというのもあるのだろうが、それにしてもずいぶん長いものだ。
過去において同じ部屋で同じように講義を聞いていた人たちも、今はもう、それぞれがそれぞれの道を歩んでいる。そんな人たちとの接点が失われて久しい。なんとも悲しいものだ。ただ、メールアドレス変更のメールを出したら、数人から返事が来て嬉しかったのだが。返事など必要ないのだろうが、何か返してみようと思う。今はもう、こちらから積極的に連絡を取らなければ、まともに人と話すことすらできない生活なのだ…。直接会って会話することはコミュニケーションの基本だと思うのだが…。人として基本的なことが、今の僕の生活からは欠落している。
ところで、物事を考えるということは、果たしていいことだと言い切れるのだろうか。最近、さまざまな議論を目にして、よく疑問に思う。最近になって1年前の日記にリンクを張ったが、1年前と今と、まったく書いていることが変わらない。進歩していないな、と思うが、昔と違って前より悪くなったと思わないだけマシだろうか。
で、物事を考えるということについてだ。物事はどんなことにせよ、考えれば考えるだけ、それまで見えていなかった面が見えてくるものだ。僕は何度かマスコミに対する批判をこの日記に書いてきたが、いずれも結局のところは、考えが足りないということに尽きる。いろいろな見方のある物事を、一面的にしか見ていない、それも、そのマスコミにとって都合のいい見方しかしていないように感じるのだ。しかし、そこで多くの見方を併記すれば、量は増えるし内容もぼやける。文章全体でさまざまな意見が交錯して、何を言いたい文章なのか分からなくなってしまう。
そしてそれよりも問題となることは、いろいろ考えれば考えるほど行動がともなわないことだ。なぜなら、ありとあらゆる可能性を考えている限り、その問題について結論は出ない。結論が出ないから、何らかの行動を起こすこともない。何か行動を起こさない限り、ほとんどの問題は解決しない。
結局、どうすべきなのか。何がなんだかさっぱり分からなくなってきた。マスコミは一刻も早くニュースを記事なり報道なりで伝えなければならないのだから、考えることよりも行動を優先するのは仕方のないことなのかもしれない。考えが足りないように見えるのは、時間的な制約がある中での彼らの能力的な限界なのだろう。
とりあえず、今の僕は行動をする必要などない。問題があれば、なるべく多面的に考えていればいいのだろう。きっと。ただし、いくらいろいろ考えて、日記であれこれ批判したところで、問題は何一つ解決しない。それは肝に銘じておくべきなのだろう。