2003.06.15 (Sun) 15:31:22
いつも、日記を書いてからゲームをやろうと思っているのに、昨日は何もしなかった。まあ、いいか。
我が家では朝日新聞を取っている。が、前から何度か書いているように、この朝日新聞というのは、情報源としてはかなり質が悪い。記者個人、あるいは朝日新聞社という社の主張が入り交じり、本質的な情報がつかみにくいのだ。単に自分の読解力が低いのだと思っていたのだが、日経を読んでみて、そんなことはないということに気づいた。
ジャーナリズムの本質とは何か。朝日新聞を見ていると、それは「世の事物を分析し、自分の主張とともに分かりやすく示すこと」だと言っているように見える。おそらく、実際に尋ねてみても、それは否定しないのではなかろうか。しかし、僕にとってはそれでは困るのだ。僕が知りたいのはあくまでも事実であって、朝日新聞社の主張する意見ではない。多くの意見は聞くべき価値があるが、自分が、自分なりの意見を考えるためには事実を知らなければならない。他人の意見をどれだけ聞いていても、その元になる事実を知らなければ意味はないのだ。なぜなら、意見はすべからく、事実に対するものだからだ。事実に対して意見が存在するのに、その事実を知らない。それは、その事実に対する意見とは言えない。
何かものを考えるときは、主観を排除して見なければならない。それは、自分の主観に限ったことではない。他人の主観も排除しなければならないのだ。これはもちろん、そうしなければ事実を見誤るからだ。
議論というのは、事実に対して対立する意見があって成立するものだ。事実がなく、一方の意見だけでは、議論とは言えないのだ。それは一方的な主張に過ぎない。一方的な主張から得られるのは、偏った事実認識と、感情的な満足だけだ。
科学の世界では、あらゆる研究は反証可能性がなければならない。つまり、何らかの形で批判されたり、訂正されたりする余裕を常に持っていなければならないのだ。そうでないものは科学の研究とは言えない。たとえば、パナウェーブ研究所というのがいたが、あのようになにもかもをスカラー波のせいにするのは、科学とは言えないのだ。これは宗教についても言えて、万物は神が作り出したものであるとして、それに対して疑念を挟むことすら禁じるのは科学ではない。例え大学の黎明期、すべては神学のために設立された組織だったとしても、それは変わらない。
そして議論は、このような科学の産物だ。科学を論じる際の方法論として確立…されているとは言いきれないが、少なくとも存在はしている。
つまり今のジャーナリズムは、議論ではない。
ここに、最大の問題があると感じている。世に大きな影響力を持つマスメディアが、このような一方的な主張を繰り返していては、事実を多くの人に知らしめることができない。政治、経済、社会、その他あらゆる問題について議論しようとしたとき、その情報源として、常にマスメディアの情報は重要である。にもかかわらず、マスメディアは汎用性のある事実の形で情報を提供していない。議論を成立させることのできない、一方的な主張のみを報道しているのだ。
だったら、ちゃんとした情報を提供しているメディアを選べばいいのだが…。日経はよいと思うのだが、新聞に入ってくる広告が不便だという母の主張で、結局、朝日新聞に戻されてしまった。なんとも情けない事情だが、とにかく残念なことではある。
2003.06.15 (Sun) 16:20:42