2003.06.29 (Sun) 14:33:07
理論というのは、どの程度の力があるのだろう。
理論と言っても、科学の話だ。つまり、信頼できる仮定を積み上げて得られた結論だ。仮定が真実であれば、結論もまた真実であろうと言える。つまり、真実を語る上でこの上もなく強力な手法であるのだ。
だが、世の中にはこの理論を理解しない人間や、理解しようとしない人間が多くいる。理論を理解しない人間は少ないが、理論を理解しようとしない人間は本当に多い。僕はこの短い人生で多くの人に会ってきた。いろいろな人に会って、一般に理論を理解しないと思われている人間…。つまり、簡単に言ってしまえば、「不良」とかそういうレッテルを貼られている人間だ。そのような人たちに会って、いろいろと話をしてみた。カウンセラーなどとは違って、かなり対等に会話ができたと思っている。それは、彼らにとってその「不良」の時期が過去であったり、あるいは、僕とはまるきり関係がなかったりしたからだ。
過去であるというのは、大学の友人を指す。過去にいろいろやってきたが、それは過去だから…。と言うことで、いろいろ聞けたわけだ。まるきり関係がないというのは、家庭教師を指す。家庭教師と言うと、親身になって話をしたりすることなどやりにくいと感じるかも知れない。しかし、もちろんその教師の性質にも寄るが、基本的に家庭教師というのは、相談相手に適していると言える。もちろん、その性質を十分理解していないといけないが。
家庭教師以外にもこのような性質を持ち合わせる人は多くいるが、要するに、一言で言ってしまえば無責任なのだ。家庭教師の一言で生徒が何をしても、基本的に家庭教師の責任ではない。もともと家庭教師はそのような役割を負ってはいないからだ。逆に、生徒が何か悪いことをしていても、家庭教師がそれを指導する責任はない。
つまりはこれが、相談役として適しているということだ。自分が何を言っても、家庭教師には責任がないから干渉しない。そこで干渉するような人間だったら相談役としては適さないが。
まあ、このような相談役については明日に回すことにして、とにかく、そのような手段で、いろいろと話を聞けたわけだ。その結果、たとえば学校で成績が悪かったり、とてもまじめに物事を考えているようには見えなくても、理論を理解することはできる場合が多いと思う。ただ、理解しようとしないのだ。それを理解することで得られるものがない、あるいは少ないと、直感的に思っているのだ。
確かに、それは否定しない。真実ほど重要で、なおかつ価値がないものはないだろう。つまり、そのときどきによって価値がまったく違ってしまうのだ。実際に必要になってみなければ、その価値はまったく理解できない。そんなものを苦労して理解しようとは思えないだろう。
だが、そこを1つ乗り越えた人間は、多くの真実を理解しようという意欲を得る。つまりは好奇心というものだ。これは逆という気もする。つまり、好奇心が先にあり、その先に真実があるのだと。しかし、現代では好奇心とはつぶされるものだ。幼少期に無数の好奇心を持つが、そのほとんどは謎のまま消えてしまう。それを解決しようとしたごく一部の人間は天才とか奇才とか呼ばれることになるわけだが…。
そのあとに、再び真実のために好奇心を持つ必要があるのではないか。で、そのような人たちにたいして、理論は大きな力を発揮するだろう。それは最初に述べたように、理論は真実を語る上できわめて強力な道具だからだ。
では、真実を理解しようとしない人間に対してはどうか…?いくら理論を語っても、何の力も持たないのではないか。簡単な例だが、カツアゲしようとする高校生に物事の道理をいくら説いても何の効果もないのと同じようなものだ。彼らにとっては暴力こそが力であり、理論は何の価値も持たない。理論を知ることは未来を築き上げることにつながると僕は思うが、そんなこと、彼らには価値として感じられないのだろう。あとは、感覚的に好きになれないというのもあるかも知れない。
好き嫌いの話も二日後くらいに書くかな。
真実だけでなく、理論もまた、相手によっては大きな力を持ち、あるいはまったくの無力だ。そして僕は、いまだかつて理論が通用しない人間というのに会ったことがない。まあ、もしかしたらいたのかも知れないが。とにかく、そのように理論をまったく理解しようとしない人間に対したとき、僕はどうすればいいのだろう。強い不安を感じるのだ。そのような人間がまともな社会人として生活しているわけはない、とも思うが、世の中は奇妙なことがたくさんあるから…。
2003.06.29 (Sun) 14:49:57