2003年02月21日(金) |
異なる価値観は受け容れるべきか |
2003.02.22 (Sat) 18:34 Viewer: 21 Access: 6344(+38) Letters: 2544 一度書いたのだが、 突然不正終了とか言って消えてしまった。 しかも、バックアップが出てこない。 なんなんだ、まったく…。
確か、計算物理学のレポートを書いたという話を書いて、 そのプログラムを友人に見せて、 Cでかくと思っていたのに Javaのままそいつが出してしまうかも知れないとか そんなようなことを書いた気がする。
しかし、消えてしまうとなんともやる気が失せる。 同じことを二度書くのもなんだか間抜けな気がする。
この日は、 友人の家に行って、 なんか聞きたいことがあると言うから、 少し話を聞くつもりだった。 しかし、僕は今週の金曜日だと思っていたのに 向こうは来週の金曜日だと思っていたらしい。 今度の金曜日と言って なぜ2回目の金曜日になるのか理解に苦しむが、 そういうふうに考える人もいるということだろう。
あとは、ゼミの課題がある。 たいしたことではないが、とにかく量が多い。 早めにやらなければ、終わらなくなってしまう。 やればできる気はするが、 いざやろうとすると、気分が乗らない。 この調子で行くと、本気で危険だ。 僕は最近、追い込まれてもやる気がしないし…。
このくらいか…。 なんか最近、浮世離れした感覚が抜けない。 なんか、世の中から少し離れているような気がしてならないのだ。 そして、現実のすべてに、リアリティを感じない。 昔から、そういう傾向はあった。 中学2年くらいからずっとそうだ。 その頃から僕は眠っていて、 今やっていることも、すべて夢なのではないかと思ってしまう。 なんか、中国のことわざにそんなものがあったような気がするが。 なんという言葉だったかは忘れてしまった。 ってことで、例のごとく辞書を引いてみた。 ああ、そうだ。盧生(ろせい)の夢だ。 邯鄲(かんたん)の夢とか、邯鄲の枕とも言われるらしい。 人生の栄枯盛衰の儚さをたとえているそうだ。 そんなことを言われてもなあ。 別に栄えることなど興味はない。 立身出世なんてしたくもない。 そんなことになったら疲れそうだ。 今のままでいい。これ以上、なにも望むものなどない。 ただ、今の生活を守れればそれでいいのに。 なぜ、進まねばならないのだろう。 時は、どうして止まらないのだろう。
すべての人が変化を望まなければ、 世の中は止まるのだろうか。 でも、きっとそんなことはあり得ないだろう。 世の中のほとんどの人が、 満足するということをしていない。 それはなぜなのかは人それぞれだが。 よく分かる状況であることもあるが、 僕よりもずっと恵まれているはずなのに さらなる変化を望む、理解に苦しむ人がいる。 でもそれは、それぞれの価値観なのだから 僕がとやかく言うことではないのだろう。
僕は基本的に、 異なる価値観であってもなるべく受け容れるようにしている。 あまりに違いすぎると、受け容れようにも理解不能だったりするが…。 でも、それで弊害が現れてきた。 他人の価値観に影響されすぎて、 自分が見えなくなってきたのだ。 変わりたくなんてないのに、 人に影響されて、短時間で僕の価値観はコロコロと変わってきた。 それでも、自分でもよく理解していない 自分の根幹をなす部分は変化していないと思いたいのだが…。 それとても、よく分からない。
ちなみに、あまり関係はないが、 僕とはまったく違う考え方の人がいる。 価値観は比較的似ているのだが、考え方が違うのだ。 どう違うのかと言えば、 その人は、異なる価値観を受け容れないのだ。 僕と違って器用な人なので、 見た感じ、相手に、その人の価値観を受け容れていると思わせている。 でも実は、丁寧に応対していながらも、 その人の価値観を拒否しているのだ。 価値観が合わないもの同士はそのまま離れていきそうなものだが、 この人の場合、その建前が見事なために、 価値観が合わないにも関わらず、 長く続く人間関係を築き上げている。
これはもしかしたら、 その人が女性であることも関係しているのかも知れない。 男だったら、いつも当たり障りのないことばかり言っていたら、 おもしろくないと感じられるかも知れない。 しかし女性であれば、割と古風な価値観、 すなわち、おしとやかで清楚なイメージに当てはまることになる。 もちろん、こういうのが好きでない人もいるだろうが、 ある程度受け容れられている価値観であることは確かだ。
この人と話していると、 僕はちょっとした恐怖を感じる。 恐怖と言うと大げさか。 微かな不安とでも言うべきだろうか。 その人は僕に、他人の価値観は受け容れられないのだということをいつも話す。 でもそれはつまり、僕の価値観をも拒否するということではないか。 そう感じてしまうのだ。
だから僕は、 悪口が好きになれないのかも知れない。 他の人は、悪口を聞いていても、 それが他人のことを言っていると確信できるのかも知れない。 しかし僕は、悪口を言っているのを聞くと、 それがいつ自分に向くかと、不安に思ってしまう。 誰かに第三者の悪口を言われたとき、自分は言われないのだという 保証はどこにもないのだ。 僕の知らないところで、 同じように僕の悪口を言っているかも知れないのだ。
きれい事でも構わない。 偽善と言われても結構だ。 それでも、僕は憎しみをぶつけ合うべきではないと思う。 人間は悪意を持たずには生きられないなんて嘘だ。 常に前向きに物事を考えていれば、 すべてのことをプラスに受け容れることができるはずだ。 もっとも、それだって環境によるが…。 いつもいつも悪いことばかり起きるような環境だったら、 どうしようもないかも知れない。
どうも、同じようなことばかり書いているような気がするな…。 物事の考え方なんて、 変わるとは言ってもそんな急激なものではないのだから、 毎日毎日自分の考えを書いていたら、 同じようなことになるのも仕方ないのかも知れない。 でも、あとから読み返せば、 これで自分の変化を読みとることができるのかも知れない。 変化のきっかけがこの日記に残っていれば、 あとで見たとき、おもしろいと思えるのかも知れない。
まあ、それでもいい。 漠然と考えるのではなく、 こうやって文章にすることには、 何らかの意味があるだろう。 そう思いたい。
2003.02.22 (Sat) 19:06
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