2002年12月06日(金) |
人よ、かくも不合理なる者よ |
2002/12/08 Sun. 22:13 String.length: 3538 Lines: 212 今日は、アルバイトの仕事をやろうと思っていたが、 時間がないな…。 いったいなにをしていてこんな時間になったんだろう? まあ、ラグナロクは除外するとして…。 いつの間にか、Internetをボーっと見て回っていたんだな…。
この日は、実は大学に行っていない。 起きたのが3時頃で、 どうしようもないからそのままラグナロクをやって終わりだ。
ってことで、 ブルーバックスの本についてでも。
認知心理学の問題なのだが、 2、4、6という整数列が、 どのような法則に従っているか、分かるだろうか? すぐに分かると思うが、答は無数にある。 ここでは、具体的に3つの数字を出して、 それを出題者が答えることによって、 その答を絞り込み、最終的に1つの答を決定するという問題になっている。 要するに、帰納推論を行う問題だ。 いかに少ない質問回数で答を導けるか、 ということを問われている。
実はこれ、人間の思いこみを指摘する問題だ。 例えば、これを見て、 偶数の数列だと思わなかっただろうか? もしそう思ってしまうと、 奇数の数字は答えに含まれないと思いこんでしまう。 僕は見ての通り、「2,4,6という整数列」としか言っていない。 そして、自分の考えが間違いであることを証明するということを、 普通の人間はしない。 偶数だと思ったら、奇数でないかどうか確認するなどということは、普通しないものだ。
しかもこの問題の場合、 たちの悪いことに、「2,3,4」という整数列も答の条件を満たす。 この問題は、そういう答を持っているのだ。
じゃあ、答は何か? ということだが、答は無数にあるのだから、 ここに書いた条件だけでは求まらない。 あくまでも出題者に整数列を繰り返し提示し、 それによって求めるしかないのだ。 いくら考えても分からないから、 もし考えている方がいるならやめた方がいい。 こんな日記をそんなにまじめに読む人がいるとは思えないが…。
で、正解の法則だが、 これ、実は「増加する整数列」という法則しかない。 ほかにはなにもないのだ。 2,4,6だからって等差数列であるわけでもないし、 偶数列でもない。
だが人間は一般に、 一度等差数列だと思いこんだら、 それを否定するようなことはなかなか言えない。 見ての通り、答は無数にあるのだから、 等差数列だということを証明する根拠などない。 論理式P, Q, P⇒Qがあったとき、 Pが偽なら、P⇒Qは常に真だ。 つまり、前提条件が成り立たなければ、 どのような論理も成り立ちうる。
もちろん、答が等差数列だと思ったとき、 本当に答が等差数列である可能性もある。 等差数列は答の条件を満たしているからだ。 ただ、僕が「増加する整数列」と言ったから、 この場合、等差数列は答でなくなっただけだ。
このようにひどくいい加減であるにもかかわらず、 一度決めたらそれを強く信じる。 他人の意見なら疑うこともできるが、 自分の考えだと、それを疑いもせずに信じる。 それはなぜか?
この本には、それについても述べられているはずだ。 しかし僕はまだ、この本を最後まで読んでいない。 ここであえて、自分なりの意見を述べてみたいと思う。 本によって何らかの意見を示されたあとでは、 自分なりの意見というのはなかなか考えにくい。 人間は、基本的に環境に影響されやすい。 自分が優れていると思い、受け容れたことならなおさらだ。 自分が拒否した事柄からも、何らかの影響を受けている。
僕は、それは人の処理があまりに早いからだと思う。 速度が速いのではなく、判断が早いのだ。尚早と言えばはっきりするだろうか。 僕は、どちらかと言えば鈍い方だ。 人のやることに、着いていけないことが多い。 そうすると、思うわけだ。 なぜこの人たちは、これほどまでに速いのか、と。
それは、思考の多くをショートカットしているからに違いない。 例えば、数学の問題を解くとき、 すべてを公理まで戻して解く人はあまりいないだろう。 数学はすべて公理の上に成り立っており、 公理まで分解することは、数学の深い理解につながると 考えられるにもかかわらず、だ。 それはなぜかと言えば、それは時間がかかりすぎるからだ。 すべての問題について、完全に論理的に矛盾のないように 解くなんてことをしているほど、人間には暇がない。 結果、ファジィでヒューリスティックな判断に頼るしかなくなる。 これは仕方のないことだ。 このように、問題を解くためにわざわざ時間を割いている 数学ですら、論理的に完全でない。 おそらくは、ソフトウェアでなく、人間のハードウェアが、 そのような処理をするようにできているのだろう。
だからこそ、決めたことは信じるしかないのだ。 すべての問題について、2,4,6という整数列から、 負の数もあり得るとか、階比数列(2倍、(3/2)倍、…)もあり得るとか、 んなことをいちいち考えてはいられない。 何かを決めたら、それを信じて進むしかないのだ。 このような勘の決定がどれだけできるかに、 その人間の価値の一端があるのだ。 決断力なんて、完全な思考を放棄した言いわけに過ぎないが、重要だ。 どこで考察を放棄するかということだ。 時間制約と問題解決の所要時間、 このトレードオフがあるから、その両方を満たす最適解が必要なのだ。
次、「A K 4 5」の4枚のカードがある。 これに適用されるルールは、 「もし、カードの片面にローマ字の母音が書いてあれば、その裏面の数字は偶数である」というものだ。 間違いないかどうか確認するためには、 最低限どれを確認すればよいか? ちなみにこれ、ケンブリッジ大学のジョンソン=レヤードという人と ジェイソンという人の研究らしい。 結果、正答率は4%だったそうだ。
ここで水平線を入れておく。 考えてみる方は、ここで止めてほしい。
まず、Aと4をめくると考えるのではないだろうか。 「ローマ字の母音」という記述や「数字は偶数」という記述があるからだ。 しかしここで、P⇒Qを考える。 Qが真ならば、P⇒QはPの真偽を問わず、真だ。 4という結果は、法則の真偽に影響を与えないということだ。 数字が偶数だからって、その裏が母音だとは、 誰も言っていないのだ。
では、Aだけか? Aは確かに、Aの裏が偶数か奇数かで、 このルールが成立しているかどうか分かる。 では、Aの裏が偶数なら、法則は成立していると言えるのか? …それは、否だ。
なぜなら、5の裏がもし母音だったら、 このルールは成立していないからだ。 母音の裏は偶数でなければならない。 5であってはならないのだ。 気づいただろうか? P⇒Qと¬Q⇒¬Pとは、同値だ。 これはつまり、対偶だ。数学でやった覚えがあるだろう。 母音の裏が偶数なら、奇数の裏は子音でなければならない。 前にも書いたが、論理を考えるときに対偶を取ることは、 ある程度有効な方策だ。 一応証明を書くと、
P⇒Q ⇔¬P∧Q (含意の定義) ⇔Q∧¬P ⇔¬¬Q∧¬P (Qに対する二重否定) ⇔¬Q⇒¬P
となる。 知らなければ難しく感じる可能性もあるが、 極めて簡単な式変形だ。 間違ってはいない…、はず。 まあ、これを本当に間違っていたら、 次の知識情報処理の単位は望めないだろう。 この講義ではたまたま、対偶は扱っていない。 もし講義で扱っていれば、間違いないと言っていいと思うのだが。 だいたい、命題論理ができなかったら、 導出原理なんてどうやればいいのか…。 ましてや、具体的な問題解決なんて遠い夢だ。
くだらないことで長くなったが、 要するに、論理的に極めて当たり前のことが、 96%の英国人大学生には分からなかったということだ。 Qが真ならばP⇒Qが真であることは、 おそらくよく知っているに違いない。 にもかかわらず、4の裏は母音か子音か、 確認した学生が46%もいたらしいのだ。 Aだけを確認した学生は33%だそうだ。
このように、先ほどの2,4,6と違って、 与えられた条件でも論理的に答を出せる問題すら、 多くの人間が間違える。 これが、ショートカットしているのではないかという根拠だ。
だからどうしたと言えばそれまでだが、 まあ、もうちょっと考えるようにした方がいいかもよってことだ。 論理的な思考がつまらないとか言ったって、 論理的に過誤を犯しているようでは、 現代のComputerにも、知能的に劣るのだ。 じゃ、知能ってなに? と言われると困るが。 自分ではよく分からないので参考までに挙げておくと、 学術的には、知能というものは定義されていない。 よく分からなくて、誰にも定義できないのだ。 知識についても言えることだが、 定義なしで、よく研究したりものを作ったりするものだ。 従来の研究者にはない、柔軟な姿勢があるのだろう。
今日の分はこんなもので。
2002/12/08 23:32
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