今夜、中京大学市民文化会館に中国障害者芸術団の公演を観に行ってきた。私が現在勤めている福祉施設に招待券が送られてきており、私も行くことになったのだ。なかで「千手観音」の演目がよく知られたこの芸術団だが、二十数名の聴覚障害者による一糸乱れぬ「千手観音」の踊りは圧巻だ。他の演目も、十分に鑑賞にたえうるレベルだったとは思う。だが、いまひとつ感動が湧いてこないのは何故なんだろう? 公演内容そのものへの評価というより、「障害者を持っていながら、あそこまでできるのは凄いね」とでもいう点が評価されている、そんな印象を強く持ってしまったからだろうか。 「障害者」ということで言えば、先頃ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した全盲のピアニスト・辻井伸行さんが、最近巷でも話題になっている。確かに「全盲の」が枕詞のように使われてはいるが、あれは障害がどうのこうの言うレベルではないだろう。テレビで演奏している場面を見た時の私自身の感想は「あの指使いは、信じられない」「凄いとしか言いようがない」といったもの。楽器の演奏に何らかかかわる人間からすれば、あれは神業として映るのではないだろうか。今はまだ「全盲の」という言葉が前面に出ているが、いずれ「全盲」であることよりもピアニストとしての力量が大いに語られる日が来るのではないだろうか。 レイ・チャールズやスティービー・ワンダーといった世界的アーティストは、その音楽性がそのまま正当に評価され、彼らが「視覚障害者」であることは半ば忘れられているように思う。彼らの音楽の持っている力、その背景には「視覚障害者」として生きてきたということも多分に含まれてはいるのだろうが、音楽そのものが評価されているのは、彼らの音楽がきわめて高いレベルに達しているからだろう。 音楽活動を細々と続けている私には、レイ・チャールズやスティービー・ワンダーのような才能もない。けれども、私の低いレベルであっても聴いている人に何らかの感動を届けられたらと思う。才能がないのなら、あとは捨て身でいくしかないのだろうな、きっと。
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