| 2002年05月13日(月) |
エロティズム |
先日ここの日記で「あまりにも恥ずかしい文章を、おおっぴらに不特定多数の人に読ませることが出来る人って…私には理解不能」と書いた。 はっきり言っておくけれど、これは「文章が稚拙な小説」とか「文法的に誤りが沢山ある小説」等のことを差しているわけではない。 確かにそう言った小説も、不特定多数の人に読ませるのは勇気がいることと思う。 でも、そうやって、正しい批判や批評を受けられるようになれば、文章は上手くなれると思うのだ。 それに、誉めてくれたら、もっとやる気になるだろうし。 批評や批判を受けたくなければ、やはり公開は避けた方が良いだろうけれど。 で。 なにが「恥ずかしい文章」かというと。 そう。エロ小説のことである。 私はこの「エロ」という言葉自体が大嫌いだ。私が友人のサイトで書かせて貰っている小説は、はっきり言って「大人向け」であるが、それを差して「エロ小説」などと言う輩には、読んでもらいたくないほどである。 大体、言葉の響きが下劣だ。 でも。 私は大人である。だからそーいった類の小説を読むことは、楽しみとして認められている立場だ。 ということで、友人のサイトに投稿される小説を読むわけだが… 「目的はナニで、それが書きたくて文章にした」 という作品(と言っていいのかすら、わからない)が多いこと、多いこと。 んで、それらを読むと 「…私の小説もこういう視線で見られているのか?」 と怒りにも似た感情が湧いてくる。 はっきり言おう。 小説の中で表現されるエロティズムというのは、手段であって目的ではないはずだ。目的に設定された時点で、それは小説と言わなくなると思う。 小説じゃなきゃ、何だ、と聞かれると困るんだけど。(おい) 大体、おおっぴらにされたらそれはエロスの香りが薄らぐというものだ。 人間、チラリズムのうちに色香を感じるものである。 例えば和服の襟足から仄見えるうなじであるとか、ロングスカートを持ち上げたときに見えるか見えないかの、膝小僧であるとか。 …ピアノの足にさえエロティズムを感じた、ビクトリア朝時代の人間を見習って欲しいものだ。(笑) |
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