喪中ハガキ - 2005年12月27日(火) 11月に入るとポツリポツリと 喪中ハガキが届き始める。 不謹慎だが数ある風物詩の 一つだと思っている。 今年、私宛てではなく母宛てに来た 一枚の喪中ハガキに とても強く心を揺り動かされた。 母の従兄弟の子供のマー君が 今年亡くなった。 享年58歳であった。 私が幼い頃、母を「お姉ちゃん」と 慕っていた彼の事を母が呼ぶように 私たち姉妹も自然にマー君と呼ぶようになった。 私が高校を卒業し就職が決まったお祝いに 当時、化粧品会社の北海道地区で 営業部長をしていたマー君は 私を三越の一階にある化粧品売り場の店頭に 連れて行き化粧品を一式プレゼントしてくれた。 十八歳の私には眩しいばかりに綺麗で大人に見えた 美容部員のお姉さん達の「まぁ、部長!!」と言う ちょっと媚びたような言い方に 思わずここで「マー君」と呼びかけるのは いくらなんでもまずいだろうと思っていた。 基礎化粧品から始まって本当に何から何まで 一揃い、揃えてもらった化粧品を使い切る前に マー君は本社へ栄転していった。 それから二十年近い月日が流れた。 経営トップのずさんな経営計画と その後の粉飾決算の露呈により 突然にすっかり傾いてしまった会社を立て直すため 奔走していた時にマー君は病で倒れた。 末期の大腸癌。 余命半年の告知を受けたマー君は 仕事でずっと単身赴任であった留守宅へ帰った。 ここ、札幌へ。 手術はしない。無理な延命治療もしない。 会社を休職し自宅での療養を希望したマー君。 経済新聞の見出しに大きく 会社の名前が出るたびに 「マー君って今、幾つだっけ?」 「もう定年だっけ?」 「そんな年だったっけ?」 「いや、でも札幌に戻ったって聞いてないけどねぇ」 こんな取り留めのない会話を母と何度か交わしていた。 マー君は自分の家族と 兄弟姉妹だけに現状を連絡し 自分が札幌に戻っていることも あと半年の命であることも 固く口止めをしていた。 子供達はすでに独立し家を出ていた。 「俺がいなくなったらお前はこの家に一人だから」と 玄関ドアを強固なものに換えたり 「年をとったら大変だから」と 低い位置に棚を作ったり 階段に手すりをつけたりと 大切な人を残して逝かなくてはいけない想いを 形にしたと亡くなってから聞いた。 あと半年の命と聞いて どんな想いだったのだろう。 本人もその家族も。 奥さんからの喪中のハガキには 印刷の決まり文句の後に 手書きでこう書いてあった。 大好きでした。 いつも心ときめいてました。 亡くなる四日前に 「俺がいなくなったら おまえだけの人生だから 好きなように生きて欲しい」 と言われました。 主人の思いを心に 大切に生きていきます。 大切な人を残して逝かなければならない人の想いと 大切な人を見送らなくてはならない人の想いが どっと心に流れ込んできた。 涙が溢れて止まらなかった。 たった一枚の喪中ハガキだけれど それぞれの想いがそこにある。 Marizo -
|
|