2006年04月04日(火) |
SF企画感想群(^ー^)2 |
麻生新奈さんの【宇宙人(スペーシアン)になりたかった】
宇宙で一度死んだ経験がある少年と、チャレンジャー事故で亡くなったエリソン飛行士の心の出会いのお話。 チャレンジャーの事故は、たしか中継か何かで見ていたかして、「はぁ?」っと思ったのをおぼえています。 それからしばらくの後、アナウンサーの事故を伝える声が響きました。 それくらい、あっけなく爆発してしまい、何が起こったのか、誰もすぐには把握できなかったような状態だったと記憶しています。 宇宙空間ではなく、何と打ち上げの失敗という悲惨な事故で亡くなってしまったのは、本当に無念だったかと思います。 振り返れば、宇宙開発は今までも多くの事故で犠牲者を出し、また、アポロ13号のような危機的な状態もあり、で、けして夢だけでワクワクドキドキできるものではなかったです。 それでもやはり、私たちは宇宙に憧れてしまいます。 いつか、宇宙で当然のように暮らしているのでは? などと考えて夢を膨らませます。 それは、たとえ宇宙空間に人が住むようになったとしても、さらに先を目指すように、同じなのかも知れませんね。
不思議なことに、宇宙の理が解明されればされるほど、世界は奇想天外な発想になっていくような気がします。(笑) この作品の中で「魂」(サイキ)の存在は、超ヒモ理論と結びつけられていて、幻想どころか科学的。 いや、もう科学が幻想的な世界になっちゃうのか? 我々が把握できない次元があと6もあるとしたら、それで科学的に説明されれば、そりゃあ幻想的だと思います。 本来のSFの楽しみのひとつは、科学的に説明ができちゃいそうな幻想世界の構築かも知れないですね。
で、前置きが長くなりました。感想……というか、思いのまま。
猫型ロボットである僕(カトゥルス)の口調は、やはり16歳の少年らしさを残している。でも、淡々と自分の手の中で死んだ少女のことを語る。 しかし、実は強烈なトラウマとなって、僕を縛り付けていた。 *引用* エミリーのきれいな透明宇宙服は爆発で損傷し、僕のノーマルタイプは穴は開かなかったがヒーターが壊れた。 エミリは数秒で真空に殺され、 大人たちがボクらを発見したとき、ボクはエミリの体を抱きしめたまま、闇のなかで凍死していた。 *引用終わり* たったこれだけの表現だけど、僕にとって死んでゆく時間がどれほど過酷だったのかは、充分に察しがつく。むしろ、簡潔な一人称だからこそ、受けた傷の大きさがわかるというものだ。 宇宙は、どんなに慣れても安全な世界ではない。さらに進んでいけば、さらに危険が伴う。 僕は、16歳の少年だ。なのに、なぜ、猫型ロボットの姿を選んだのだろう? それは、死はもう怖くないけれど、誰かが手の中で死んでゆくのは怖いという、ひとつの逃げではなかったのだろうか? と思う。 僕とエミリは、宇宙の果てに夢を見ていた。そこにあった事故やら死は、ただ冒険をますますはらはらドキドキにするための、手段にしか過ぎなかったのではないだろうか? そして、実際に死んだ時。僕は夢のほうを捨てて、死を乗り越えたのかな? と思う。 エリソンとの共鳴が、僕という少年に、「宇宙の夢」の素晴しさを教え、犠牲を乗り越えてさらに生きることを思い出させてくれたのだろうか? 僕が人間に戻るのは、宇宙人になる夢のためだ。それを未来へ繋ぐため。 悲惨な事故を描いた作品でありながら、希望の繋がる結末だったと感じます。
で、微辛なところを。 とても読み応えある作品ですが、チャレンジャーの事故と未来の宇宙に生きる少年を結びつけるのに、若干、強引さを感じました。 おそらく、お題を入れなければいけないので引っ張られているところと、かなり進んだ未来世界と現実世界で起きた事故という温度差が、こなれていないのだと思います。 二つの世界が、この作品の特徴であり、面白さでもあるのですが……。 あとがきを読んで、チャレンジャー事故について書きたいという強い気持ちがあったとのこと。 思いっきり一本柱の重々しい作品を、ちょっと期待したくもなってしまい、辛いところを入れておきます。(^ー^)
***
あ、レスに無理っす、と言われてしもうた。。。 でも確かに一本柱で重々しくしたら、SFではなくてノンフィクションになってしまうか?
|