2006年03月20日(月) |
【ドラマ】愛と死をみつめて |
実は私、あまり死を取り上げるドラマが好きではないんですよね。 なんとなあーく「お涙ちょうだいいたします」って気がして。 なので、このドラマが40年もたってリメイクされると知って、今更かよ? と思ったのも事実。で、全然見る気がしなかったのも事実なのです。 なのに、二夜の途中から見ることになってしまった……。 理由は、お昼にやっていたダイジェスト版を見て、むむむ……これは見てもいいかな? と思ったから。 だんなとのチャンネル権争いで最初を見損ねてしまったけれど、おおまか見れたと思います。
なぜ、これを見てもいいかな? と思ったかというと、まさにそのまま……とまではいかないのだけれど、当時の世相、アイテム、景色を、できるだけ忠実に再現しようと試みられていたから。 ただ、泣かしてやろう……という目的のためならば、もっと簡単に現代に置き換えて脚本を書けばいい。 ミコもマコも、もっとわかりやすい現代の若者に置き換えればいいのだ。 ファッションもそう。あの学生服姿は今じゃ考えられない。女の子のブラウスやスカートのデザインも懐かしい。 全体的に、どこか今の韓国ドラマのような「くささ」がある。(笑) よく、韓流ブームの原因は「日本が忘れてしまった純粋さ」にあると聞くけれど、まさに古きよき時代なのかも知れない。 このドラマは、ただ悲しい愛の物語を描こうとしているのではなく、日本のその時代もちらり……と見せるような演出がなされている。 特に、ミコが我が家のお正月を語るとことなど、忘れてしまった日本のお正月の姿を思い出してしまう。そして「マコのところはどうですか?」という、地方によって伝統が違うことも、実に当たり前のように教えてくれる。 当時の人が夢中になった【純愛ドラマ】を、できるだけリアルに飾り少なめに再現しようとする制作側の意図を感じて見ようという気になり、その方向性に好感が持てたので、満足できました。
特に印象的なのは、ラストのマコがマスコミの攻撃にさらされているところです。 純愛を求める人は、時に残酷だ。 恋人の死を一生背負って生きていくことを強要し、期待を裏切ってもらいたくないのだ。 これが、どれだけわがままなことなのか、自分の理想像を崩された事で傷ついている人々にはわからない。 その事実をつきつけたことで、このドラマはまさに【愛】と【死】をみつめたものになったと思う。 正直、映画のように凝った作りでもないし、完成度は高いとは思わない。泣く事もなかった。 でも、ひたすら作り物の安っぽい感動を求めようとする今の傾向にあって、一石を投じる作品であったと思う。
思えば、なぜ、私は「お涙ちょうだい、かわいそうな死」を毛嫌いするのだろう? 実は、この「ミコとマコ」があたえる影響が大きかったような気がする。
私が生まれて物心ついた時に、この「ミコとマコ」のお話は日本中を涙に包み込んでいた。 『マコ〜甘えてばかりでごめんネ、ミコは…とっても倖わせなの〜』(引用)という歌を子守唄代わりに育ち、やや大衆的な刺激は悲劇に満ちあふれていた。 その影響はずっと後を引いていて、少女漫画も病気で先立つ少女とそれを見守る少年の物語が王道となっていた。 実話が元になっているけれど、どんどん虚構がドラマチックに盛り込まれていき、本当の愛や死から遠のいたもので育ってきたように思う。 ミコの死から五年後、「君が死んだら生けていけない」と言い切ったマコはあっけなく結婚してしまう。 そのことに、美談を求める人々は許す事ができなかった。 冷静に考えれば、恋人の死から立ち直って生きていくのは、人間として正しい生き方だ。でも、自分の中で美談に作り替えてしまった民衆には、落ちたヒーローとなってしまったのだろう。 その騒動すら、私にはうっすらと記憶がある。
中学校時代【15歳の絶唱】という本が出た。これは、純愛ではなく、骨肉腫に冒されて15歳で命を失った少女の闘病日記だった。 同じ年代の少女とあって、私はずいぶんと涙してかわいそうだと思って同情した。 でも、その中に「この子は悲劇の主人公で、死にまっすぐに向き合って、負けてはいけない」という期待がなかったのか? というと、嘘になると思う。 ごく普通の少女らしい日記部分よりも、病気に苦しんでいるシーンや悩んでいるシーン、一生懸命自分を奮い立たせようとしているシーンばかりに目がいった。 死を理解するには、実に私は死から遠すぎて、他人の日記を読むだけでは、とても実感できなかったのだと思う。
本当に死が身近にあると気がついたのは、友人が死んでからだ。 そして、死というものが美談になんかならないことを、身をもって感じた。 だから、おそらく死を美談にしようとする作為に、それだけで「ごめん」って気になったのだと思う。
私の成長期に、純愛、死の美談、死に立ち向かうけなげさ……などを植え付けるもととなったのは、おそらくこの「ミコとマコ」だったに違いないと思う。直積的ではなくても、間接的に、この二番煎じ・三番煎じを狙ったものに影響を受けた。 大人になって虚実にうんざりする冷めた目を持つに至り、また、このドラマに戻って考えさせられた。 死んだ人は成長しないが、生きている人間は成長する。 愛は、いつか昇華しなければ毒になる。清らかな水も流れが止まれば汚れてしまう。 この物語の終わりはミコの死ではなく、今だ続いているのではないだろうか? 大事な人の死は、時間が嘆き悲しむという行為や思いを風化させてゆく。だが、その時に受けた心の傷は、決して癒えることなく、刻まれたままだ。 ミコの死はマコの人生に大きな影響を及ぼしている。それは、マスコミに騒がれた、叩かれた、などの要因がなくても、である。 時に幸せな思い出、時に深い後悔、そして、そのときの経験が、考え方や生き方に強い影響をあたえてる。とすれば、ミコとマコはいっしょに人生を歩んでいるともいえると思う。
***
完成度が高くないと書きましたが、それは、純愛の期待に答えようとする面と、人間ドラマをあからさまに描いて真実の姿に迫ろうとする面と、なんとなく中途半端になっているかな? と思ったからです。 泣きたいと思ってみていたら泣けない、辛辣に見たいと思ったらわざとらしい……のような。 これって、テレビドラマの性質上、仕方がないのかな? とも思いますが。
|