2006年03月16日(木) |
【漫画】風の谷のナウシカ |
映画の感想を書いたら、読者の方から「漫画もぜひ読んでみてきださい」とおすすめいただきました。 実は、3巻まで漫画も読んでいたはずなのですが、かなり昔の事で記憶も確かではなく。 しかも、映画をみたすぐ後ぐらいだったので、映画よりも重くてくらい内容だった……というイメージしか残っていませんでした。 でも、ずーっと気になってはいたんですよね。 なので、これを機会に読んでみることにしました。
物書きの悪い癖なのか、映画を見たあとなのか。 ちょっと比較対象ばかりになってしまうかも?(^0^; 思った事すべてを書ききるには、もっともっと時間が必要です。
まず、前々から思っていたのですが、宮崎駿ってすごいな。ってこと。 作者には自作愛というものがあり、譲れないところ! ってあると思うんですよ。 あれだけのお話を、キャラのを変更・統合してまで、映画向けに作り変えるというのは、ものすごい冷静さと客観的な判断が必要だったのではないだろうか? ってこと。 おそらく、作者本人よりも、この作品を愛するファンのほうが納得するのに時間を要したのではなかろうか? この原作と映画は、全くの別物だと思う。
映画では、風の谷近郊で終始しているけれど、原作はもっと広く、むしろ風の谷はどこかに置き去りになっている。ナウシカは最後の最後まで風の谷に戻らない。戻ったとも言われている……という結末だ。 原作でナウシカがいっしょに過ごしたはずの土鬼たち。これらがすべてペジテ市民と風の谷の婆様に吸収統合されている。 ナウシカは古の盟約により、戦いに馳せ参じる。父・ジルも原作では誇り高い戦士であり、映画以上に強い影響力を持っている。 つまり、原作のナウシカは、好き・嫌いに関わらず、戦士としての使命を果たすために戦いに自ら赴く。 映画は、ガンシップこそ無敵の戦闘機として紹介されてはいるけれど、あくまでも谷は平和な隠れ里のような描き方をされている。そこに他の国の介入と巨神兵が運び込まれてしまったことで、運命が動き出す……という流れだ。 そして、何よりもテーマが違う。 違う……というよりも、発展の仕方が……というべきだろうか?
戦争の悲惨さや無益さを訴えているのは、原作も映画もいっしょ。 人は、本来悪ではない。敵に対する恐怖と怒りが、本来の姿を失わせ、戦いへ、破壊へと向かわせる。 映画は、お互いが憎しみを越え、心を開きあえば、いつか再生への希望が開けると結んでいる。 が……原作では、さらにその希望の道まで破壊し尽くし、「我々は何者か?」「神とは何か?」のような、究極の命題にまで突き進んで行く。 つまり、愚かだ、間違いだ、と知りつつも、戦争を繰り返し、この星の破壊を加速させてしまうことが、「ただ心を開きあおう」という悟りを開くことで乗り越えることができるような、単純なものでもないことをつきつけてもいる。 実は、映画の中にもある何気ないアスベルの台詞が、原作でも重たい意味を持っていたような気がする。 腐海ができたわけ、蟲たちの役割を話すナウシカに対して言った言葉。 「そうだとするとぼくらは滅びるしかなさそうだな」
原作と映画の大きな違いといえば、ナウシカの神格度だ。 映画のラストは、ナウシカが王蟲によって癒され、復活し、伝説の英雄と重ねあわされる奇跡的なシーンで終わる。 でも、その場所は風の谷の近くであり、ナウシカはアスベルに抱き上げられ、一少女として風の谷で暮らすだろうことを示唆して終わる。 だが、原作はどうだろう? アスベルと抱き合うのはケチャであり、ナウシカは寂しそうにそれを見ている。 これは、どういうことだろうか? ナウシカは、神格化された神のように人々の希望になった。 もう、普通の少女としては、生きることができなくなってしまったのではないか? と思われる。 神格化されたナウシカは、風の谷でも生きられない。 神は、絶対的な存在ではなく、人々が祭り上げた時にはじめて誕生するとすれば、ナウシカは立派な神なのである。 だから、ナウシカは風の谷にも戻ることができない。 ただ、単純に再生への道を信じて生きる人たちの希望になり、見守るだけだ。真実は、語らぬままに。 最後、役割を終えたナウシカが故郷へかえったのか、同じく神格化された森の人々とともに生きる事にしたのか……。 最後は普通の人として生きたのか、それとも神のまま去ったのか? くらいの違いを感じます。
……と。 この続きや別伝があるのか、ちょっとわからないです。 あくまでも初読み感想です。 もしも、あるよーなら、誰か教えてくださいね。(^ー^)
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