我が実家は真言宗である。 ……といっても、私に信心は求めないでね。あまり神様は信じていません。 というか、信教は神様ではなくて、思想上の教えのことだと思っているから。
我が父はごく普通の日本人だが、祖母が亡くなって以来、すっかり信仰が深くなってしまった。 朝は必ず読経する。母も一緒に読経する。 一時期は付き合わされるのが嫌で、家に帰るのを嫌ったものだが、最近はそれを理解したのか、自分たちだけで読経し、付き合わされることは稀になった。 でも、年明けたらならば、必ずお寺の護摩焚きに行く。
まぁ、これはなかなか悪くはない。 護摩を焚く炎は、時には不動のごとく、時には鳳凰のごとくに舞い上がる。 坊さんのお経を聞きながら、ぼうっとその炎えを見つめているのも悪くはない。 が……。 どうも、世襲したこの坊さん、私は今一ピンとこないのだ。 我が両親の心のささえになるには、あまりにも普通過ぎるというか……。 坊さんには坊さんなりの神々しさがほしいといえば、わがままなのかも知れないが。 今年のお経も、何かひとつ昨年よりもはしょった感じがしてならない。 気のせいか、年々お祈りにくる人も減っている。 当然だろう。若い世代はいない。たぶん、私、41歳が最年少だろう。それだって、両親の誘いがなければ行かない。 今年はなんとご焼香まで回ってこない有様だ。
人はなぜ神に祈るのだろうか? それぞれだろうけれど、父にしても母にしても体がよくなるとか、幸せがやってくるとか、そんな期待を抱いているとは思えない。 期待ではなく、希望なのだ。 だから、聖職にあたる人は人々の希望にこたえるべき資質が要求されてしまう。 なにも、死人を生き返らせる奇跡もなにもいらない。ありがたい人間でありつづけるだけで、人は救われる気がする。 そして神様も常にありがたい存在であってほしい。
母を海外旅行に連れて行った時のこと。 ノートルダム寺院の薔薇窓やミラノのドウモに感動したらしい。 疲れて一休みする場所は、カフェなどでななくて教会だった。そこにいけば静かな空気と厳かな雰囲気、そして心休まる神の存在を感じたらしい。 どの教会にもお賽銭をして蝋燭を掲げて祈るのが、心をうんと楽にする方法。1杯のコーヒーよりも効果的だった。 不思議なものだが、人間が一生懸命守り伝え、祈りつづけた物には、何か大きな力が宿る。
2004年は、願わくは信教の違いによる戦争がなければ……と思う。 当初、その宗教を起こした人の心の中には、人々がいがみ合わずに幸せにくらしていくべ知恵がつまっていたはずだ。 本当に神の声を聞いた者ならば、人類を滅ぼしかねない道に招くはずはない。 宗教こそが、世界平和を実現する大きな力を持っているのではないだろうか? などと、私はひそかに思っていたりして……。
正月色々想いをはせながら、まぁ、般若心経でも唱えてみる。 (80%くらいなら暗記しているかも?)
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