| 2003年02月12日(水) |
雪の思い出3(暗め、長め) |
さらに続き(これで終わり)。
姉は、山形市内に就職が決まっていたが、急遽、上京して就職す ることになり、わたしも上京して姉と一緒に母の妹宅の世話にな ることになっていた。 母は、裁判が有るのでその土地を離れることができなかったから。
転校の手続きを取ることになって、一度転校先に決まった学校に 挨拶に行った。 詳しいことはなぜだか全く覚えていない。(東京の日野市だった。) ただ、窓から外を見て緑が多いなと思ったことだけ覚えている。
ところがその後事態は一転し、わたしの上京は止めになった。 母がその土地にいるためには市営住宅に住むしかなく、そのため には扶養家族が必要だったのだ。 こうして、姉だけが東京に残ることになってしまった。 からからお天気の東京と、雪の降りしきる山形を2回も行き来し たのは、母とわたしと唐草模様の風呂敷きだった。 (教科書とか入ってた。(^^;))
姉一人残して帰る網棚に唐草模様の風呂敷きひとつ (市屋千鶴 2000.11作)
市営住宅に入るまでは、母の実家においてもらって、元の学校に 通った。 バスで市内まで出ると、先生が車で学校まで乗せていってくれる という、なんとも贅沢な通学だった。 同じ市内の中学校への転校は4月1日付けだった。
母の実家では、父のせいで借金を背負うことになったという負い 目が有ったから、なるべく人の居ない所に居るようになっていた。 まだまだ雪の降り続く3月、祖母がわたしにこう言った。 「なんぼお前のとうちゃんが悪いことをしたからといって、 お前が悪い訳ではない。親は親、子供は子供だから。 大きな顔をしていていいんだからね。」 と。 わたしはその言葉に救われて、何度も何度も涙を拭いた。 不思議なことに、一連の出来事のなかで、泣いた記憶はこの時だ けしかないのだ。 わたしは、この時、初めてほっとしたのかもしれなかった。 その祖母も、3年前に他界した。 祖母の告別式は、やはり3月だった。
雪の弥生に吾を救いし祖母を葬送る やはり弥生の雪ふぶくなか (市屋千鶴 2000.11作)
母と二人で市営住宅に住むことが決まり、1階の屋根近くまで積 もっている雪をかきわけて、布団などを運び込んだ。 もちろん二人だけだった。 なにしろ雪が多いので、タンスなど変形しないものは運び込めな いままだった。 とりあえず、布団と米しかなくて、ご飯を炊いたがオカズが無か った。 近くのお店でおかずになりそうな安いものを手に入れた。 知っている人はかなり少ないと思われるのだが、納豆昆布という もの。 昆布を細かく刻んであって乾燥させたもので、水分を加えると粘 り気が出る。 しょうゆで納豆のようにして食べる。 ご飯と納豆昆布。 それが母と二人の生活で初めて食べた食事だった。 布団に埋もれるようにして食べたし、他には何も無かったが、と にかくうまかった。
初めての母と二人の思い出は雪とお米と納豆昆布 (市屋千鶴 2000.11作)
雪国で暮らしている以上、雪の思い出は数え切れないほどあるの だが、両親の離婚にまつわるこの一連の出来事は、わたしの中に どうしても消すことのできないものを植え付けていた。 書いても書いても、涙を流さずに書くことはまだできないでいた。 出来事を共有していた母は、懐かしく語り合うことも無いままに 亡くなった。 姉も知らない、亡母も知らない、誰も知らないわたしの気持ち。
母であり姉でありなお己自身なのだと思う雪はふるさと (市屋千鶴 2000.11作)
人には話せない記憶を持つ人はたくさんいる。 そんな記憶を持っていることは、傷であって罪ではない。 その傷に縛られて周りが見えなくなってしまうことが罪なのだ。 自分の周りに存在する優しいものたちを、素直な目で見ることが できないでいることが罪なのだと思う。 言葉にすることは、その記憶を傷を、自分のものとしてきちんと 認識することなのだと思う。 言葉にすること。 そしてその言葉をただ聞いてくれる人がいること。 それが、その記憶を傷を、思い出に昇華するためには大切なこと なのだと、わたしは短歌と出会い、短歌の世界の人々と出会って からそう思うようになった。 大切なものは、すぐそばにある。
語ることのできぬ記憶を持つことが罪ではないと諭されている (市屋千鶴)
暗い話を最後まで読んでくださったみなさま。 どうもありがとうございます。
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