夢見る汗牛充棟
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手紙の断片
朝から雨が降っている。 灰色の空、ぼやけた大気、澱んだ風。 実感に乏しい気だるい午後。町全体からだらだらと水の音がする。 空から音もなく落下する水滴が、木に、建物のモルタルに、 アスファルトの路上に弾けて音をたてている。いつまでも止む事がない。
雨は、はたして世界を洗い流して美しくするのだろうか。 汚濁や塵をふんだんに取り込んだ水は、空から堪えきれなくなって落ちてくる。 多分もう一度大地を汚して、人間に仕返しするためだ。
フローリングの部屋に座布団を敷き、両足をだらしなく伸ばして座る。 彼女の足の上には、分厚い封筒がある。今朝郵便受けにあったものだった。 重たい茶封筒を開けると、中には何通もの手紙が入っていた。 『あなたへの手紙をお送りさせていただきます。』 というメモ書きが付してあった。知らない筆跡で名前もない。 そして、手紙には消印はなかった。 誰かが直接ここに投函していったのだ。
封筒を開封する手は、緊張のためか汗ばんでいた。 古くなった紙のさがさした音。 黄ばみかけた便箋には、個性があるのに美しい文字が綴られている。 視覚が記憶を擦る。これは知っている筆跡だ。
『こんにちわ。ハル、元気でやっている?私は…』
そう、いつも羨ましかった。 彼女は、こんな字を書いたっけ。
ぐにゃりと、大きく時間が歪んだ。
そう。
確か、あれは大きな満月の夜だった。 今でも紅い丸い月は、呑まれそうな恐怖を与える。 いや、憧れだろうか。
思い出すのは、それは。 寮の窓をこっそり抜け出して、夜を散歩する二人の影。 春日のことを唯一人ハル、と呼んだ少女がいたこと。
記憶はそこに遡る。
「今日の月は不思議な色ね。血の混じったような赤色…。」
「……そう、沙夜、ここを出て行くのか」 「ええ。」
頻繁な夜の散歩。
それは二人にとって、なにも特別なものではなかった。 寮の窓をそっと乗り越えてあてもなく歩き、とりとめもない話をする。 曖昧で、穏やかで心地よい一時。それだけのことだった。
「ハル、話があるの」 沙夜は、そう言って春日を誘った。
「手紙がきたわ。長いこと揉めていたのだけれど、両親がやっと 離婚することになったから。私は、母と一緒に、ね。母には私を ここに通わせるなんて無理だから。多分、実家の方に行くのでは ないかしら。」
声は、淡々として落ち着いている。 春日が感情を面に表さないのと違った意味で、沙夜は抑制がきく。 落ち着いて大人びた少女だった。
二人は似ているようで違っていた。 例えば、二年になって、沙夜はクラス委員になり、 春日は図書委員になった。そういう違いだ。 沙夜は誰にでも優しく、常ににこやかで、姿かたちも美しい。 美しいけれどもどこか危うさを秘め、儚い沙夜。
気遣わしげな春日の視線に気がついたのか、沙夜はにこりと微笑む。 常と変わらないように。
「いつまでも揉めてるよりもずっといいわよね。 そういえば、ハルと逆さま。」
「…ああ。そういえばそうだね。」
春日には母親がいない。 父親と二人になって、春日は全寮制の今の高校に転入してきた。 金と地位があるが、暇はない父親の選択としては妥当なものだった。
「沙夜は父親がいなくなって、この学校を出て行く。 私は、母がいなくなって、この学校に来た。…本当だ」
「ねえ」
沙夜は、くすくす笑う。春日もつられて笑った。
少女たちの忍びやかな笑い声は、夜の大気に瞬く間に拡散して消えてゆく。
しばらく心地よい沈黙に身を浸し無言で歩いた。 いつしか、二人は校舎のある区画まで歩いて来ていた。 明るい月と、ぽつぽつ灯る人工の明かりが、敷地内を優しく照らしていた。
「いやね、結局ここに来てしまうのね」沙夜が呟く。
結局、今は、学校にしか居場所がないということだ。 ここにいればこそ特別なのだろう。 だから、ここに吸い寄せられるように集まってしまう。
憂鬱だが、安心できる硬い檻。 そしてここに暮らしながら、誰もが自らを削り殺していく。
だから、闇を掃う除夜灯に群がる羽虫は、自分達に似ているように 春日は思う。奔放を怖れるあまり、背中の羽根を焼かれようと炎に 群がる子供たちの群れ。
二人は並んで中庭の東屋の隅に置かれたベンチに腰下ろした。 樹木の多い中庭は闇が濃い。けれど、空には丸い月が浮かんでいる。
「今日の月は不思議な色。血の混じったような赤色…。」 沙夜につられて春日も空を見る。
「ああいう色の月は、白い月より嫌な感じだ」 「怖い?」
「なんだろう。後ろめたいものが、あそこに映っているような気がする」 「ハルの見たくないものって何?」
「多分、自分の罪…とかかな」 「罪…。もし、本当に月に自分の罪が映るのならね、ハル」 沙夜は声を立てないで笑った。
「私に見える月は深紅よ。ハル、朧に紅い月が映し出す罪なんて、 些細なものだわ。」
「沙夜。」 私が本当はこんな貌だって、あなたは知っているでしょう? 沙夜の目はそう言っている。
「ハルは、父親に引き取られたのね」
「そう。ああ、正確に言えば、父親しか残らなかったんだ」 「そう…」 「母は、私が帰ったらドアにもたれかかって死んでた。」 「それ…」沙夜が首を傾げる。 「うん。ドアのノブと。ハンドタオル。あんなもので、人は死ぬんだね」 驚くほど、春日の内側には何の感慨も湧いてこない。 沙夜が春日に寄り添う。 フローラル系のシャンプーの淡い香りが髪からこぼれて香る。 そっと握られた右手が温かい。
「話して。」 春日は、重ねられた沙夜の右手を意味もなくもてあそぶ。柔らかな手。 促されるままぽつぽつと語りだす。
月の魔力と沙夜の体温が、春日をいつもより饒舌にした。
「私はそうなると知っていた、と思う。不安定で弱い人だったから…」
『人でなしぃっっ!!』 叫び声が春日の眠りを妨げた。 それは久しぶりに父親が帰宅した晩のことだった。 絶叫して髪を掻き毟り、地団太を踏む大人の女性、というものを春日は 初めて見た。
「父は夜明けも待たず出かけていった。壊れた母から逃げるように。 ダイニングのテーブルで泣き疲れて突っ伏したまま動かない母を、私はね、 そのままにして、学校に行ったんだ。他人の上に自分を全てもたせかけて しまうからこんなことになるんだ、と思った。むしろ母の姿を無様と思っ た。帰宅した時には…。それを見ながら、私は冷静だったよ。嫌な人間だ」
「嫌じゃない。ハルはきれいよ」事も無げな肯定の言葉。
「沙夜…」
春日は、戸惑い口ごもる。春日は自分がきれいだと思ったことはない。 容姿においても、魂や心の領域においての意味でも。 どんな時もきれいなのは、沙夜の方だ。
「ふふ。ハルは私がきれいだと思っているでしょう?」 おかしそうに沙夜が言う。
「ハルは世の中のいろいろなものから、離れて生きているけれど、それらを 否定していない。あなたは一人のきれいな野生の生き物なの。私は、私をと りまくすべてのものが嫌いよ。なくなればいいと思うくらい。憎んでいるの に、それらから離れたらきっと生きていけない。…母は、私が嫌いなの。 いいえ、憎んでいると言っても間違いじゃない。私もね、母を憎んでいる。 でも、お互い嫌いあっているのに、母は私を引き取ったの。何故だかわかる?」
春日は正直に答える。 「わからない。」
「それはね、私に父を渡したくないからなの。」 穏やかな口調の中に無数の刃があるようだった。
「沙夜、目の中に炎がある。」全てを憎んでいるという沙夜。 炎が眩しくて、熱い。春日の内側には存在しないエネルギー。 激しく、美しく、目が離せない。
「こわい?」 春日は沙夜の目を見つめながら首を振る。
「だって、どんなときも、沙夜はきれいだから。…私がきれいだと 思うだけだよ。沙夜の気持ちと関係なく。」
沙夜は眉をよせて、視線を彷徨わせた。 どこか泣きそうな瞳をしていると春日は思う。 勿論、沙夜は泣くことなく、既に癖になっている微笑を浮かべるのだろう。
「きれいなハルが私のこときれいっていってくれるの、どれほど嬉しいか わかるかしら。私、ハルのことを一番愛していたらよかったのにね。」
愛していたらよかったね。 なんて、残酷な言葉だろう。春日は微笑みながら思う。
「父さんのことを、愛しているんだね。」
こくり。沙夜が微かに頷いた。
「いいね。愛は私にはわからないものだ。だけど、羨ましい気もする。 だって、沙夜はきれいだから。」
内側の炎がもれ出して、彼女の全身をくまなく炙りだす瞬間すら、 それが、誰かを焼き尽くすその時すら、沙夜は際立ってうつくしいに 違いない。
沙夜が春日の胸に身体を投げ出してきた。 春日は、沙夜を抱きとめる。
きゅっと胸に頭を寄せながら
「壊れたくなんてないの」と沙夜の呟き声。
「大丈夫だ」艶やかな黒髪を撫ぜる。
…だって、壊れていないものなんて、この世にはない。
「…そうね」
沙夜は面を上げて春日を見つめた。光を発する眼差し。
「いつか…私が鬼になっても、…ひとでなしでも、きれいだと思ってくれるかしら」
沙夜の白い顔、頬にかかる柔らかなほつれ毛。 少し開かれた唇から吐息が漏れる。 春日は、確信を持って答える。
「どんな沙夜もきれいだ」
やがて少女達はそっとついばむような口付けを交わした。 薄紅の月の下で。
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