Leonna's Anahori Journal
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2003年06月07日(土) ムーア監督の自己演出

米国防総省の国防情報局(DIA)が昨秋、「イラクに化学兵器が存在する有力証拠はない」という報告書をまとめていたことが分かった、そうだ。(→ソースはこちら

ま、そんなこと、今さら誰が驚くかい!と思う今日この頃なのだが、本日はボウリング・フォー・コロンバインのマイケル・ムーア監督について、書き残していたことを書いておく。

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“監督のマイケル・ムーアがC・ヘストン氏の自宅の柱に、銃の犠牲となった6歳の少女の写真を立てかけて俯きながら立ち去るシーンで思わず引いてしまった”という意見を某掲示板で目にして、思わず、あーそれ私もー!と叫んでしまった。

あのシーンのムーア監督の自己演出は、知性で巨悪を告発するジャーナリストの行動というよりセンチな女子中学生という感じで、すごく違和感があったので、妙に印象に残っている。

同じようなことを最近、彼の著書『アホでまぬけなアメリカ白人』を立ち読みしたときにも感じた。
どうも、マイケル・ムーアという人は世の中の不正や欺瞞に目を向けさせるというよりは、それを大胆に暴く自分という人間に注意を集めたい人ではないかと、どうしてもそういう印象が拭えないのだが。


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コロンバインを観てから暫くして、チョムスキー『メディア・コントロール』という本を読んだ私は、もしかしたらムーアもチョムスキーを読んだのかな、と思った。怒れる賢老チョムスキーの権力批判と暴露っぷりのすごさは、嫌でもコロンバインのムーア監督を思い出させるからだ。
さらに少し前、ムーアの次回作のテーマが911テロ(ブッシュ政権が911をいかに巧く利用しているか)だと知ってからはよけいにその感を強くした。

でも、どうだろう。
たとえばチョムスキーの『メディア・コントロール』を読むと、書物そのものが読者(つまり私)に、自ら検証することを強く求めてくるのをビシビシと感じる。これはノンフィクションにしろ小説のようなものにしろ優れた作品に共通した性質で、読み終えた読者の行動にまで影響を与える力を作品そのものが内包しているということなのだ。

しかし『アホでまぬけなアメリカ白人』には、その手の迫力、読み手の生活にまで爪をかけられる感触というのは無かった。
おもろいオッサンが歯に衣着せずに書いた暴露本、ちょっと硬派の雑学満載本という印象を受けた。この違いはいったいどこから来るのだろうか?

あるいは、書き手はテーマを選んで書いているつもりでも、書かれる内容(テーマ)というものは、書き手や文体を厳しく“ふるい”にかけるものなのかもしれない。出来上がった作品はこの点に関して、正直に語る。

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マイケル・ムーアは本当に次回作で、911を通してブッシュ政権批判をするつもりなのだろうか。
もしそうだとすれば、観たくないなー、間にあってるよという気持ちと同時に、いったいどんな作品になるのだろうという(下世話)な興味もある。

が、いずれにしてもそれより先に“本家”チョムスキーの『9.11』(渋谷アップリンクでアンコール上映中)を観てこようと思っているところだ。


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