仕事の行き帰りに電車の中で読んでいる金子光晴『ねむれ巴里』は汚くて、みじめったらしくて、不愉快な話だ。読んでいると腹が立ってしかたがなかったのだが、中盤にさしかかるにしたがい段々と書かれた当時と現在の世の中の違いということがわかってきて、それでは彼の小説世界のどうしょうもなさも多少は致し方のないことかという気になってきた。今日あたりは自分が明らかに理解者の方向に転換しかかっているカンジなのだが、そうなってみると、今まで刺激的だった読書がフツーの読書になってしまうような、勿体ないような気がしてくるから可笑しい。最後まで読んだらどんな気持ちになるのだろうか。まったくわからないので楽しみだ。