Leonna's Anahori Journal
DiaryINDEX|past|will
2002年08月25日(日) |
新聞もテレビもない生活 |
去年、岸田衿子・今日子姉妹による『ふたりの山小屋だより』という本を読んだときに、姉の衿子さんが新聞もテレビも無しで暮らしていることを知った。それでその衿子さんの文章を読むと「ああ、この人は新聞もテレビもみないからこんなにまともな頭でいられるのだ」という気が強くしたのを覚えている。しかし岸田衿子というひとは童話作家で、住まいも軽井沢の山小屋。環境が違う。そういうストイックな生活は世俗にまみれ放題にまみれた自分には無関係だろうと、そのときは思っていたのだ。
それが気が付いてみれば、いつの間にかわが家も観ない・読まない生活に。もちろんそれくらいのことでとっちらかった頭がまともになんかなる筈もないのだけれど、確かにこの生活、心身の健康にはとても良いようだ。何より時間が出来るし、頭の中も風通しが良くなる。眼にも良い。ちなみに新聞は読まないうちに溜まっていくので場所ふさぎだし、始末に困ってやめてしまった。やめてみて困るようだったらまたとりましょうということだったのだが、今のところ頼む予定はない。
しかしこの生活、駅のスタンドには新聞、コンビニや書店には雑誌、そしてまわりが皆当たり前のようにテレビを観ているからこそ保てているのだろう。そんなふうにすぐそばで泉のように情報が溢れ出ているからこそ、中に私のようなのが居ても困らずにいられる。これが全体的に情報不足、しかし誰もがそんなことにかまっていられない状態(たとえば戦中戦後のように)だったらこんな悠長なことはとても言っていられないだろう。
というわけで私はテレビ新聞無しでも、日本国内で相も変わらず若い女性が失踪したり殺されたりしていることを知っているし、中村俊輔やアレックスの海外移籍も知っている。キオスクのヘッドラインビラ(←勝手に命名)や電車の中吊り広告、父親の家にある新聞、オットが会社から持ち帰る世間話。その中にコレは!というネタがあったときだけインターネットで調べてみる。おかげで、わかりもしない政治や経済のモンダイに心を痛める(私が痛めてきたのは頭脳ではなく心である)こともなくなった。 (余談だが、たまに父の家で新聞を開くと、内容以前にその“手触り”が新鮮で感動する。)
とはいうものの先月、時ならぬ台風の直撃を知らなかったことはあまりに間抜けだったかもしれない。雨だったので傘をさして仕事に行ったら、みんな「直撃」だの「電車が止まったら困る」などと話している。コレ台風の雨なのか?と訊いたら「え、ココを通るの知らないんですか」と呆れられてしまった。しかし勿論それくらいのことでどうにかなるチマリスではない。その後も、溢れる情報のおこぼれにあずかりながら、そして分からぬ事は皆さまに教えて頂きながら、(以前より多少は)のんびりと暮らしている。
|