Leonna's Anahori Journal
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2002年07月04日(木) 新盆

父の家へ行く。

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15日にお坊さんを呼んで、母の新盆のお経をあげに来てもらうことになった。このあたりではお盆は8月ではなかったかと思うのだが。父ははなから7月にするつもりであれこれと準備をすすめており、私と妹は「ママが帰ってくるのが待ちきれないのかな」などと話し合ったりした。

少し前に訪ねたときには、仏具店の折り込み広告を見ながら「これも買っておくかな」とバーゲン価格の仏壇グッズにマジックで丸印をつけていた。これには少し驚いたが「電池で点くろうそくは、点けっぱなしにできるから便利だよ」と教えてあげるとうれしそうに印をつけて、翌週にはさっそくもう買ってきた。

また「新盆用の白い提灯を買う」と言うので、「そういうのは省略してもいいんじゃないかな」と不用意に発言したら機嫌が悪くなった。あとで妹にきくと、福島のお義母さんの新盆には親戚からいくつも白い提灯が送られてきた、とのこと。私が知らなかっただけで、白い提灯には新盆をむかえる家族(親族)の気持ちが込められていたのだなと反省した。

ところで父は今度お経をあげに来るお坊さん(四十九日のお経もあげてもらった)に、自分の葬儀も頼みたいのだそうだ。縁起でもない話だなどとは思わない。きっとひとつでも先の用事を済ませておきたいのだろう。「そうだね、そうしたら安心できるもんね」というと「引導を渡して下さいって頼んでおくんだ」と言う…

   
ところで私はというと。ついこのあいだ初めて母親を亡くして、目の前で話している父親も遠からず居なくなってしまうのだと思うと、悲しくて頭がどうにかなりそうである。これまで、不覚にも私は親を亡くすのがこれほどまでに悲しいことだとは思っていなかったのだ。

なぜならば、世の中のおとな(主に中年以降の人たち)にはすでに親を見送った人が大勢おり、その人たちはみなけっこう普通に生活を続けていて、それを見て私も「そりゃ悲しいけれど何とかなるものらしい」と、漠然とそう思ってきたからだ。

しかるに、今の私の気持ちは「騙されたゼイ!」とでも言いたいくらいのもので、世のオトナが心にこんな深い悲しみを抱えながら生きていたなんて、あたしゃ知らなかったよ!と驚いているのだ(バカみたいですが)。世の中、その身になってみなければわからないことだらけだ、と、つくづくそう思う。

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ところで、いまポール・オースターの『孤独の発明』を読んでいるのだが、その中に、作者に向かってこんな面白いことを言うお爺さんが出てくる。

“小さな子供が、ずいぶん妙な目にあったものだ”

小さな子供とはかつての自分のこと。妙な目というのは、成長して大人になり、予想だにしなかった色々な経験を経てやがて皺だらけの老人になってしまったということだ。

私は今日、この言葉を父に教えてあげた。そうして「きっとお父さんも、すごい冒険をしてきたことになるんでしょうね。なにしろ私のような娘を持つことになったんですからね」と言うとかすかに笑ったようだった。

それから「私はまだこれから何十年か冒険を続けることになると思うけれど、一体どんな目にあうのかと思うと楽しみなような、そうでもないような」と言ったら、今度はニッコリしたので、私もハハハと笑った。

空気がやわらいで、ほんの少し気が楽になった(オースターさん、ありがとう)。

  


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