2007年08月23日(木) 我慢の限界

最近、自分の我慢にも臨界があることがわかってきた。
何に対して、ではなくて、積もり積もったものであるから、解決は容易じゃない。

今まで、きれた事がない、怒りをコントロールできることだけは、誰にも負けないと思っていたのだが……。

きれることがかっこいい風潮になっているのは、やっぱり少年漫画やアニメの影響なんだろうね。
『きれる=想定外の力を手に入れる』
という構図になりつつあるからかな。
それは同時に、漫画やアニメにある、主人公がきれる悲劇が、きれることによって解決する、という構図がずっと続いているからかもしれない。
きれるのは不良であり、ファンタジーの住人であり、一般の格闘モノであり。

と書いてしまうと、昨今の物語の批判のように捉えられちゃうけど、これは、実は娯楽モノの王道だったりします。
起承転結の物語において、転に相当するのが、状況の変化。
その状況の変化を巻き起こすのが、現行での物語の『主人公がきれる』という現象。
どうにも許しがたい悪が、物語上で展開してきた悪事をいよいよ主人公がぶった切る、その合図。それこそがきれるという現象。
そして、それは昔の娯楽で言えば、印籠であり、桜吹雪であり。「余の顔を見忘れたか」であり。
いずれにせよ、これ以降は悪が一気に倒される。
その期待を持って読視聴者はそれ以後の番組を見に行く。

最近の番組更正が『きれる』を重視し始めた理由は、主人公に血統とか、そういう要素を廃したからじゃないかな。
印籠やら、『余の顔を見忘れたか』は、それはつまり、本人の力の行使の裏づけ(本人の努力ではなく、生まれたときに与えら得た地位とか力)。
しかし、血統を廃した主人公が、通常の人たちの処理し切れない悪を倒すだけの力を得るには、「きれる」ことで、一歩ステップアップしなければならない。
でないと、巨悪を倒す説得力がなくなってしまう。

そう考えると、昨今の作家が、王道と呼ばれる「選ばれた血筋」を物語から廃したときに、主人公が悪を倒すための説得力を持つ設定として、きれる、必要が出てきたのかな、と思い始めました。
もっとも、きれて超パワーを手に入れるためには、やっぱり潜在パワーがなくてはだめで、その潜在パワーがある説得力のあるの設定は、やはり異端の血族、という形を取らざるを得ないのだけれど。

おお、スタートに戻っちまったい。
しかも、脱線してしまった。

自分のストレス発散をどうしようか書こうとしてた日記はどこに(−−;


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彩葉 [MAIL]

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