最近、自分の我慢にも臨界があることがわかってきた。 何に対して、ではなくて、積もり積もったものであるから、解決は容易じゃない。
今まで、きれた事がない、怒りをコントロールできることだけは、誰にも負けないと思っていたのだが……。
きれることがかっこいい風潮になっているのは、やっぱり少年漫画やアニメの影響なんだろうね。 『きれる=想定外の力を手に入れる』 という構図になりつつあるからかな。 それは同時に、漫画やアニメにある、主人公がきれる悲劇が、きれることによって解決する、という構図がずっと続いているからかもしれない。 きれるのは不良であり、ファンタジーの住人であり、一般の格闘モノであり。
と書いてしまうと、昨今の物語の批判のように捉えられちゃうけど、これは、実は娯楽モノの王道だったりします。 起承転結の物語において、転に相当するのが、状況の変化。 その状況の変化を巻き起こすのが、現行での物語の『主人公がきれる』という現象。 どうにも許しがたい悪が、物語上で展開してきた悪事をいよいよ主人公がぶった切る、その合図。それこそがきれるという現象。 そして、それは昔の娯楽で言えば、印籠であり、桜吹雪であり。「余の顔を見忘れたか」であり。 いずれにせよ、これ以降は悪が一気に倒される。 その期待を持って読視聴者はそれ以後の番組を見に行く。
最近の番組更正が『きれる』を重視し始めた理由は、主人公に血統とか、そういう要素を廃したからじゃないかな。 印籠やら、『余の顔を見忘れたか』は、それはつまり、本人の力の行使の裏づけ(本人の努力ではなく、生まれたときに与えら得た地位とか力)。 しかし、血統を廃した主人公が、通常の人たちの処理し切れない悪を倒すだけの力を得るには、「きれる」ことで、一歩ステップアップしなければならない。 でないと、巨悪を倒す説得力がなくなってしまう。
そう考えると、昨今の作家が、王道と呼ばれる「選ばれた血筋」を物語から廃したときに、主人公が悪を倒すための説得力を持つ設定として、きれる、必要が出てきたのかな、と思い始めました。 もっとも、きれて超パワーを手に入れるためには、やっぱり潜在パワーがなくてはだめで、その潜在パワーがある説得力のあるの設定は、やはり異端の血族、という形を取らざるを得ないのだけれど。
おお、スタートに戻っちまったい。 しかも、脱線してしまった。
自分のストレス発散をどうしようか書こうとしてた日記はどこに(−−;
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