2003年07月08日(火) |
例えば四肢麻痺になったとしてさ〜 |
例えば、手も足も動かなくなったとする。 中枢性の原因でも、神経原性のものでもいい。事故でもいい。
そこで毎日人の介護を受けて暮らすことは苦しいだろうか。
毎日同じ暮らしを続けることは、苦痛にはならないだろうか。
ワタクシはずっと同じことを繰り返していくということが苦手で、 しばらく何かをやったら、いつか「ああ、もういいかな」と、 自分の中でリミットが来てしまう。 この仕事もたぶんいつか「ああ、もういいかな」と自分の中で 満足して終了させる時が来るのと思う。 飽きっぽいと言われるのはちょっと心外で、自分では 「満足が早い人間」だと思っている。 別に何かを途中で放り出すわけじゃあないし・・・。
その自分が四肢麻痺などの体が動けない状態になったら、 日々同じスケジュールで生体と、生活を維持することが第一義になる 生活自体は、これは案外苦痛ではないかも、と思う。
何故なら、生活行動一つ一つを行うことが自分の仕事になり、 1日の中では変化そのものだからだ。
毎日変化のない生活・・・とぼやく人のほとんどは、 経済的、時間的に一定以上のレベルの高い生活をしている。 何かに追われたり、傍目に何もしていないように見えても 本人の中で必死に戦いと苦しみを続けている人、 必死に生きている人にとっては退屈とは全く縁のないものだ。
退屈は余剰から生まれる。
中途障害を持つとは、ある意味「余剰のない生活」に 飛び込むことかも知れない。 それを受け止め自分のものとしていける人にだけ、 心の余裕、光、福音、そんなようなもの、それまで 得ることが難しかった何かがもたされるのかも知れない。
人の恵みを受け取るには、手を空っぽにして 受け取る準備をしなければいけないんだろうな。
そんなことを思った。
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