訪問をしていて思うのは、看護で言う共感とは、「相手に自分と心情的な共通点を見出し、できる限り想像力を巡らせて自分と近い存在だと結論つけること」だと思う。つまりは「他人じゃない」と思うことではないかと。
訪問看護は対象者が生活の場にいるので、IVHが入ってようが、癌末期であろうが、先天性の疾患を持っていようが、「自分達と同じように」家族があり、生活があることを忘れないで援助することができる。生活の援助や全人的な援助というのは看護の決まり文句だが、それを援助できる訪問看護は他より偉い、というつもりはない。それは訪問看護の「偉さ」ではなく単なる「利点」だからだ。 なかなか見えてこない対象者の自宅の生活に思いを巡らせ、一緒に退院後の生活を考える病棟の看護の方が、一口に「全人的な援助」と言っても不利で大変なのである。
話はそれたが、訪問看護を受ける人は、あるいは散らかった部屋に住み、家族と喧嘩し、ご近所の通夜に香典を出し、地域を徘徊し、犬や猫ときままに寝起きする。これが施設で叶うなら、もっと皆が入所を希望するだろう。けど、そうではないから多くの人ができる限り家で過ごしたがる。 健康レベルがどうであろうとも。 重い病気を抱えても在宅生活に戻った人が、(周りの)思いのほか長生きするのはやはり人らしくいられるからだと思う。治療や検査で必要があれば多くの人は入院を選ぶかも知れないが、病院は生活の場ではない。人として末期を迎える場所ではないと思う。社会と切り離されることが、人間としての死を早め、結果的に生命を縮めてるように思う。
施設、病棟で看護をするとユニフォーム、縦割りの業務、医療者先導の管理型サービスの中で、看護職が相手を「自分と同じ」と思うことが果たしてできるのだろうか。幾ら相手に共感をしようと思っても限界があるのではないだろうか。 看護師はキャップをかぶり、白いお仕着せを見に付け、上から見下ろす。ワンピース型の白衣はスタイリッシュに窮屈に、しゃがんだり、相手に必要以上に近づくことを妨げる。つんと立って腕組みするのに実に向いたデザイン。相手は、寝る時間でもないのに寝巻き。無防備と無力の象徴。社会の顔を剥ぎ取られ、押付けられた健康至上主義の中で気ままに生きる権利の主張も認められない。 いやならば医療を受けなければ良い、と言う意見もあるが・・・いや、今書いたようではない医療を選べばいいだけです。他人には違いなくても、その中でも「他人ではない」とほんの一部でも思ってくれ、医療者が自分と一緒に考えてくれるような医療を。
共感とは「他人じゃない」と思うことだと言う訳は、ワタクシ自身が自分が一番大事な人間だからです。相手に起こっていることが、「自分や自分の家族、周りの人にもあり得ること」だと感じること、それは相手が自分と「地続き」であると感じることです。自分と相手は別の人間だけど、共通する部分もある。生き物としての人間は少しずつ違うバリエーションがあり、その少しずつ違う部分が相手と自分の個性で、人間の全ての個性を四方に広がるグラデーションに例えたら、どこかで相手と自分はつながりがある、そう信じることで自分を大事に思う気持ちを相手に使うことができるのです。
だから、単なる言葉の違いかも知れないけど、似ているような言葉で、「のめりこみ」は嫌いです。相手と自分の境目がなくなったり、相手の中に取り込まれたりすることには、単なる言葉の解釈の差と幾ら言われたとしても断固、拒否します。それは病的で、気味悪いからです。この言葉が好きな人は、自分は他人に成り代われると思っているのでしょう。その思い上がりも恐怖です。
「他人じゃない」とは相手を自分と同一視することではありません。違う人間であることを認識しながら、「でも、無関係ではない」と考えることです。熱心にかかわってる振りをしながらどこか空々しく無責任なケアを受けたとしたら、相手の看護職は、きっとどこかで「関係ないし」と思っているのです。
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