久しぶりの掃き溜め来場。 今の日記に綴るにはあまりに汚らわしいので此処に記す。
平成二十年七月二日未明。 密かに家出を勘考することにした。 早くこの家を出よう。 そう本心から思った瞬間だった。
理由は簡単だった。 休む筈のこの場所で蓄積されるストレスから逃げるのだ。 ただそれだけ。 とても身勝手な動機だと自分でそう思う。
けれど思った。
今何か遭った時に 私はこの家で死を迎え この家の住人に看取られる それを考えると耐え難かった。
そんなのは嫌だ。 そしてその遺体に縋って喚くあの女を想像しただけで 身の毛も弥立つ程のおぞましさを感じた。
あの女。 一般的には「母」にあたる存在、らしい。 私は基本的にあの女をそう呼ばない。 名前で呼ぶ。 体面があるから外では「はは」と呼ぶ。 父からの厳しい御達しがあったから仕方なくそうしている。
ちなみにその女は実母だ。 継母でもなければ義理でもなんでもない。 正真正銘、私を孕んで産み落とした女だ。 それだとしても昔からあまり折り合いはよくなく、 一触即発とまで言われるほどの仲だった。 でもそれは彼女が「母」だった頃の話だ。
延々と続く小競り合いと厭味の応酬。 それでも外面の良い我が家は平和で理想的な家庭、らしい。 「会話のある家族」 そんなのは嘘ばっかり。 クイズ番組の回答をするだけで何にも話なんてしていない。 何時か気付いた。 この会話の輪は、私がいないほうが綺麗に閉じる。 試しに口を閉じてみた。 明るい家庭の会話は弾む。 私が喋っていなくとも、この家族の会話はとても弾む。 そして私が話していなくとも、気付かない。 あたかも私がそこに居るのだと思い込んでいる。
あの女は実に嫌な女だ。 私が誠実で誉れ多い内は胸を張って自慢にした。 待望の、しかも一度病から生還した娘だからか知らないが、 基本的にあの女は過保護で親馬鹿だ。
しかし私の成績が下がって悪評がつけば易々と手を離した。 手に負えなくなれば父の後ろに隠れて叱るよう仕向け、 私の機嫌が悪いと感じれば声もかけない。
それでも小競り合いと厭味の応酬は続いた。 なんだかんだ言っても彼女は「母」で 私は「娘」だった。 些細なことに腹を立て、口喧嘩をするのは日課だった。
けれどそれはとてもストレスが溜まることで それはとても労力の要ることだった。
そして私は疲れた。 決定的な要因が幾つか挙げられるが、 それらが原因だったかと訊かれればそうとも言えるし そうでないとも言える。 どこかひとつに起爆剤が混ざっていたのかもしれないし、 堆積された塵が発酵して悪臭を立てたのかもしれない。
私は小競り合いを辞めた。 厭味に返さなくなった。 実際にはそんな心的余裕も無くなっていたのだが、 その代わり何に対しても平等な返事をするよう努めることにした。
例えその日の夕食が美味しくても不味くても、何も言わない。 不快なことがあっても、滅多に言わなくなった、と思う。 つまらないことは胸の中に押さえ込み、 気に食わないことは喉で食い止めた。
「ああ、それは他人と接しているのに等しい。」
そう気が付いて、 私はその女を「母」と呼ぶのを辞めた。 理解してくれたとか、理解してくれなかったとか、 そんな単純明快な理由なんてありはしない。 確かに彼女の行動は知ってか知らずか、 私の期待や予想に反するものばかりであったが、 それは私に合わせているからではなく、 父に合わせているからだと理解している。
最近ではトラブルになりそうなことに対して、 前もって忠告しているのだが、 残念ながらそれに関しては「私が我侭を言っている」という 哀しい認識をされているようだ。
ようやく7桁に手が届いた通帳を 車に使う前に住居に使うのは馬鹿げた話だけれど そうも言っていられないようで。
私はこの偽りの家庭から出ない限り、 自分を手に入れられないと、そう思った。
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