2004年05月12日(水) |
死ぬということと世界とのつながり |
1ヶ月近く日記を書いていませんでした。 書く元気がありませんでした。
5月1日から10日間ずっと、体調を崩していました。喘息の発作に始まって風邪の症状が出始め下痢と吐き気と発熱に苦しみやっと最近普通に生活できるようになってきました。この半年間で初めて仕事でも病欠し、なかなか体力が回復しない自分の体にイラツキながらも、どうにかだんだんと良くなってきています。
先日、NHKのしゃべり場という番組を見て思うところがあった。テーマは「死について考えてみる」というようなことだった。 男の子の一人が自分の意識がなくなって、自分が死んだら、全部終わり。TVゲームのゲームオーバーみたいに主人公が死んだら他の登場人物も消えるんだよ。と言っていたので、なんて自分中心の考え方なんだろうと恐ろしくとなってしまった。
私にとっては、自分の死はこの世界の一部がその役割を終えて、また大きなエネルギーの一部へ帰っていくようなもの。 私がいてもいなくても、この世界は変わらず動きつづける。毎日この世界では大勢の人が死ぬし、またその一方で多くの命が生まれてくる。
一番大事なのは自分はこの世界という大きな体の一つの細胞のようなものだということを理解することだと思う。 私は私の自意識が消えてしまうことはもちろん嫌だし、そのときが来るのが怖いが、それは私たちの体の中の細胞が日々生まれ変わっているように自然なことなのだ。
私も死ぬ。あなたも死ぬ。それは今日か、数十年先か、誰にもわからない。 でも、自分が死んだあとも自分が愛し、愛された人々はこの世界にある程度の間は生きつづけるだろうし、私を取り囲む木々、大地、この大気は変化しながらも存在しつづける。
何もかもがずっーとつながっていて、私の命が消えても私が地上に残したささやかな影響がまったく消えるまでは時間がかかるし、私と血を少しでもわけあった人々がどこかで生き続けているかもしれない。
だから死ぬことは世界の終わりではない。 ただ自分という存在の自意識はなくなるだろうと思う。
死に行く人は、自分が死んだあとも周りの人間の大半、そしてこの世界は続いていき、あなたの死を受け入れ、消化していくことを考えて欲しい。 何かが途切れるわけではない、死も生もこの世界のいつもあり続けたまま、時は前へと進んでいくのだ。
2004年04月17日(土) |
精神の自由を確保すること- 囚われのユニコーン |
私と姉は、NYのクロイスターという美術館にあるユニコーンのタペストリーが大のお気に入り。繰り返す引越しで今はどこに行ってしまったかわからないが、ずっとそこで購入したそのタペストリーのパネルを二人とも部屋に飾っていた。
このタペストリーの実物を観たとき、私たちは同時に同じような感想を持った。それは、「どんなものにも精神は縛られない」、つまり言い換えれば「どんな状況でも精神の自由さは確保できる」ということだ。
ユニコーンはやすやすと乗り越えられるような低い柵の中で、悠然とたたずんでいる。囚われてはいるが、その表情に嘆きや悲しみは見られない。 私たちは気づく、囲いや檻にいれる事なんかで、彼をつなぎ止めることなどできやしないのだ。 彼の精神の気高さ、美しさ、そしてその自由は、檻に入れられたことで変わりはしない。どんなものも彼を所有することはできない。彼の精神はいつでもそこから駆け出していくことができる。
現実にいろいろな人間関係上問題や生活上の規制、があって息もできないような閉塞感にぶつかったとき、堂々と柵の中に佇むユニコーンを思い出す。 現実にはなかなか身動きできない状態にあっても、精神の自由は確保しよう、したい、そして、それはできるはずだと思えてくる。
あー、彼の姿を見たい。。。どこにいっちゃったんだろうあのパネル。。。
こんなに長く日記を書かなかったことがこの数年間あっただだろうか。 この一ヶ月近くの間、仕事のストレス、新しく始まった恋人との関係、でいつも疲れきっていた。心身ともに疲れきっていると、文章をきちんと書くことがままならない。
時間に追われていては、落ち着いて日記を書くこともできない。 また、仕事で目を酷使するので、家に帰ってまでパソコンを触りたくないというのもあった。
そんな中で、数ヶ月ぶりに行った美容院でフェルメールの記事を読む。 私はフェルメールが好きで、彼の現存している作品30数品のうち世界各地の美術館をまわって彼の作品の半分以上を見たのではないかと想う。特に、オランダ旅行でハーグまで行って見たフェルメールは感動ものだった。
あの輝き、神秘性、驚き、ドラマ性。 一枚の絵の中に、その瞬間にしかありえなかった、光、輝き、感情、空気、が閉じ込められている。まるで、そこに16世紀のデルフトへの扉が開かれているように、フェルメールは時を越えて、私たちをその絵に描かれている瞬間へと連れていってしまう。
とても静謐で、客観的な写実的なタッチながらもきわめて個人的な思い入れと、ドラマ性を持つ。 私たちは、彼の描く一枚の絵から、そこに描かれた家、室内のしつらえ、洋服からその描かれている人物の生活を想像することが許される。
フェルメール。。。についていつかゆっくりと書いてみたいと想う。 (イギリスの大学院の1年目に美術史をやったとき、フェルメールについて短いレポートを書いた)。
昨日は母の誕生日だった。
週末のうちに白いコーヒーカップ&ソーサーが4客届くように手配をしておいた。今みたいに余裕のない生活をしていると、大事な人の誕生日を忘れずに、贈り物をきちんと選んで送るのも、一苦労だ。
昨日は朝の7時過ぎに家を出て、帰ってきたのは夜の12時。家にいる時間が7時間。睡眠時間が5時間。
今日は7時半には帰ってきた。今日は寝るぞー。でも片付けとかゴミ捨てとかやらなくちゃいけないことが溜まっている。。。
でも、今朝は満員電車で気持ち悪くて倒れそうだったので何はともあれ寝るのが第一。。。としよう。
2004年03月18日(木) |
exhaustion is norm ...極度に疲労している状態が常態 |
BBCに北京の急激な開発と、国際化を知らせるニュースがあって、車は渋滞し、人々は過重労働で、ここではexhaustion is norm! という言葉があった。
今月の私にもこれが言えている気がする。 もはや、度に疲労している状態が常態になってきた。 ただ、嫌なのは同居人(女友達)はゴミ捨てや掃除をしてくれないので、私が疲れていると、ゴミがたまり、家の中がほこりっぽい。さらに、シャツにアイロンをかける気力と時間がないので、着る服がワンパターンになってきた。。。うーむ。
でも、人間にとって何が大事かって? 睡眠時間が一番大事だと実感。 多少よれっとした服を着ていても、貧血で倒れるよりはましだ。 だって、あんまり睡眠不足で疲れてるとそれだけで、イライラして吐き気がしてくるもの!
というわけで、今からたまったゴミを雨の中ゴミ出しにいってくらあ。
バタバタと仕事もプライベートも忙しく、疲れきっていた土曜日の朝。 動かない体をどうにか、起こして体操に行ったらなんだかメンバーがみんな優しくて、すごーく体がほぐれて楽になった。 会う約束だった人にも、疲れ気味だったので、ゆっくり出かけたいと待ち合わせの時間を遅く変更してもらったら、すんなりわかってくれたり。
疲れてイライラしてたけど、ちゃんとそれを話してみれば、人は結構わかってくれて、それがとても嬉しかった週末だった。
忙しいとき、無理して抱え込まないで、素直にSOSを出すこと。 うまく人に甘えること。ちゃんと感謝をしてお返しできれば、そうしたほうがうまく回っていくんだと学んだ週末だった。
土曜日は朝10時前に家を出て体操教室に行った後、そのまま世田谷の実家に行って、ご飯を食べて、携帯の機種変更(カメラつきにした)をして、5時に六本木ヒルズに行って、友達とロード・オブ・ザ・リングス第三部を見、12時過ぎに帰ってきて、次の日は他の友達が家に来るというので朝の7時に起きて家中の掃除をし、洗濯機を回し、布団を干し、彼らがお昼に到着すると、お昼にお寿司を食べに行き、その後ビデオやに行ってビデオを借りて帰ってきて、映画を一本見て、夜になると3人分のパスタを作って二人に食べさせ、彼らが帰ってから、片づけをしてお風呂に入ったらもう夜中の1時。
うーん、忙しい週末だった。 しかも、仕事もかなり忙しく、今週は仕事の後に4月から行こうと思っている翻訳学校の下見とカウンセリング、クラス分けテストで昨日も今日も夜10時過ぎの帰宅。。。
仕事と遊びと、勉強と。。。とても両立できそうにない。。。 私の体力でフルタイムで働きながら習い事二つは無理か??? うーん、今ががんばりどきだと思うけれど、鏡の中の自分の疲れた顔を見るとなんのために忙しくしているのかわからなくなる。
自分のキャパシティは他人にはわからない。自分で判断するしかない。
2004年03月03日(水) |
真剣に付き合うって? |
一週間前、ある人から「真剣に付き合ってくれないかな?」と言われた。 30歳の春が来るかもしれない。
さて、真剣に付き合うというのはどういうことだろう? 軽い気持ちで付き合うというのは、あるのだろうか? あるかもしれない。 しかし、今時ちゃんと付き合ってください。と言ってくれる人は貴重だと思う。大事にしよう。
別れた彼に以前言われた、「今度誰かを好きになったら投げ出さないで、逃げ出さないで。自分が大事だと思った人を大事にすること。それが大人の努力だと思うよ」という言葉が甦る。
2004年03月02日(火) |
Love is agony!? |
愛が苦悩なら、なぜ人はそれを求めるんだろう。
ある人が言った、愛は手のひらからこぼれる砂のようだ。 つかんだと思うとするするとこぼれていってしまう。 そして、手の中に残るのはかつて砂があったいう感触の記憶だけ。
恐ろしい。
私は何も留めることができない。 何もかも留まることはない。 すべては過ぎ行く。変わっていく。
もう、嫌だ。逃げたしたくなる。 でも・・・
2004年02月26日(木) |
すべての不幸は異なり、すべての幸福は似通っている |
幸福な家庭はすべて似通っているが、不幸な家庭のその不幸のあり方はそれぞれ異なっている。byトルストイ
今日、ふと開いたアンナ・カレーニナの出だしである。私はこの有名な一文がトルストイのこの小説の一節であることを今日まで知らなかった。以前にこの文をどこかで読んだとき、なるほどうまく言ったものだと思ったが、アンナ・カレーニナの冒頭文だったとは。やはり名作はそう呼ばれるだけの普遍性を持っているなあ。
この文章は家庭という主語が入っているが、私は家庭にとどまらず幸福という状態はどこかしらに通っていて、不幸と言うのはいつも極めて個性的なものであると思う。
それは当たり前のことだ。なぜなら、人は社会の価値観から独立して生きているわけではないから、ひどく貧乏で病気を持っていて、孤独な人間が自分でいくら幸福だと感じても、多くの人がその状態を見て「不幸だ」といえば、そこから完全に自由になることは難しく、自分自身もその社会的基準の中で自分の状況を判断し、「私は幸せなんだ」とか「不幸なのかな」と思ってしまうであろうから。
しかし、大体において、他人の幸せな話が退屈で、不幸な話が面白いのは不幸話のほうがバラエティーに富んでいるというのは事実だと思う。 たとえば、最近彼氏とどう?と聞かれて、不満や喧嘩の種があったなら、それを面白おかしく話すこともできるが、完全に満たされていて、なんの問題もなければ、「うん、うまくいってるよ」で終わってしまう。 ノロケを延々と聞かされて喜ぶ人も少ないだろう。
だから「だめんず」の話は面白いのだろう。
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