ヲトナの普段着

2005年05月20日(金) みんな脱いでるよ

 過去数回、チャトレになりたての新人さんと話をする機会があった。そしてほぼ全員から「ねぇ、他の子たちはみんな脱いでるの?」と訊かれた。「またかぁ」と思いつつ苦笑いするしかないんだけど……そんなことは絶対にないからね。
 
 
 新人ちゃんというのは、低レベルチャッターどもの格好の餌食となりやすい。彼らがシャルル・ペローの「赤ずきんちゃん」を読んでるかは定かでないけど(注釈:グリム童話とは違い、ペローの赤ずきんちゃんは最後に狼に食べられてしまう)、社会を知らぬ若葉マークをあの手この手で悪の道へと引きずり込もうとする手口は、裏返せば使い古された手ともいえる気がする。
 
 けれど人には「不安な心」というのがあって、同じ言葉が度重なると「そうかな」とも思うし、言い捨てられればその言葉はいつまでも心にしがみついてしまって、言い放った側の意図とは無縁にいつまでも心を痛め続けてしまうことも少なくないだろう。そういう不安な心理を逆手にとったのが、いわゆる「詐欺」というやつで、新人チャトレにあることないこと吹き込む輩も、要するに詐欺師と何ら変わらないということになる。
 
 それだけに、「まわりは皆やってるのにどうしてきみはやらないの」と脱ぎを持ちかける輩の存在は、腹立たしくてならない。奴らには「自分は詐欺師なんだ。嘘つきなんだ」という意識はおそらくないだろう。あってやってるとしたら言語道断。人を傷つけるということを意識してやってるのだから、たしかに罰則はうけないかもしれないけど、犯罪者となんら変わらぬ存在だと僕は思う。
 
 
 僕はどちらかといえば「あまのじゃく」だと思う。手許の辞書では「わざと逆らう人。へそまがり:天邪鬼」とある。へそまがりかどうかはわからないけど、偏屈だと自己解析はしている。あまり良い意味の言葉ではないようだけど、僕は自分をそう呼ぶことに何ら抵抗がないんだ。なぜかというと、そうすることで僕は、自分を他とは引き離して見つめることができたし、そこから自分なりのスタイルを模索できれば、それはそれで良いことではなかろうかと考えているから。
 
 けれど実のところ、あまのじゃくはとても寂しい。抵抗することで己を立てるということは、往々にして大勢から離れてしまうことをも意味するのだから。華やかに揺れる神輿に群がる嬉々とした顔を眺めながら、自分もそこに入りたいと思いつつ踏みとどまってしまうようなところもあるような気がする。厭な性格だなと、自嘲することも幾度となくあった。
 
 ただどうしても、「世界に広げよう友だちの輪!」といわれたときに、まわりが皆両手をあげて輪を作っていても、僕は作りたくないと思ってしまう。輪がいけないというのではない。周囲に流されて手をあげることをしたくないだけなんだ。けれどそれを人は、あまのじゃくと呼ぶ。そんな僕から見ると、「みんな脱いでるよ」と詐欺師が囁く背景には、集団に組していないと不安になってしまう心理の弱点が見え隠れしているようにも思えてくる。
 
 
 「個の時代」といわれるようになって何年経ったのだろうか。大江健三郎さんがノーベル平和賞を受賞されたとき、新聞の対談にある氏の言葉に強い感銘をうけた。集団でことを為してきた時代から、日本も確実に脱皮しつつある。若い才能が世界中に広がり、そこここで日本の新しい青年像を見せ付けてくれているのも事実だ。それなのに詐欺師の手口から、「みんなやってるのに」という言葉が消えることはない。そんなところに、輝ける個など存在のしようもないではないか。
 
 数多のチャトレたちに僕は言いたいことがある。このコラムを読んでるのは、そのなかのほんのひと握りに過ぎないだろうけれど、叶うなら、それを口伝に広めて欲しいと願っている言葉だ。
 
 人はみな、固有の美を持っている。それは見た目だけでなく、精神的にも固有の美だ。確かに人は、比較によって優劣を判断してしまうけれど、それを判断する人もまた、固有の美的感覚を手にしているのだから、誰かを基準に自分の価値を決めてしまうことほど、愚かで自分を蔑んだ行為はないと僕は思っている。
 
 同じように、チャトレという立場の女性たちにも、僕は基本的に優劣などないのだと思っている。みなそれぞれに美しく、みなそれぞれに素敵だからだ。大切なのは、群れのなかで己を高めることではなく、本当の自分を見極め表現することではなかろうか。誰かに好かれようとするよりも、素顔の自分を愛してくれる人を探すべきではなかろうか。
 
 そうすればそこには、きみにしか手にできない「個」が生まれる。まわりが仮にみんな本当に脱いでいたとしても、自分を信じて自分の道を歩めるきみがそこにはいるはずだ。それを是非見つけ出して欲しいと、僕は願っている。
 
 
 詐欺師は人の不安につけこむ。そんな奴らを撲滅するためには、ひとりひとりが、自分をしっかりと持つことでしかないような気もする。誰のものでもない、自分だけの自分をね。



2005年05月19日(木) 管理人の差別とえこひいき

 腹立たしい話を耳にした。それは、チャットサイト管理人によるチャトレへの差別、えこひいき。率直なところ、サイト名を公表して弾劾したい気分だけど、さすがに誹謗中傷に抵触しないとも限らないので……「ピ」とだけ書いておこう。公表してるようなものか、激汗。
 
 
 ご存知のようにライブチャットにはアダルトとノンアダとあるわけだけど、ノンアダと呼ばれるサイトのなかには、「ある程度のアダルト行為を容認」するサイトも数多く存在している。では、その「程度」ってどの辺なの?と尋ねると、それはもう千差万別。客観的に「それじゃアダルトと変わらないじゃん」というものもあれば、「なんだ、それだけか」というものもある。
 
 聞くところによると、管理人はチャトレからの質問を受ければ、それなりにガイドラインらしきものを彼女に伝えて、自分のサイトではこの程度までにしてくれと返信しているらしい。行為そのものは、自サイトを統制していく上で重要なことであり、マメな対応は好感すら持てると思う。しかし、その対応に差別があったとしたら、それはゆゆしき問題ではなかろうか。
 
 
 あるチャトレが、ガイドラインを超える行為をサイトで行い、IDを削除された。それはある意味仕方がないことだとも思えるのだが、後日、別のチャトレが同じ行為を行ったにも関わらず、管理人は彼女のIDを削除しなかった。それだけでも不信感がつのる管理体制だと思うけど、ガイドラインに抵触してないのに、一方的にIDを削除されたというチャトレを僕は知っている。
 
 さらにひどいことには、管理人に可愛がられてる「お局チャトレ」がいて、彼女の心象を害するとろくなことがない状態にもなっているらしい。これはもう完璧な「えこひいき」以外のなにものでもない。万人が納得する説得力あるガイドラインを持たず、自分の感情でサイトを運営しているということではないか。
 
 
 もちろん、管理人といえども人間だ。虫の居所が悪いときもあれば、自分好みのチャトレが登録してきて親しくなることだってあるだろう。されど、まがいなりにもひとつの組織を動かす立場にあるのなら、そんな私的事情をサイト管理に持ち込んでいいものだろうか。特定の自サイト登録チャトレと親しくなるのは構わないと思う。いや、詭弁でなくそう思う。親しくするのは構わない。しかし、それを管理という仕事に持ち込むのは間違っていると僕は思う。
 
 僕はこれまで、チャトレちゃんたちに「凛とした姿勢を持ってね」と語ってきた。そして同時に、サイトを統括する人なり組織に対しても、同じことが言えるだろうとも考えてきた。自分がどうしたいかではなく、何がサイトのためになるかを考えることこそが、管理する立場にいる者の責務ではなかろうか。
 
 「おれが作ったサイトだから、おれの自由にして何が悪い」と言うだろうか。僕は「ふざけるな」と言葉を返してさしあげたい。自分ひとりでサイトを作り、自分だけがそこに属しているなら、僕もこれほど口角泡を飛ばして言ったりはしない。されど少なくとも、そこに自分以外の「チャトレ」を抱えているのなら、組織の責任者としての公正な姿勢は持つべきだと思う。いや、百歩譲って、「おれには彼女たちを解雇する権限がある」とのたまったとしてもだ。それが果たして、作り上げたサイトのためになるのだろうか。
 
 資本主義社会の原則、そのなかに、「誰もがハッピーになることを目指す」というのがある。会社というのは、経営者だけではなく、従業員も投資家もすべてが儲かってハッピーにならなければいけないというものだ。そのために、経営者というのは自我を捨ててことにあたらねばならないときもある。何が組織のためになるかを考えることが、トップにいる人間の責務だともいえるだろう。
 
 そう考えたときに、トップにいるはずの人間が、自分の感情で出来事を処理していいものだろうか。お抱えのトップチャトレから「あの子嫌いなのよね、なんか危ないこともやってるようだし」と通告され、事実関係を公平に調べることもなく、さっさとIDを削除してしまって、それでいいのだろうか。
 
 
 古い格言に、「泣いて馬謖(ばしょく)を切る」というものがある。中国三国志の時代、蜀の軍師として名高き諸葛亮孔明が、自分の右腕と目していた智将「馬謖」の失態を前に、涙ながらに彼を切り捨てたというものだ。情にほだされて組織のルールをまげてしまうのは、組織のためとならず、リーダーとして失格であるという意味の言葉でもある。
 
 昨年の国営放送大河ドラマにもなった「新撰組」にあっては、副長土方歳三が組織のルールを厳しく取り締まっていた。やはり参謀格の山南敬助が隊を抜けたとき、彼を捕えて涙ながらに切腹を命じたという。前例はルールをいい加減なものとし、処罰はルールに凛とした姿勢を植えつける。そういう心構えを持てないのなら、僕はトップに立つべきではないとすら思う。
 
 差別やえこひいきは、いずれ噂となり広まってゆく。ここだけの話だけど、その「お局チャトレ」とは、驚いたことに例の「冤罪事件」の相手であった。率直なところ、僕はあのサイトでポイントを追加購入する意欲が、かなり薄れている。わりと気に入っていたサイトだけに、残念で仕方がない。僕ひとりが反旗を翻したところで、あちらさんは痛くも痒くもないのだろうけど、知ってしまった以上、僕は僕なりに小さくとも態度を示さねばならないだろう。
 
 願わくば、一日も早く、数多の登録チャトレが反旗を翻すことを祈りつつ……。



2005年05月18日(水) 【閑話】ラブレター

きみへ
 
 窓越しに、風が吹く笛の音がきこえてくるよ。この様子だと、今朝きみとみた公園の桜も、ひとときの春を謳歌して散ってしまうかもしれないね。ほら、ベンチに桜の花びらが二枚落ちてただろ。きみは何も言わずに見つめていたけど、僕は、あれが僕らみたいな気がしてたんだ。いや、なんとなくだけど。
 
 毎日顔をあわせて、毎日言葉を交わしているのに、どうして手紙なんか書くのかってきみは思うかもしれないね。本当に僕らは、いろんな話を沢山してきた。そりゃときにきみを怒らせたり、きみの涙に戸惑ったり、一緒に大声で笑ったりもしてきたけど、僕はね、いつまでもいつまでも、それを忘れたくないし、折に触れて、そのときどきのきみの心を、もう一回味わってみたいって思うんだ。
 
 言葉も、笑顔も泣き顔も、きちんと僕の心には刻まれている。そうだね、きみの心にもしっかりと刻まれている。それを僕はいつでも思い出すことができるし、きみもそうだと思うんだ。
 
 でもさ、ほら、初心忘れずなんて言うでしょ。人は頭でそのときの気持ちを覚えているようでいながら、心がそれをどう感じていたかっていうところは、時の流れとともに感じにくくなってしまうのかもしれない。僕はね、それを忘れたくないというか、いつも思い出せるようにしていたいんだ。だからこうして、きみに手紙を書いている。
 
 きみはあまり手紙を書かないけれど、それでも幾つかの手紙が僕の手許にはある。思い出したときくらいなんだけど、ふとそんな手紙たちを読み返していると、そのときどきの、きみの心のなかを感じられる気がするんだ。ああ、このときは怒ってたんだなとか、このときは寂しかったんだなって。
 
 この手紙たちをきみが書いていた瞬間は、間違いなく僕がきみの心のなかにいた。そして、小さな文字のひとつひとつから、きみのそのときどきの笑い顔や泣き顔が浮かんでくるんだ。僕はもちろん、いまのきみも大好きだけど、そんな手紙のなかにいるきみも、同じように大好きで、愛しいと感じて、大切にしていきたいと思ってる。
 
 だからね、僕はきみに手紙を書くんだ。いまこの瞬間の僕のきみへの想いを、そのまま言葉にすることはできないけれど、何か文字をつづっていくことで、そこに僕のこの気持ちが織り込まれるようにと祈りながら、ひと文字ずつ考えて、丁寧に手紙を書いてる。
 
 きみは、この手紙を読み返すことがあるんだろうか。そうだな、できれば、僕への想いに切なくなったとき、僕のきみへの想いに不安を感じたときに、これを読んでくれると僕はうれしいな。きみと同じことを僕は考えていて、きみと同じように想いを重ねているということを、もしかすると、手紙は語りかけてくれるかもしれないから。
 
 形で残すことよりも、心に深く刻むことのほうが大切だときみは言うだろうか。僕もね、それはわかるんだ。咲き誇る桜に向かってカメラを構えるよりも、肩を並べて一緒に桜を見あげていたほうが、ずっとずっと幸せになれるってこともね。
 
 けれど、形に込められた想いもあるでしょ。心が弱くなっているときとか、霧がかかって先が見えなくなっているときとかに、そっと手を伸ばして触れてみると、それだけで指先から伝わってくる何かが心を癒してくれるように、手紙っていうのもいいものだと思うよ。
 
 そうは言っても、やはりきみはそうそう手紙を僕に書いてはくれないだろうな。うん、べつにそれで構わないと思ってる。言葉にできない想いっていうのを、きみは人一倍大切にしている人だから。そんなきみが、僕は大好きなんだから。
 
 明日も明後日も、きっと僕らは言葉を交わすんだろうね。そして、一ヵ月後も、一年後も、十年後も、もっともっと先になっても、僕はこうして、きみに手紙を書いていたいなって思う。心と心が、いつまでも向かい合っていられるように……。
 
僕より
 
 
---- PostScript ----------
 
 チャットのログを記録している人っているのでしょうか。そんなことをしてる人は、おそらくほとんどゼロに近いでしょうね。それが、チャットというものだとも思います。そしてやもすると、想いもそのままその場に置き去りにしてしまうなんてことも、もしかするとあるのかもしれません。
 
 ラブレターの束を、いつまでも捨てられずにいた頃のことを、忘れたくないですね。ラブレター、あなたは書いていますか?


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ヒロイ