ヲトナの普段着

2005年05月17日(火) ノンアダサイトが荒れる理由/遊びを知らない男たち

 じつはこのコラムには、当初もうひとつのタイトルが用意されていた。それは「ライブチャットは高級クラブだ」というもので、僕としては核心をついたタイトルだと思えたんだけど、少なからず逃げ腰のところがあって、上記のようなタイトルに納まったのである……。
 
 
 アダルトとノンアダルト、その区別はおそらく人それぞれに持っているのだろうが、今回はあえて「料金体系」による区分けで本編を読み進めていただきたい。すなわち、1分80円から90円くらいでチャットできるサイトをノンアダ、200円前後かかるサイトをアダルトと捉えて欲しいわけ。
 
 双方経験してないチャトレにはわからない話かもしれないけど、これまで折に触れて双方経験してるチャトレちゃんに話をきくと、概ね「アダルトサイトのお客さんのほうがマナーをわきまえてる」と話してくれたような気がする。もちろん総てとは言わないけれど、ノンアダサイトを荒らしまわっている輩(ちんちんマンや暴言男など)は、アダルトサイトではあまり見られないということらしい。
 
 なぜだろうか。
 
 
 いつだったか、「それは、アダルトは高級クラブで、ノンアダは居酒屋だからじゃないの」と答えたことがあった。その比喩の根拠は明快で、要するに「費用」でありお金ということなんだけど、それに留まらない「高級クラブと居酒屋」との違いが、僕はあるような気がしている。
 
 僕はときどき、仕事仲間と夜の街に繰り出すことがある。はじめは馴染みの居酒屋で美味い肴に舌鼓をうち、腹が落ち着いたらそこから馴染みの高級クラブへとなだれ込む。かつてはそれがキャバクラであったりしたんだけど、ここ数年はもっぱらクラブ。それも、わざわざ高いところに行っている。
 
 居酒屋の時点でそこそこ酒も入ってるので、クラブに入っても酒を飲まないときだってある。それこそウーロン茶(もしくは水)だけで三万円以上払うこともある。けれど僕は、それで充分に満足してるし、また行きたいなぁと思う。その店には大きなグランドピアノがあって、若いおにいちゃんがときどきリクエストに応えて曲を弾いてくれるし、気さくで話しやすいお姉さんもいて、雰囲気が僕は大好きだからだ。三万円を惜しいと思ったことは一度もない。
 
 一緒に行く仲間たちは、金を使って遊ぶということに対する価値観を、僕と共有していると感じることがある。みんな特別に金持ちというわけではない。この不景気のご時世に、夜毎大枚はたいておおっぴらに遊べるほどの豪快なやつは、僕のまわりにはいない。遊ぶのは、本当に「ときどき」だ。けれどそのときは、せこいこと言わずに雰囲気をみんなで楽しんでいる。
 
 
 二十代後半から三十代にかけて、僕はとにかく夜遊びしまくっていた。女遊びではない。夜遊び。たしかに夜遊びをすれば、その延長に女の影がないとは言わないけれど、僕はそれを女遊びだと思ったことはなかった。なぜならそういう結果の女関係は、きちんとした恋愛感情のプロセスを経て成立していたからだ。それは女遊びとは言わないだろう。
 
 もちろんその頃に、泥沼の底辺も味わった。書くのに抵抗があるけど、家族を犠牲にもした。けれど一貫して僕のなかにあったのは、夜の世界で働く女性たちの魅力であり、いきざまであり、それを大枚はたいて教えてもらってるような気分でいた覚えがある。甚だふざけたおやじに違いない。
 
 そんな僕からみて、ノンアダを徘徊しているふざけた野郎どもは、ケチでせこい貧乏人だと思えてならない。貧乏とは経済的なものを指すというよりも、「精神的に遊べない貧乏」であると解釈して欲しい。遊びというものを知らないくせに、偉そうに遊ぼうとしてやがる。だから間違いをおかす。身の程をわきまえろってんだ。
 
 
 アダルトチャットをそれなりに継続してつづけていくには、客には相応の経済力が必要となる。これまた総てとは言い切れないけれど、経済力がある男というのは、それなりに遊びというものを心得てるだろうと僕は想像している。だから、サイトでばんたびエッチだけを望むわけでもなく、ときにはアダルトであってもお話しだけで済ませて充分に満足できるのだろう。僕もそうだった。
 
 何を対価に金を払うかということを、本当にわかっているのがアダルトチャット客には多いのだと僕は感じている。それがノンアダを荒らす輩には見当たらない。そうじゃないから荒らすし、自分が荒らしてるのかすら自覚してないのだろうとも思う。そう、ライブチャットという世界は、基本的には金がかかる世界なんだ。居酒屋などではなく、アダルトもノンアダも高級クラブなんだと僕は思っている。それだけに、遊びを知らない輩の存在が疎ましくてならない。
 
 
 インターネットは、開かれた空間だ。そこにあるコンテンツは、アダルトであれ何であれ、誰もが利用する「権利」を手にしている。しかし「権利」というものには、常に「義務」が付随することを身をもって知っている利用者は、悲しい事にそれほど多くはない気がしている。義務とはすなわち、ルールやマナーを守るということだ。
 
 開かれた空間だけに、誰もが入ってくる。ライブチャットは高級クラブだと僕が叫んだところで、彼らはそこを居酒屋だと思って気軽に入ってくるに違いない。同じように女の子と楽しい時間を過したりエッチしたりできるなら、高いサイトより安いサイトでエッチしようぜと思う彼らの心理もわからなくはない。けれどそこには、確実に「サービスに対する対価」の概念はないだろうし、雰囲気を重んじるチャトレの姿勢などまったく無関係なのだろうと想像している。
 
 
 僕を基準に書くのは少々乱暴かもしれないけど、僕が「遊び」をわきまえるようになったのは、それこそ呆れるような金を夜の街につぎ込んで、三十を超えた頃だったような気がする。そう思うと、二十代そこそこで高級クラブであるライブチャットに来るなんぞ、百年早いとどやしつけてやりたい気分にもなってくる。
 
 そういえば、現実の高級クラブにも、わけのわからん若造がときどきふんぞりかえってるのを見かけることがある。見ていてじつに哀れで、情けない姿だなと僕は感じる。金には恵まれていても、その使い方を知らないのは人間として哀しいじゃないか。それを学ぶ絶好の場が夜の世界であり、このライブチャットだと僕は感じてるんだけど、それを身に染みている男たちは、果たしてどれくらいいるのだろうか……僕にはよくわからない。



2005年05月16日(月) 心に残る珠玉の言葉

 ライブチャットにまつわる話ではないんだけど、チャットというものを考えるときに、できれば頭の片隅にでも置いて欲しいなと思う言葉がある。それはまだ、僕がネットをはじめて二年くらいの頃で、年齢的にも精神的にも突っ走っていた頃の出来事だった……。
 
 
 当時僕は、ある女性とネットを通じて親しくしていた。というか、インターネットという世界に僕が入り込んで、一番最初に言葉を交わした女性が彼女だった。いわゆるホームページを介したお付き合いというやつで、お互いのサイトにある掲示板を軸に友人を増やしていったのもその頃だった。
 
 遠隔地に住んでいたので実際に逢えるとは思っていなかったんだけど、あるとき彼女が所要で上京し、ふいに、本当にふいに僕は彼女と直接言葉を交わした。それは俗に言うオフ会というやつで、僕らのほかにも数名の仲間たちがいたんだけど、主催者の策略で彼女が参加することは僕には秘密にされていて、おかげで僕の記憶のなかにあっては、いまでも物語のような出逢いとして刻まれている。
 
 そのときから、僕と彼女とはそれまでとは異なるスタンスで親しくするようになっていった。チャットのCGIを自分たち専用に設置し、夜に昼にそこでお喋りに興じては情を深めていったと記憶している。もちろんライブカメラなどというものはまだない。ネットの常時接続すらない頃だから、従量課金制という条件のなかで、テレホーダイを使ったりタイマーをみながらというネット風景が普通の時代だった。
 
 彼女は、僕が書くものをある意味で愛してくれていたと思っている。とかく感情ばかりが先走る恋愛模様のなかにあって、彼女はよく、文章に対する感想や意見を率直に伝えてくれた。そしてときに、僕のネットやネット仲間に対する姿勢を批判することもあった。僕も彼女とは真剣にぶつかった。なぜ伝わらないんだろうかと悩み、文字が万能でないことを悟り始めたのも、もしかするとあの頃だったのかもしれない。
 
 
 そんな彼女とチャットしていたある夜のこと、僕らはひょんなことで喧嘩をしてしまった。険悪な雰囲気のなかで、関係を修復しようと言葉を送信しても、それは空回りするだけ。言葉をやり取りすればするほど、険悪という名の炎に油を注ぐような感じだった。そのとき、彼女がそっと呟いた……
 
「目と目をみて、声で言葉を交わせれば、こんなことにはならないのにね……」
 
 そのひとことに、僕ははっとした。僕らは「会話」というものを、生身の人間が面と向かって交わすものだと認識している。そこにはその人の声のトーンがあったり、目の動きや顔全体の表情があったり、ときに手や体全体による動きも加味された「雰囲気」も伴ったものを、相手からの会話として受け止めているに違いない。けれど文字によるチャットでは、そこには無機質な文字だけしかありえない。
 
 文字は万能ではないんだと思った。そして、その不充分さを補う「配慮」を持たねば、文字で人とコミュニケートすることはとても危険なのだとも悟った。僕は書き物を趣味としている。その頃もいまも、僕にとって主たる表現手段は、この文字たちだ。僕はどこか、そんな文字たちを「操る」ことばかりを考えていたのではなかろうか。自分の「想い」を伝えるために、彼らをただ綺麗に並べ形作ることばかりを考えていたのではなかろうか。
 
 涙が出そうになった。自分の思い上がりに打ちのめされた。常より「ネットの向こう側には生身の人間がいる」などとほざいておきながら、「自分の文字を相手がどう読むか」という配慮すらおざなりにしてしまっていた自分に、僕は情けない想いがこみあげてくるのを抑え切れなかった。
 
 
 ライブチャットでは、客からは常にチャトレの姿が見えている。客にとってチャトレの発する声なり文字は、カメラに映る様子、つまり雰囲気とともに味わうことができる。けれど、双方向カメラでない限りは、彼女たちにとっての僕らの情報は文字でしかない。僕らが怒っていようが笑っていようが、彼女たちには文字でしか伝わらない。
 
 僕らはそれを理解しなければいけないのだと思う。普段はなんでもないような会話の内容であっても、それが文字チャットの世界では喧嘩の引き金となりかねないことを、充分に承知した上で文字を打たなければいけないのだと思う。そして、充分に伝わりきるものではないという謙虚な心と、相手への配慮を忘れてはいけないのだろう。
 
 
 前出の彼女とはその後、僕が当時動かしていたサイトが活動休止したのを機に、他の多くのネット仲間たちとともに縁が切れてしまった。いや、正確に書くと、メールは繋がっているのだから、その後も折に触れてメールはあったような気がする。しかし、サイトを休止してしまってからは、それから僕が「ヲトナごっこ」を開設したことすら、あの頃の仲間たちは知らない。
 
 ヲトナごっこ二年目の頃だろうか。当初のサイト休止からは三年か四年が経過していたと思うのだが、ヲトナごっこのパンドラの箱という私書箱に、一通の便りが舞い込んできた。「ネットで、あるキーワードで検索していたら、偶然このサイトをみつけました」という便りは、驚いたことにその彼女からのものだった。彼女も驚いただろうと思う。本当にあの頃の仲間たちには、一部の例外を除いてヲトナごっこのことは教えてなかったのだから。
 
 そんな彼女は、いま、この花道コラムも読んでくれているようだ。



2005年05月15日(日) ブラインドタッチ/音声チャットについて

 べつに暗闇でアイマスクして女の子の体を追いかけるという話ではない。ブラインドタッチ、目を閉じていても触れる……もとい、文字が打てることをいう。昨今はタイピングソフトもゲーム感覚になってきたから、チャトレちゃんたちのなかにも「おまえは既に死んでいる」なんてタイピングしながら遊んだ子がいるかもしれないけど、ときどきタイピングが覚束ない子と出逢ったりすると、「いいんだよ、おじさん優しいから待ってあげちゃう」なんて言いながらマメに残ポイントを確認してしまうのであった。
 
 
 ブロードバンドってのはほんと便利なもんで、僕がネットをはじめた頃にはとっても大変だった双方向のテレビ電話なんてのも手軽にできるようになってきた。もちろん、チャットの世界でも音声チャットは当たり前のように使われてるわけだけど、やはりチャットの基本は文字を打つことであって、「文字打つの慣れてないから音声でね」というチャトレをみるにつけ、何考えてんだこいつはと眉をしかめてしまうのはおやじだからだろうか。
 
 実のところ、僕のネット時間というのはほぼ会社の営業時間内なのだ。自宅にもパソコンはあるけど、帰宅後に僕がそれに触れることはほとんどない。ましてやネットに繋ぐなどということもない。つまり夜間はネットしなーい。で、社内に自分ひとりしかいなければ音声も構わないとは思うんだけど、いつ誰が疾風の如く入ってくるかもわからないような場所で、のんびり音声チャットなんぞできよう道理がないでしょ。
 
 僕のデスクは、他の従業員のほうを向いている。僕がそうレイアウトした。だから僕のデスクのパソコン画面は、他の誰からも見えないということになる。建前上は「みんなの顔をみながら仕事したほうがいいでしょぉ」と健全なしゃちょーさんを気取ってはいるが、その実、怖い顔をしながらモニター見つめて心で大笑いしているのであった。器用な奴かもしれない。だから「爆笑」レベルの話になるとまじ困る。それまで背筋を伸ばして仕事(の振り)してたのが、突然モニターの影に顔を隠すのだから、怪しいことこの上ない……。
 
 
 まあ僕の事情はさておき、チャットにおける「文字の重要性」をくどくど書くには理由がある。それは「音声言葉より文字のほうが的確かつ修正がきく」からだ。そしておそらく「より考える」だろうとも想像している。
 
 かつての僕は、人と会話するときに「感覚」で喋っていた。口から出る言葉を論理的に選び出し組み立てるのではなく、それまでの経験に委ねた感覚で言葉を発していたような気がする。それが、ウェブで文章を書くようになってから変わってきた。それを「年をとったからだ」と言う人もいるだろうけど、年食っても感覚で喋る人はいる。やはり僕は、ひとつひとつの文字を組み立てる作業を身につけることで、「言葉」を脳で一旦整理してから排出するというプロセスを自然と覚えてきたのだと感じている。
 
 チャットというのは、メール等の文章と比べれば明らかに感覚的な会話となるだろう。しかしそれが音声でなく文字であるというだけで、人は文字を目でみて頭で読み解こうとする。返事の言葉も、顔文字びしばしで「これ何語?」というような文章は別として、普通に普通の日本語で会話をしているのなら、文字で打ち込みながらも「もっと別の表現方法があるかな」と、ふと指を止めた経験を持つ方は少なくないはずだ。
 
 耳だけでなく目を使うということが、人間の脳にとってどれだけ意味があるかは、僕にはちゃんと説明できないんだけど(おいおい)、たぶんプラス要因が多いんだろうなぁと想像しているのである。だから、音声チャットでなく文字チャットに励みましょうということになる。
 
 
 僕は趣味で書き物をしている。ネットで文章を公開しはじめたのがおよそ七年半ほど前。それ以前から、パソコンで文章は書いていた。僕がパソコンを手にした時代は、ウィンドウズなんて気の利いたものはなくて、まだまだDOSがはびこる世界でもあったのだ。いわばコマンドを文字で打ち込んでパソコンを動かす時代ね。だから、僕も初めはブラインドタッチのソフトを傍らに練習もした。しかし実際にブラインドタッチが本当に身についたのは、ネットをはじめ、チャットをはじめてからだったような気がする。
 
 いまブラインドタッチができないチャトレちゃんたちも、決して臆することはない。はじめは誰だって初心者だ。誰だって苦労して技術を身につけるのは、どの世界でも同じことなんだ。ただそこで分岐点となるのは、楽なほうへと足を向けてしまうのか、必要だからとそこで地道な鍛錬を受け入れるのかの違いだろう。冒頭で僕は、タイピングの覚束ないチャトレちゃんのことを書いたけど、一生懸命タイピングしようとしている姿を厭だと思ったことは一度もない。僕だって初めはそうだったんだから……。
 
 好きこそものの上手なれという。チャットが好きであるならば、いまは覚束ないタイピングであっても、日々頑張ってキーボードと向かい合っていけば、いつか必ず手元を見ずにキーが打てるようになる。ましてや好きなチャットという手段を利用しない手は無いだろう。おじさんも時には「声が聞いてみたいなぁ」と思うときはあるんだけど、まずは文字で、しっかりと言葉を交わしましょうね。


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ヒロイ