ヲトナの普段着

2005年04月26日(火) プロフの写真について1 /撮り方

-前置-
 プロフやギャラリーに使う写真について、今回から五日連続でコラム掲載します。これまでのコラムとは趣を異にしていますので、人間観察がお好きな方にはしばしお休みいただくことになるかもしれませんが、写真も僕にとってはライブチャットの重要なエッセンスだと感じていますので、本日より五日間、どうかお付き合いいただきたいと思います……。
 
 
----以下本編----------
 
 
 僕は自分で女性の写真を撮るからかもしれないけど、目に留まったチャトレの写真は、ギャラリーをくまなく拝見している。プロフは、文字と写真の双方がビビビとくれば申し分ないけど、仮に文字方面が少々貧弱であっても、写真が語りかけてくるものが強ければ、自然と右手のマウスに力が入るというもんだ。
 
 
 それにしてもチャトレたちの写真というのも千差万別。じつに眺めていて興味深い。明らかな携帯電話写真を上手に撮ってコーディネイトしてる子もいれば、せっかく立派なデジカメを使ってるであろうに「つまらんっ」と腹立たしくなってくる子もいる。文字も同じなんだけど、写真には目に見えて個人差というのが現れやすい。それだけに、できれば「とりあえずアップしとけばいいや」と安易に撮らず、じっくりと考えて撮って欲しいものである。
 
 「そんなこと言っても、どう撮っていいかわっからなぁ〜い」といういたいけなチャトレも少なくないかと思う。チャット中にそういう話題になることもよくあるし、なにより、ギャラリーの写真たちがそう語りかけてくるからだ。そこで、マニュアルというのではなくヒントとして、僕が思う理想的なチャトレのギャラリーを語ってみましょ。
 
 
 最も大切なことは、自分をアピールするということ。自分のどんなところを見て欲しいのか、相手に知って欲しいのか、それを写真できちんと表現するということだ。可愛いから客が寄り付くとか、エロいからそうだとか、女性というのはどうも男を単細胞のごとく解釈してるきらいがあるけど、必ずしもそうとは限らない。
 
 じゃ、自分のある部分をアピールしたいときにどうすればいいか。それが目とか口元とか脚とか、形になっている場合はわりと簡単かもしれないね。けれど、それが性格であったらどうしよう。明るい性格を見て欲しいとか、しっとりとした落ち着いた感じを見て欲しいという場合だ。そういうときは、まず鏡の前でリハーサルすべし。どういうポーズをとると自分の性格を姿で表現できるのかを、しげしげと研究せよということですな。
 
 いいかい?顔ひとつ撮るとしても、真正面から撮るのと斜め横から撮るのとは違う。カメラ目線と俯きがちの憂いのある目線とは違う。頬杖ついたり髪の毛いじったりするだけで、ただ顔を撮った写真とは仕上がりがぜーんぜん違ってくるんだな。まずは鏡の前でカメリハを行い、自分で「なるほど、こうするとこうなるのか」ということを実感するといいだろう。そのリハーサルのプロセスで、自分をよく表現してると思えるシーンがあったなら、それをカメラに納めればいい。
 
 
 それから、似たようなことかもしれないけど「視点を変えてみる」というのも、いい写真を撮る秘訣だと思う。セルフで撮ってる写真を眺めていると、その多くは「自分の視線」で撮ってるということに気づく。「目線」と書いたほうがニュアンスがつかみやすいかもしれないけど、常に同じ高さで撮ってる写真がじつに多いようだ。
 
 僕が女性の写真を撮るときは、とにかく被写体のまわりを動き回って撮っている。真正面から撮るだけでなく、床に寝転がって見あげてみたり、そこら辺にある椅子や机の上によじ登って見下ろしてみたり、ときにはぜんぜん被写体から遠ざかったところで一見無関係な方向を向きながらシャッターを切ったり、「お願い、やめて」と言われそうなほど接近して撮ったりしている。
 
 なぜそんなことをして撮るのか。それは「自分で美しいと感じる姿を探している」からに他ならない。僕は草花の写真なんかも撮るけど、草花相手でも撮影スタイルは同じようなもので、それこそ地面に這いつくばって花を観察したり、逆行や斜光といった光とは反対の側から花弁を覗き込んだりして写真を撮っている。どこからどうみると自分好みの絵になるのか。それは言い換えると、どこからどうみると自分というひとりの女性を相手にわかりやすく伝えられるのかを考える、ということに他ならないだろう。
 
 カメラを床に置いて撮ってみたり、三脚があればそれでいつもより高い視点から狙ってみたりと、いろいろやってみて欲しい。そうするだけで、写真のバリエーションが格段に広がるに違いない。それまで気づかなかった自分の本当の姿にも、きっと気づくだろうと思うよ。
 
 
【つづくのだ】



2005年04月25日(月) 女王になるな

 ライブチャットに限らないんけど、ウェブには「女王気取り」の女が沢山いる。本人はおそらく気づいてないのだろうが、その状況に慣れてしまうと大変なことになりそうで、遠目にいつも懸念しつつため息を漏らすおやじであった。
 
 女王が生まれる理由は至極明快。へらへらと同調し寄ってくる男が、このウェブにはごまんといるからだ。それはあたかも、動物界で単一の雌に複数の雄が寄り付く姿に似ている。いわば自然の状態とも言えるのかもしれない。ただ動物界と違うのは、ここでは争いごとがなく、仮にあるとすればそれは、中心にいる女王蜂の意に沿わない異端分子を排除しようとする流れくらいだろうか。
 
 そうして生まれた女王様の状態を、この国の言葉では「有頂天」という。ふと思い立って手許の辞書を紐解いてみたら、「喜びで夢中になっているさま:Ecstasy」とあった。最初は「ちょっと違うんじゃないの?」と思いもしたけど、よく考えてみるとこれはじつに言い得て妙であると感じ入った。女王は従う男どもにおだてられていい気になり、喜びで夢中になっている。その味はきっと何物にも代えがたく、いわば彼女のなかではエクスタシーとして認識されているに違いないだろう。そして僕が冒頭に書いた最も危惧すべき状況も、その辺に端を発するということになる……。
 
 
 人間は弱い生き物だと思う。変に知性なんてものを備えているだけ、心はもろくなってしまっているようにも思える。かく言う僕自身、信じようが信じまいが弱い自分を持っている。大勢に流されて自分を見失うこともあれば、傷ついて立ち上がれなくなったこともあった。幸いにもその時々で支えてくれる人がいたおかげで、こうしていま僕は書いているわけだけど、一歩間違えれば、僕だってどんな迷路へと迷い込んでいたかもしれないのである。
 
 現実の生活においては、自分が際立って認められ持ち上げられることなど、じつはそうそうあることではないのだろう。そう、僕らは持て囃されることに慣れていない。それだけに、一度その甘い汁を吸ってしまうと、弱い自分がどこまでもその汁を吸い続けようとしてしまう。数多の男連中の無根拠な言葉に踊らされ、いつしか謙虚さすらなくしてしまって女王のように振舞う女たちは、他方でとても哀しい存在なのだと僕は感じている。
 
 そう、チャトレにとって「初心忘れるべからず」は、座右の銘として傍に置いて欲しい言葉のひとつではなかろうか。おそらくほとんどのチャトレが、デビュー当初は、目の前のお客さんひとりひとりに真摯であるに違いない。けれどそれがいつのまにか、「こんな客ひとり来なくても他に客は大勢いるわ」とか、「この人の言うことよくわからない。さっさと消えてくれないかな」という風に思ったことはないだろうか。デビュー当初には思わなかったようなある種の「高慢」が、ふと首をもたげていたなんてことはないだろうか。そうなってしまう危険性というのが、僕はこのウェブにはそこここにあるように思える。
 
 
 賢い女性になって欲しいと思う。賢い女性とは、決して頭がいいという意味ではない。これについては、かつてヲトナごっこで書いたこともあるので、そちらの文章を少し抜粋するけど、女性に限らず、僕は「人として忘れたくない心構え」のように考えている。
 
----ヲトナごっこコラム「02-05-01 賢いヲンナってナニ?」より抜粋----------
 自分の中に潜む欲望をよく知り、高慢にならず卑下もせず、適度な謙虚さをわきまえている。それはきっと、幼い頃から年齢相応の感受性を経験し、喜びや悲しみや怒りという人間が持つ感情の波を、きちんと段階を経て覚えてきたからこそ、身に付くもののように思える。その常識こそが、僕はヲンナの賢さの基本のように感じている。
 
 流行や周囲の価値観に流されるよりも、自分に適した自分が望む形を持っているほうが美しい。地味に見えても、ネクラと思われようとも、自分をよく知っている女は美しいと感じる。結局、賢さの基準というのは、自分をいかに的確に把握しているかということになるのかも知れない。
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 抜粋ついでにもうひとつ。かの宮沢賢治さんの有名な詩になぞらえて、僕が自分の理想の女性を書いてみたことがあった。いま振り返ると、それはこのウェブ世界の「大勢」に抗したいという気持ちも込められていたような気がする。女王になどならずとも、人は幸福を手にできる。自分を知り、自分を必要としてくれる場でそれを生かせる人のほうが、僕は遥かに美しく幸せなのだろうと想像している。
 
----「02-04-03 理想の女」より抜粋----------
理想の女 / 宮沢賢治風に
 
 
アメにも負けず
ムチにも負けず
侮辱にもカラの世辞にも負けぬ
丈夫な心を持ち
慾を知り
決して卑下せず
いつも静かにわらっている
 
一日にワイン少々と
パンと少しのチーズを食べ
あらゆることを
自分を感情に入れずに
よく見聞きしてわかり
そして忘れず
  
海辺の椰子の林の蔭の
小さな高床のコテージにいて
 
東に涙する女あれば
行って話を聞いてやり
西に疲れた男あれば
行ってその膝を枕にし
南に迷える人あれば
行ってこわがらなくてもいいと言い
北に論争や自慢話があれば
つまらないからやめろと言い
 
実らぬ想いに涙をながし
思わぬ現実にオロオロあるき
みんなにネクラと呼ばれ
褒められもせず
苦にもされず
そういう女性に
わたしは逢いたい
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 人の心のなかに潜む「高慢」という名の悪魔。それを心の中で飼いつづけるのも排除するのも、その心を持つ本人の意思次第に違いない。女王になどならないでください……。



2005年04月24日(日) チップを考えサービスの対価を考える

 日本には「チップ」という習慣がない。サービスは料金のうちに含まれ、さまざまな場面においていちいちチップの心配をしなくて済む社会ができあがっている。それが良いという人もいるだろう。けれど僕はあえて、サービスの価値をわかり難くし、しいては傲慢な客の態度を生み出してる元凶がそこにあると言いたいのである。
 
 
 インドネシア語ではチップのことを「persen;プルセン」という。僕は言語学者ではないので、その語源を正確には知らないのだけど、自分で勝手に「英語のpresentからきたんだろうな」と想像している。そういえば日本には「心づけ」という言葉がある。やはりチップのことだ。相手がしてくれたことに対して「お金」という形で気持ちを表すのは、僕はとても自然な行動であると感じている。
 
 しかしこのチップ、日本人にとってとても厄介な代物だろう。いつだったかバリ島に行ったとき、親しくしてる女友達の友人が働くカラオケに出向いたことがあった。もちろん彼女同伴だ。そこで数時間楽しんでから店を出るとき、彼女が僕にそっと「友達に〜だけチップをあげてね」とアドバイスしてくれた。僕はうなずきながら、ポケットに手を入れて言われた金額より少し多い紙幣を彼女に出してみせたんだな。すると彼女は突然怖い顔をして、「〜だけでいいの」と僕をにらみつけた。
 
 率直なところ、インドネシアの貨幣価値と日本のそれとでは比較にならない。僕が多少チップに色をつけたところで、日本ではガム一枚も買えない値段だ。それでも彼女は怒った。なぜか。それは、僕らよりもはるかに彼女たちのほうが、お金の怖さを知っているからだろう。そう、チップという習慣を持つ人たちは、日頃から細かいお金を「流通」させているから、それだけにお金の価値や意味をよく知っているのだと思う。それが日本人には乏しい。
 
 
 僕は年に数回、上野公園を散策する。学生の頃から好きだったエリアで、春には桜の花が舞い、秋には木々が綺麗に色づく居心地の良い場所でもある。そんな上野公園で、よく大道芸をやってる人たちを見かける。最近では、駅前で生ギターを抱えて歌っている若者も珍しくなくなったけど、そういう人たちに対して、傍観者はどうのような視線を送っているのだろうか。
 
 内容が良ければお金を払う、悪ければ払わない。そう考えている人であれば、彼はお金の意味を知っている人なのだろうと僕は想像する。けれど多くは、「素人に金など払えるか」とか「無料で見られて得した」といった感覚で眺めていないだろうか。もちろん「彼ら」は、依頼されてそこで演じているわけではない。いわば勝手にやってるだけだ。しかし、ふと足を止めて彼らのパフォーマンスを見た以上は、それを評価する責務とまでは言わないが、何がしかの反応を返してあげるのが礼儀ではなかろうか。ここで言う反応とは、当然のことながら「つまらなければさっさと立ち去る」という行動も含まれるんだけど……。
 
 
 ライブチャットはサービス業だと僕は思っている。サービスには、じつは決まった値段などないのだ。彼女に怖い顔をされようが予想以上に楽しい時間を過せれば、僕の手は相場以上の紙幣を握ろうとするし、通りすがりの路傍で見かけた青年の歌声が心に響けば、僕は急ぎ足でもコインを置いていく。
 
 どうもこの国の人たちは、金というものの捉え方が歪んでるというか変わっていて、自分の「気持ち」と「金」とを素直に結び付けられないところがあるように感じられてならない。ときどき、ライブチャットで楽しい時間を過した最後に、チャトレにチップをプレゼントすることがあるんだけど、しばしば驚いた顔をされる。まさかチップに「裏心」があるとでも思っているのか、はたまた本当にチップをあげる客が少ないのか……。
 
 楽しかったらその気持ちをどうにかして相手に伝えたいと思う。もちろん言葉で伝えることはいつでもやってるけど、チップという形で表すことも僕は自然な行為だと思うよ。「その分、またお話ししてくれたほうが嬉しい」という言葉も目にするけど、それはそれ、これはこれじゃなかろうか。
 
 
 ライブチャットはポイントを消費する。だからこそ、そこには「いかに安くあげるか」を考える輩も現れてくる。チャトレの部屋に入って開口一番「脱いで」とくる奴らもそうだし、ポイント割安な逆指名というシステムがあるサイトであれば、初対面にもかかわらず最初から逆指名を要求してくる奴らもそうだ。可哀想だなぁと僕は思う。だって彼らの価値観には、ポイントを「消費してしまった」という感覚しかないのだから。
 
 かと思うと、チャトレのなかにもポイントにしがみつく女がいるのは、見ていて呆れてしまうな。どのような「サービス」を提供できるかも明示せず、プロフ欄に「チップくれるといいことあるかもよ」などと御託を並べる莫迦チャトレ。ひとことこの場を借りて言わせてもらいます。「お前の体がナンボのもんだと思ってやがんだ!」……おっと、失礼しました。
 
 
 言霊という言葉がある。読んで字の如く、言葉にも魂が宿るという意味だ。もしかするとお金というものにも、僕は心が宿るのではなかろうかと思っている。感謝という名の心が。そしてそれを、上手に使いこなせる大人になりたいなと思うし、チャトレちゃんたちには、それを上手に受けとる気持ちを養って欲しいとも思うな。


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ヒロイ