2005年04月23日(土) |
【閑話】オトナになれないヲトナたち |
明日2月18日、僕がしこしこと運営しているサイト「ヲトナごっこ」が、開設丸三年を迎える(注釈:本編最初の公開は2月17日)。そして何を隠そうこの僕自身も、明日でひとつ年をとる。そう、人は黙っていても年をとる。好むと好まざるとにかかわらず、年端を重ねて大人の仲間入りを強いられる。けれど本当に大人として歩めるようになるのは、いったいいつのことなのだろうか……。 僕がインターネットを利用しはじめたのは、97年の秋だった。翌98年の春に親友某とふたりで個人サイトを立ち上げ、以来、某有名アダルトサイトの手伝いをしたり、女性主催アダルトサイト(セルフヌード等を公開してるアレね)をプロデュースしたり、仲良しの女性とコラボサイトを作ったりしてきた。その間の02年2月にヲトナごっこは生まれたわけだけど、開設してから丸三年の間、僕のなかに常にあったのは「オトナになりきれないヲトナの姿」だったように思える。 ヲトナごっこを立ち上げた一番の衝動は、「こそこそせずに、大人が大人らしく堂々と愉しめるアダルトコンテンツを作りたい」というものだった。日本の法律では、二十歳になると成人として認められ、さまざまな権利を手にすることができる。成人映画等も含めて俗にアダルトコンテンツと呼ばれるものも、それを楽しむ権利は成人であれば手にしているということになる。けれど実際はどうだろう。アダルトという言葉すら口にするのをためらう大人が大勢いる。 ヲトナごっこを立ち上げた当初、「アダルトはこそこそ愉しむからアダルトなんじゃない」とサイトの主旨そのものを批判してくれた女性がいた。「そうだろうか」と僕はそのとき思った。確かに「隠れて愉しむ」という感覚はあるだろう。それを否定はしない。けれど僕には、そういう「アダルトはこそこそ愉しむからアダルトなんだ」などという固定観念のようなものこそが、成長という過程における大人への入口を狭くしたり歪めたりしているように思えてならないのである。 さりとて、人目もはばからずに所構わずアダルトを叫ぶことを是とも思いはしない。「堂々と愉しめる」というのはそういうことではなくて、良識を兼ね備えて自然にアダルトを愉しむ、他のさまざまな趣味と同じように、ごくごく自然体で接することができるアダルトコンテンツ、そして「オトナ」になったほうがいいのではないでしょうか、という意味なのだ。 外国映画をみていると、夫婦がひとつのベッドでやすみ、子どもたちがそこにおやすみのキスをしにくるなんて場面をみることがよくある。お父さんとお母さんはひとつのベッドで寝るということが、彼らにとっては当たり前のことなんだ。けれど日本はどうだろう。「川の字に寝る」なんて物言いがあるけど、夫婦の間には常に子どもの姿がありはしまいか。子どもができた瞬間からセックスの回数が減ったなんて話も、日常茶飯事のように耳にする。 数年前に、タイのプーケットという島で「ゴーゴーバー」に入った。これまた外国映画で何度か目にした覚えがあるんだけど、ステージに何本もの鉄の棒が立てられていて、セミヌードのおねいさんたちが棒に絡みつきながらくねくね踊るアレだ。日本人は立ち入ることすらためらいそうな空間かもしれないが、あそこでは老齢の紳士や女性までもが客となって愉しんでいる。もうごくごく自然な社交場という感すらある。 上手に年をとるというのはどういうことなのだろうか。おそらくここに集まっているチャトレちゃんたちには、まだ想像もつかない世界かもしれないけど、きみらもいずれは確実に老いてゆく。そしてその老いてゆくプロセスにおいて、それまで自分のなかで培われてきた価値観や生活というものが、ときに理想への高いハードルになることも少なくないんだ。いかに素敵に年をとりたくても、経験がそれを邪魔してしまうことはままあることなのだ。 四十にして惑わず、と孔子は言った。不惑の四十歳になって、環境も急激に変化してきて、僕のなかに少なからず「惑わない自分」が目覚めてきたように感じたとき、じつは僕は大いにうろたえた。過去の経験が、僕自身の「夢」を邪魔していることに気づいたからだ。自分を変えることは容易ではない。されど、ほんの一センチずつでも進もうとしないことには、到底自分は変わっていかないだろう。 それから三年、僕は大いなる「夢」に向かって、たどたどしくも少しずつは歩けていると実感している。若い頃より遥かに、自分の「老い」に夢を持てるようにもなった。人間とは面白いもので、見えてくると怖れなくなる。怖れなくなると前に進める。前に進むとそのまた先が見えてくる。そうやって自身に道筋をつけ、自分だけの幸せを手にし、充実した日々を送れるようになっていく気が最近はしている。 幸福の基準なんてのは人それぞれだ。「これが幸福だ」という決まったものなどあろうはずがない。だからもしかすると、僕が口角泡を飛ばしてヲトナを論じることも、どこか無意味な行為なのかもしれない。けれどときどき、本当にときどきだけど、そんな僕の文章に何かを感じて言葉を届けてくれる人がいる。そんなとき、僕は書いてて良かったと素直に思う。 書くことは正直に言うと、とても辛い。僕のこれまでを本当にしっかりと見てくれている人には、きっとその僕の言葉がよく理解できると思う。けれど、それほど辛く苦しい作業なんだけど、僕には表現する術がこれしかないのだということだろう。僕自身、果たしていつ、本物のオトナになれるのかもわからない。しかし僕のこの胸の中に「言葉」がある限りは、いつまでも書き続けていきたいと思っている。 「ヲトナごっこ」は僕が創出し構築しつづけている。けれどきっと、ヲトナごっこは誰の心のなかにもあって、色んな形で日々変化しつづけていくのだろう。そうあって欲しいと、僕は心から願っています。
2005年04月22日(金) |
ドレサージュとエセS野郎 |
なんだか某製薬メーカーの名前みたいだな。エセとは似て非なるもの。似非(えせ)のことである。したがってエセS野郎とは、Sの仮面をかぶったにせもの男。とりわけライブチャット界にあっては、話題にことかかないアノ罵詈雑言しっちゃかめっちゃか悪党のことをいうのであった。いや、僕がそう呼んでるだけですが……。 人を人とも思わないという物言いがあるけど、「ひどいこと言われたのっ」といういたいけなチャトレちゃんの苦情は、ほんと後を絶たない。「どうにかならないかしら?」と言われるけど、例によって「どうにもならんがね」と返答するしかないのが哀しい。切ない。 人間には支配欲というものがある。人によって個人差はあるものの、多かれ少なかれ誰もが胸に覚えがあるのではなかろうか。僕はSMというものにそれほど造詣が深いわけではないんだけど、Sの真髄というのは、Mが支配されることによって覚える快楽を「認めて」はじめて自身のSが成立することを知ってる人であろうと想像している。ちょっとわかり難い言い回しだったけど、相手を支配しててめーが悦に浸ってるだけのSは偽物だということ。 これはセックスの醍醐味(?)に通じるものがあって、僕の場合だけど、相手の女性が快楽に浸っている表情を浮かべたり声に出したりすると、それが自身の快楽へと繋がってくるんだな。つまりそれは、僕が相手を快楽へと導いてあげてるからに他ならず、相手の快楽があってはじめて自分の快楽も存在するということになってくる。と書くとわかるかな? すなわち、一方的に暴言を浴びせたり命令口調でまくしたてる野郎は、Sでもなんでもなくて、単なる野蛮人に過ぎないということだ。本物のSであったなら、相手の反応を窺いながら手を変え品を変えるのではなかろうか。一方的に跪かせるのではなく、相手が跪きたくなるように仕向けるのではなかろうか。と、僕は思うわけ。 けれど現実には、そこまで極めちゃってるS男なんてそうそういるもんじゃない。そのくせ弱い奴ほど強い男に憧れるのか、わけのわからんSもどきが、このウェブ世界にはうようよいるのが現実だ。実生活で思い通りにならないものだから、ネットで憂さ晴らししてやがる。ほんと始末におえない。 ドレサージュという言葉は耳慣れないだろうか。日本語では「調教」と訳されるのかな。ドレサージュでふと頭に浮かぶのは、あのエマニエル夫人であったりO嬢であったりするわけだけど、およそ人の心に支配欲というものがあって、それが快楽と何らかの繋がりを持つからには、男と女が社会生活を営むようになったはるか大昔の時代から、ドレサージュは夜毎どこかで繰り広げられてきたのだろうと想像している。 僕はドレサージュそのものを悪だとは思っていない。需要と供給という言葉があるけど、人間の欲望というものを俯瞰したときに、おそらくそれはしっかりとしたバランスで成立しているものなのだろうから。けれど、できもしないのにそこに手を触れたり、責任持ちきれないのに真似っこしたりするのは大嫌いだ。なぜなら往々にして、そういう奴らには、相手を慮る心が欠けているから。本物のSがMの快楽を認めているような、相互に行き来する心のバランスが皆無だからである。 いまはあるのか知らないんだけど、パソコンゲームには育成シミュレーションというのがあって、女の子を自分好みの「女」へと育て上げるなんてのもあった。育て方次第で彼女はレディにもなれば娼婦にもなる。いわば彼女の運命は、かなりな部分をプレーヤーが握っているということになろう。しかしあの手のゲームでは、必ず「プロセス」というのがあった。エロい女にしたいからといって、いきなり「脱げ、おまえはエロいのだ」というひと言で彼女が娼婦になったりはしないのである。 ドレサージュだって育成ゲームだって、そこにおけるプロセスが重要だというのは自明の理であろう。セックスだって同じだ。さっさと脱がせていきなりペニスぶち込もうったってそうはいかない。レイプまがいに犯罪おかすならいざしらず、共に快楽の道を歩むなら、やはり足並みそろえて段階を経ていかねばならないのだ。 しかしライブチャットの世界には、そういうプロセスを経ることのできない余裕のない野蛮人が多すぎる。前述したような「憂さ晴らし」という背景もあるだろうし、また、分刻みにポイントを消費していくからという経済的理由もそこにはあるように思える。いずれにしても、それはてめーの欲望を満たすための論理でしかなく、やはり野蛮人の行為には違いないだろう。 そういえばYahooのメッセにはメッセージアーカイブというのがあって、会話の記録が保存される仕組みになっている。あれをライブチャットの世界でも活用するといいのではなかろうか。あまりにひどい罵詈雑言を浴びせられたら、チャトレはその一部始終をID付で公表するのだ。そしてサイトに強制退室させる機能が備わっていれば、そういう輩を追い出すことも可能になってくるだろう。 ネットにおける匿名性を覆すことは、そう容易いことではないと思う。それだけに、このような問題は、防御するシステムをしっかりとさせなければいけないはずだ。なんでもかんでもポイントを売ろうとする風潮を鑑みると、はなはだ険しい道のりなのかもしれないけど、チャトレが安心してチャットに専念できる環境を整えることも、サイトとして大切なことなんだと考えを改めて欲しい限りである。
2005年04月21日(木) |
すぐ逢いたがる男たち |
ライブチャットは「出逢い系」なんだろうか。たしかにそこでは、日々数多の男と女が出逢ってはいる。しかし出逢いのみを出逢い系の条件とするならば、個人のホームページにある掲示板だって立派な出逢い系に違いない。けれど人は、そこを出逢い系と呼んだりはしないのである……。 そもそも「出逢い系」なんて意味不明な呼称がどうしてこうも持て囃されたのか。インターネットをコミュニケーションツールとして捉えれば、そこでは必ず人と人との出逢いがある。出逢い系なんてカテゴリーをわざわざ作らなくても、ネットは出逢いの場じゃないか。商用バレンタインデーに踊らされた民族は、ネットでも見事に「呼称;言葉」に踊らされてしまったということなのか。「出逢い系」ときくとなんとなく出逢いが待っていそうな気がする。ときめきがそこで両手を広げて迎えてくれそうな気がする。だから「出逢い系」は持て囃されるんだろうけど、その実、やってることは(全てとは言わないが)、ちゃんちゃらおかしいじゃないか。 おそらく、出逢い系サイトを利用する男の大半は、セックス目的だろうと僕は想像している。なんだかんだ言ったって、遊興が文化を牽引するのはあのファミコンにはじまるゲーム業界の繁栄をみても確かだし、このパソコンの世界だって、昔に遡れば8ビットから16ビット、そして32ビットとマシンを進化させたのは他でもないゲームの世界だった。男と女という生き物がうごめく世界にあって、三大欲のひとつとも言われる性欲を満たすものがこのネット世界を牛耳ろうとしていても、なんら不思議はないのである。 そのような状況のなかで、男と女がカメラ映像と音声や文字でやり取りする場が登場すれば、それを出逢い系と捉える向きもわからなくはない。しかしそれでも、僕がここであえて言いたいのは、「ライブチャットをいわゆる出逢い系と一緒にするな」ということなんだ。 うちの「置屋」がサポートしてるチャトレに話をきくと、とにかくノッケから「どうにかして逢えないだろうか」という道を模索してる客が多いことに驚かされる。すぐ逢いたがる男たち、だ。ライブチャットで働いているチャトレたちは、あたかも「欲求不満の女たち」とでも思っているのか、何のためらいもなくその手合いは「逢ってセックス」を目指すらしい。ニッポン男児も、ついにそこまで成り下がったかっ!の心境である。 そういう男連中の話を耳にするにつけ、おやじは心底「遊びを知らない男の増殖」を嘆くわけさ。ライブチャットとはいえ、チャトレだって生身の女だ。ときに客に真剣に恋をし、オフラインで逢瀬を重ね、心のみならず肉体を絡めることだってあるだろう。それが間違った道だとはぜんぜん僕は思ったりしない。しかしそれは、恋愛という手順をしっかりと踏んだ上での流れであって、「誰でもいいからオレの精子を受け止めてくれ」というアホの論理とはまったく別のものなのだ。 これは別口で書こうかとも思ってたんだけど、とにかくこのライブチャット界においては、女の愛し方を知らない男が多すぎる。チャットエッチが悪いとは僕は思わないけど、相手の心と体を考えられない一方的な行為は、エッチとは言わないんだ。それは単なるオナニーでしかない。だったら、チャトレ相手にせずにビニ本抱えてろと、いつか書いた覚えもあるな……。 夜の繁華街を徘徊するときも、「抜き目的」のヘルスやサロンならいざ知らず、おねーちゃんとの会話を楽しむクラブでいきなりズボンを脱ぐアホがいますか?ソファに座って開口一番「ホテル行こうぜ」と言うアホがいますか?遊びにだってね、手順ってのがあるんだ。ホステスを口説きたければ、あしげく通って優しさをアピールし、更に心と心で交われる相性があってこそ口説き落とせるんだよ。それが「すぐ逢いたがる男たち」にはまーるでない。ぜんぜんない。 いわゆる出逢い系サイトというのは、女を求める男が集い、男を求める女が集う場だろう。だから双方の思惑が絡み合って出逢いは成就する。綺麗だろうが汚かろうが、セックスのみであろうが、それは双方の目的が合致して成立する出逢いなんだ。でもね、ライブチャットってのはそこが違う。チャトレたちすべてが出逢いを求めているわけじゃない。密かにそれを求めているとしても、来る男すべてにそれを求めているわけじゃないんだ。だから僕は、ライブチャットは出逢い系ではないと考えている。片方だけの思惑でカテゴリーにはめ込んでしまうのは、やはり無理があるだろうから。 本当の遊びを知っている大人たちは、本当の女の愛し方も心得ているのだと僕は思う。てめーの欲望を最優先するのではなく、それを抑えこんでもチャトレの幸せを願える姿勢こそが、僕はチャッターの真髄ではなかろうかとも思っている。そういう真のチャッターがこのライブチャット世界に少ないのが、僕は本当に悲しい。大好きな世界だけに、汚されかき回され乱されていくのが、厭で厭で仕方がないんだ。 女を愛することすらできないくせに逢おうなんて思うんじゃない。まずはてめーの心を鍛えなおせよ。出逢いはそれからだ。悔しかったら、黙ってても女のほうから逢いたくなるような男になってみやがれ。どうせ「すぐ逢おう」くんには無理な離れ業だろうがね。
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