「置屋のおやじ」をやってると(娼婦抱えて商売やってるわけじゃないぞ)、チャトレたちの愚痴を耳にすることも少なくない。私生活の相談事は脇に置いとくとして、その他の話を大別すると、厭な同業者(性悪チャトレ)の話と仕事上のノウハウ、そして厭な客の話の三つに分類される気がする。とりわけ無礼な客に関する話は多くて、「どうにかならないものか」と持ちかけられても「どうにもならないでしょうなぁ」と返答するしかないのである。 以下、チャトレの代弁…… ノーマルチャットなのにアダルト行為をリクエストし、チャトレができないと断ると「商売下手だね」と捨て台詞をはいて落ちてしまう男。あのなぁ、アダルトチャットでアダルト行為を拒否するチャトレはどうかと思うけど、アダルト禁止のノーマルチャットで「商売下手だな」と言い残すお前さん、アホちゃうか?ノーマルチャトレの「商売」は「お話し」なんだ。二の句を継がせずさっさと落ちる態度も横柄だけど、それ以前に、日本語勉強しなさい。 一生懸命応対してたのに、突然前触れもなく落ちてしまう男。接続が切れちゃったのかと思って待っていてもなしのつぶて。いつの間にやらよそで他の子といちゃいちゃしてたりする。あのなぁ、ひとこと「落ちるよ」てな挨拶くらいしてけよ。「どうも君とは相性が合わないみたいだから、申し訳ないけど別の子を探すね」と丁寧に言い訳する必要ないからさ。せめて「チャット終了します」という意味の言葉くらい残して去れ。お前らには「無責任」とか「後味の悪い」という感覚はないのか。それは明らかに人の道にもとる行為だぞ。 アダルトチャットでいきなり「脱いで」とはじまり、次は「感じて」で、仕舞いは「声きかせて」とこの三つの科白しか吐けない男。あのなぁ、どの世界に「脱いで」と「感じて」のふたことで濡れる女がいるよ?お前らセックスの経験あるのか?女を愛したことがあるのか?悪いこと言わないから、ビニ本(死語?)相手に「脱いで」「感じて」と呟きながらページめくってろ。それで充分だ。 まだまだ「あんなことあったよ」「こんなことも」というチャトレも少なくないだろうけど、哀しいことにチャトレとしてそれを公の場で口にすることも難しいのだと想像する。僕はもっと、自分のブログ等で発言してもいいと思うんだけどね……。 この手合いの多くは(すべてとは言わない)、社会生活が苦手な奴らだと僕は想像している。ネットを介した繋がりの基本はコミュニケーションであるのに、チャットというのはそのコミュニケーションツールであるのに、肝心なコミュニケーションが下手な奴らだ。「人と人」という「しらがみ」のなかでは何ら堂々とした態度もとれないくせに、相手がパソコンとなると俄然好き放題やりはじめる。パソコンは自分に殴りかかってこないし、匿名性というネットの「盾」に隠れてしまえば素性もばれないから、あとは己の欲望の赴くままに行動して平気な奴らなのだろう。 もちろん、社会生活はなんとなく無難にこなしつつも、そこで鬱積したものをネットで吐き出してる者もいるだろう。ネットワークの向こう側にいるチャトレたちを、あたかもゲームのキャラの如く勘違いしてとらえている者もいるかもしれない。けれどそれも突き詰めていけば、やはり「責任」や「モラル」「ルール」といった社会の枠組みに馴染めない姿と、僕は重なって見えてくるような気がするんだ。 ネットをみてると、人間はなんて面倒なものを作っちまったんだろうかと思うことがある。ネットは道具だ。さまざまな目的でさまざまなことを行うための道具だ。けれど道具を用意するときに最も肝心なことを、人間はおざなりにしてしまった。それが「モラル」と「ルール」。自動車を運転するためには免許証が必要だけど、それを取得するためには教習所に通ってあれこれ学ばねばならないよね。自動車は人を殺す凶器にもなるのだから、正しい扱い方をしっかりと身につけないと、とてもじゃないが運転なんか任せられない。 けれどネットを利用するにあたって、どこに教習所があります?そんなのないでしょ。モラルやルールなんか学ばなくても、ネットは利用できてしまう。文字や無礼な態度がどれだけ人の心を傷つけるかなんて知らなくても、文字が打ててしまう。何か事件が起きると、あわてて行政が後手後手の対策を講じるように、最近少しずつそういうネットのモラルやルールにも法規制の手が伸びつつあるけど、どう考えてもやることが遅い。遅すぎる。 モラルとかルールとか書くと、なんか難しそうだなぁと感じる人も少なくないだろうね。でもね、決して難しいことはないんだと僕は思うんだ。「おはよう」と挨拶されれば誰だって気持ちがいい。何かしてあげたときに「ありがとう」と言われると、やはり嬉しい。やって良かったなって思う。そういうごくごく基本的な人と人とのコミュニケーションをつづけていけば、それでいいんじゃなかろうか。 車が走ってない横断歩道で、赤信号を待ちながら「誰も見てないからいいか」と信号無視して渡った後に、ちょっとだけ胸が痛むことがあるでしょ。胸が痛んだら、もう二度とそういうことはしないようにすればいいんだ。ルールを無視すると、自分もどこかで厭な想いをするんだということを、誰もが胸に秘めてネットを利用すれば、かなり数多くのトラブルは消えてなくなるように僕には思える。 問題なのは、なにより利用する人の心のなかに巣食っているナニモノかなのだから。
2005年04月04日(月) |
スーパーチャトレ列伝 留美(仮名) |
アダルトの派手さに比べれば、どうしてもノーマルはアピール度でひけをとってしまう。もちろん集う客層も異なるだろうから、比べること自体がナンセンスには違いないんだけど、それでも群を抜いて頑張っているチャトレはちゃんといるのだ。 留美を見かけたのはGOAだった。DXで知り合った有紀がノーマル用に登録していたのがGOAで、誘われるままに流れた海で留美は見事な個人メドレーを見せてくれていた。チャトレに他のチャットサイトを紹介されるというのはよくあることで、はなはだ他人任せのようには思えるけど、僕のチャット世界探求の旅は、いつもチャトレの紹介によるものだった。 「ここには若くて可愛い子が沢山いるでしょ」と有紀は何度か同じ科白を僕に聞かせてくれたけど、確かに当時のチャット世界にあっては、GOAは粒揃いのサイトだったのかもしれない。個性もいまよりは豊かだったような気がする。サムネイルリストをさーっと眺めただけで、瞬時にチャトレたちを三つに分類できたほどだ。ひとつはもちろん可愛い系で、ふたつめは大人系(熟女まではいかないお姉さん系かな)、そしてみっつめがエンターテイメント系(通称お笑い系)。 僕がなぜ留美のルームに入ったのかは、じつをいうと記憶が曖昧になっている。つまりは理由が思い出せない。若いわけでもない(ごめん)。格別美人というわけでもない(ごめん)。男を引寄せる女の魅力をまとっていたというわけでもない(何度もごめん)。けれど、ノーマルチャトレで誰を筆頭に書こうかなと思案したとき、まっさきに頭に浮かぶのは留美を置いて他にないのである。 これは凄いことだ。もしかするとチャトレたちの頭の中には「男はより美しい女、よりエロい女を目指す」という不文律が存在しているかもしれないけど、明らかにそれを根底から覆す結果ではないか(あ、かえすがえすごめん)。けれどそれだけに、数多のチャトレに光を投げかけてくれるのが、もしかすると留美なのかもしれない。 ひとことで留美というチャトレを表現するとしたら、やはりエンターテナーという言葉しかないだろう。「スティング」という映画のタイトルソングとなった「エイターテイメント」という曲は、スタンダードラグの名曲だけど、あの曲にあるような小気味良さ、そして強弱、優しさ、もちろん楽しさを忘れない雰囲気が、留美には備わっていたように思える。 涙を流したくてチャトレのドアを叩く男はいないだろう。もちろん怒りたくて叩く奴もいない。誰だってひとときの安らぎと楽しさを味わいたくて、チャトレの顔を見にくるに違いない(アダルトはまた別だけど)。チャトレたちを眺めていると、明らかな受身の子がたまにいるけど、ぼくはやはりチャトレというのは、攻守を絶妙に使い分けられる子であって欲しい。空気を読み、その場に応じた「相棒」を演じてくれることがチャトレには必要だと思うし、そういう点ではやはり留美は筆頭であり、アダルト編で紹介した麻耶にも通じるものがあると思える。 留美はとても素直なのだと僕は感じている。素直という表現も、ありがちでじつに不明瞭な表現だけど、表裏がないと解釈してみて欲しい。平たく言えばわかりやすい。仮に嘘をついていたとしても、見てるとすぐわかる。本人もそれを薄々察してか、いつも率直な言葉と態度で接してくるから気持ち良い。こ汚いことが山積している社会に生きていると、そういう素直さがとても心地よいのである。 手抜きを味わいへと転化できるのも、特筆すべき留美の特徴だろう。彼女のルームを介して、僕は他の男性客とも知り合いになったけど、留美がひたすら傍観して男連中だけが話し込んでいるという場面も少なくなかった。なんて楽な商売。いやなんちゅーチャトレだ。けれどそこに一片の厭味もなく、また来たいと思わせるのだから、チャトレ技量以前にそれは人徳なのかと思ったりもする。 前述したけど「空気を読む」ということ。これはチャトレにとって必須の能力であり、傍観することがその場の空気になじむのであれば、笑顔でお菓子をつまんでいるだけのチャトレでも二重丸に違いない。客の目的がエロや出逢い系恋愛でないのなら、ひとときの楽しい時間を求めてきているのなら、それを上手に演出してくれればそれでいいからだ。 もちろん留美は手抜きが上手というだけではない。僕が知る範囲では、筆頭の着ぐるみチャトレでもある。別にコスプレというわけではなくて、客を喜ばせるためのアイテム(ヅラ他)をきちんと用意していて、女としての自分を殺してでも笑いをとれるという凄腕(ときに哀れかも)なのだ。己を捨てられなければチャトレではないとは言わないけど、それもひとつの武器には違いないだろう。 自分を生かす術、それを心得ているスーパーチャトレ。それが留美だと僕は思う。
恋に必要なものってなんだと思う? その答えはいくつも出てきそうだけど、僕がここで着目したいのは「無垢である」という心のありかた。恋は相手を無条件に受け入れてしまうよね。冷静に判断すると否となりそうなことでも、恋をしてしまうとそれは是となってしまう。摩訶不思議な人の心理状態、それが恋。最近、恋してますか? チャットするときのチャトレの姿勢もさまざまなようだけど、客を客としか思ってないようなチャトレと客以上の存在として受け止められるチャトレとでは、自然と態度も言葉も違ってくるし、客はそれを敏感に感じているのではないだろうか。それは、事務的ともプロ根性丸出しとも翻訳できそうだけど、単なる客扱いしかできないチャトレとの会話ほど、つまらなく後悔するものはない。 男たちはそこに何を求めてくるのか。アダルトサイトにあっても、客がアダルト行為のみを求めてくるとは限らない。ましてや、誰でもいいから話し相手になって欲しいと思ってライブチャットに集っているとも僕には思えない。そういう理由であるならば、無料のチャットがいくらでもあるからだ。多かれ少なかれ、ライブチャットに集う男の心には「出逢い」という言葉があり「恋」という感情への敬慕があるのだと僕は察している。 出逢いや恋であるならば、無料のチャットだって可能でしょと仰るだろうか。そう、可能だし現実にそういう出逢いや恋は日々星の数ほど生まれているのがインターネットという世界のようにも思える。しかし、無料のチャットとライブチャットとの違いってなんだろう。哀しいかな男という生き物には、「視覚」で物事を判断する性質があって、文字世界のみで想いをめぐらせるよりは、女の姿を目の当たりにしながら想い焦がれるようなところがあるのだ。もちろん特異体質もいるけど。 だから、カメラの向こうにいる話し相手は常に「生身の女」でなくてはならない。客と恋愛してはいけないとインプットされたロボットであってはいけないのである。そんなロボットと話をするくらいなら、僕は無料の文字世界を彷徨っていたほうがはるかに楽しいような気がする。男という生き物なりの出逢いを求め恋を求める場、それを具現化してくれたのがライブチャットという見方もあるのではないだろうか。 それでは、ライブチャットに本物の出逢いってあるのだろうか。答えはイエス。あります。ライブチャットで知り合って直接逢った経験は、この僕にもあるから。もっとも僕の場合は、女性写真を撮ったりしてる関係で、チャトレのプロフ写真を撮る目的の「逢瀬」ではあるけど、それでも「出逢い」には違いないだろう。そこから現実の恋愛へと発展しないとも限らないではないか。まあ、発展してないからこうやって書けるんですけどね……むにょむにょ。 まだ僕がライブチャット若葉マークの頃、不埒な僕はとあるチャトレ相手に「写真のモデルを探してるんだ」と話したことがあった。すると開口一番彼女は「そういう目的ならここに来ても無駄よ」とあっさり返してくれた。いま思えば確かにそれは正論に違いないようにも思える反面、それじゃ身も蓋もないだろうという気はいまだにしている。 バイトでモデルをやる子は結構いる。かつては少なかったけど、最近ではその手のサイトも増えてきて、きちんとした段取りを踏めば、ポートレイトであろうがヌードであろうがモデルなんぞいくらでも手配可能だ。しかし「そういう話じゃないでしょ?」という気持ちが、どうしても僕の胸中で燻りつづけて消えようとしないのである。 おそらく彼女の脳裏には、「撮影=実際に逢う」という等式が浮かび上がっていたのだと思う。当たり前だ、いくらネットワークが進歩しようが、電線のなかで写真撮影などできる道理がない。撮るからには逢わねばならない。しかしそこで、即座に前述のような言葉を返してしまって、果たして彼女はチャトレたり得るのだろうか。嘘をつけとはいわない。逢う気もないのに「いいわねぇ」なんて相手に気を持たせる物言いが是とも僕は思わない。けれど、可能性すら否定して返してしまっては、いきなり堅固な鉄の扉を閉ざしてしまうようなものではないか。 僕の胸に刻まれたチャトレたちは、誰もが上手に恋の相手をしてくれた。それは儚い夢物語かもしれないけれど、彼女たちの一喜一憂は間違いなく、僕の心に深く刻まれている。おそらくは僕だけでなく、彼女たちと言葉を交わした数多の男たちもみな、似たような経験をしてるのだろうけど、彼女たちは決して八方美人なのではなく、客である男たちの心を上手に受け止めてくれていたのだと僕は想像している。 そしてその心の根底には、「無垢」という心の状態があったのではなかろうかと僕は思うわけだ。僕の言葉に感心し、それに対する自分の想いを素直に返してくる。僕はその言葉に感じ入り、彼女に心を開いてゆく。そこにはきっと、「無垢」という心があったのではないだろうか。 客である男たちのみならず、女であるチャトレたちにも、少なからず出逢いへの夢はあろうかと思う。数限りない恋物語が生まれているのが、このライブチャットという世界のようにもみえるからだ。たしかに、初めてのチャットでいきなり「逢おうぜ」と口走る莫迦な男もいるけど、そういう勘違い男を上手に嗜めて、「出逢い」という言葉の意味を誰よりも深く考えているのが、僕はチャトレという女性たちではなかろうかとも想像している。 チャトレたちよ、恋をしなさい。多くの男たちを知り、彼らに映る自分の姿をよく見極め、それを手に己を磨き上げていきなさい。恋する女の姿というのは、まことに美しいものなのだから。
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