ヲトナの普段着

2004年12月22日(水) ザ・パイプカット2 /戸惑う心たち

 パイプカットをすれば、もう二度と相手を妊娠させることはありません。避妊という言葉ともおさらばできるわけです。精子そのものとサヨナラするのですから。しかしそれだけに、男の心にも女の心にも、普段ないさまざまな想いが去来します。僕らの間でも、さまざまな心たちが戸惑っていました。
 
 
 夫婦間でパイプカットの話が出た当初、妻のなかにはふたつの大きな戸惑いがあったようです。ひとつは、僕の体を傷つけるということでした。パイプカットは手術ですので、当然のことながら僕の体にメスが入ります。病気ならいざ知らず、自分たちの言わば都合でそうなるということ。そして同時に、人間のオスとして僕が持っている生殖機能を断じてしまうということ。しいては、それが彼女の僕に対する負い目となってしまうかもしれないことに、大きく不安を抱いているようでした。
 
 僕らにはふたりの子どもたちがいます。「大人ひとりに子どもひとりが精一杯だろう」というふたりの判断で、子どもはふたりと決めていました。「もしもこの先、子どもが大きな病気で命を失うことになったらどうするの」と妻は尋ねましたが、僕は「それはそれで親にとっても子にとっても運命というものでしょ」と応えました。生命や家族は数字合わせではありません。ひとり減ったからひとり増やそうなどということは、考えられないのが当たり前だと僕は思います。ですから、ふたりの子宝を授かった時点で、種の存続を担った僕の使命は終わったのだと僕は考えていました。
 
 事実、僕ら夫婦の間でパイプカットの話が持ち上がったのは、第二子を授かってしばらくしてからでした。妻は当時リングを着用していましたが、どうにも体調が優れず、外したほうがいいだろうと話し合った末に出たのがパイプカットという道だったんです。
 
 
 ふたつめの戸惑いは、妻が耳にした産婦人科看護士の言葉でした。「パイプカットすると、ご主人は女遊びするようになりますよ」という科白です。「パイプカットしなくても、女遊びはするんじゃないの」と僕は思いましたけど、もちろん言葉にはしませんでした。避妊の確実性が遊興へと繋がるというのは、一般的に耳にしがちな話の筋のようにも思えますけど、それを看護士が言っちゃお仕舞いだろと僕は思ったものです。
 
 たしかに、パイプカットという選択肢を眼前に置かれたとき、僕の脳裏に不埒なイメージがかすめなかったと言えば嘘になります。男ですもの。女を知ってこのかた数十年、避妊と戦いながら裏街道をこそこそ歩いてきた男にとって、その呪縛から解放される事態を遊びと結び付けない道理がございません。
 
 しかしその行く末に驚愕したのは、他でもない僕自身でした。時系列がめちゃくちゃになりますけど、パイプカットをしたからといって女に走ることもなく、術前と術後とで心境に変化があったわけでもなく、あの心配はいったい何だったんだろうかと思うほどです。もっともその辺は、個人差や年齢的なものも過分に影響してるとは思いますけれど……。
 
 
 一方、男である僕の側にも、戸惑いはありました。手術を受ける当人ですから、当たり前のように手術の内容や術後に後遺症等の影響がないかは、なによりもまっさきに心配しました。当初僕の知識は聞きかじりに過ぎませんでしたが、いざ自分が直面することによって、自分の目で確認して知識を身につけたように思い返されます。
 
 生殖機能を失うことへの不安も、それほど言葉にはしませんでしたがありました。結論は前述のような言葉でお互いに納得したわけですけど、理屈でねじ伏せられるほど人間の心というのは軟にできてはいません。後悔したことは一瞬たりともありませんでしたが、後悔するのではという不安は常にあって、それこそ手術台に横たわった瞬間ですら、ふと脳裏をよぎったものです。やはり、次の生命へと繋がる機能を手放すからには、それなりに深い想いがそこにはあるということなのでしょう。なんか他人事のようですが……。
 
 
 パイプカットとはどういうものなのか。僕自身がそうであったように、それを詳しく知る大人は意外と少ないように思えます。「パイプカットすると精液は出てこなくなるの?」とか、「いずれ子どもが欲しくなったら修復できるんでしょ?」というものから、「立たなくなっちゃうんじゃないの?」「いくらくらいかかるの?」というものまで、じつにさまざまな質問を受けたのもこの半年という期間でした。
 
 パイプカット手術では、「精子を作るためのホルモンを睾丸へと送る管」を切断します。精子を射出する管をカットするわけではないんです。したがって、精子そのものが製造されなくなります。それでは精液はどうなるかというと、きちんとそれまで通りに白い液体は出てきます。精液は製造されているけど、そのなかに精子は含まれていないということです。味や匂いに変化があるかまでは……僕にはわかりませんけれど。
 
 聞くところによると、パイプを切断せず、小さなクリップのようなもので止めてしまう手術もあるようです。八年前に訪ねた泌尿器科ではそのような説明を受けました。切断とクリップとどちらかが選べると。しかし、クリップの場合は完璧な避妊とは言い切れないと感じました。最終的に僕がお願いした泌尿器科(前述とは別の医師)では、クリップは確実性に問題があるからやらないと説明を受けましたから。
 
 切断したものは、元には戻りません。将来的に復元する技術も開発されるかもしれませんけど、一般的には、一度切り離したパイプは元のように繋げることはできないと思ったほうがいいでしょう。僕もその点は、医師に念を押されました。
 
 性生活への影響、すなわち勃起不全等の後遺症に関しては、医師によると心配しなくていいということでした。多少ぼかしている辺りが、確率的には少なからず影響があるのかなとは思いましたが、手術の理屈を考えてみても、それが直接性生活に大きな影響は及ぼさないだろうと僕は判断しました。
 
 手術費用の話ですが、「相場」というものを僕は知りません。もちろん保険など適用されるものではありませんから、どこで手術してもらってもそれなりにかかるとは思いますけれど、僕の場合は十万円と消費税(こんなもんにも消費税かよと思わず苦笑い)でした。ご参考になさってください。
 
 
 最終的に実行を決意した僕の胸のうちには、「これで少しは、妻に対する負い目が軽減できるのだろうか」という想いがありました。こと避妊という行為に関してだけでも、過去にピルで体調を崩したり、マイルーラで産婦人科に相談に行ったり、リングを入れたものの数年後には外してと、妻の肉体には負担をかけてきたからです。そのくせ男というのは身軽なもので、せいぜいスキンを装着するのが面倒だなぁというくらいなもの。妙な物言いですが、これで少しは妻と同等になれると考えた浅はかさも、男という生き物ならではなのでしょう。
 
 性を考えるということ、生命を考えるということ、人間を考えるということ、それらを夫婦という間柄のなかで幾度となく繰り返し話し合って、僕はパイプカット手術を受けることにしました。はじめのうちはぎこちなかった話し合いも、いつからか真摯なものへと変化していったようにも思い返されます。腹を割って面と向かうことは、どのような場面でも重要なのでしょうね。しみじみそう思いました。
 
【つづく】



2004年12月20日(月) ザ・パイプカット1 /究極の避妊

 これを書くのに半年悩みました。はじめは心情的に、次に道義的に。けれどそうして悩むからには、やはり書いておきたいという気持ちがあったわけで、年が新しくなるその前に、僕のなかで一応の決着をつけておこうと思います。タイトル通り、パイプカットの話です。
 
 
 今年の春に、パイプカットをしました。「パイプカットってなに?」といういたいけな読者のために言葉の説明からはじめますが、パイプとは「精子を作る管(詳しくは後述します)」であり、それをカット(切断)するのですから、精子を作れない体になるということです。つまりは避妊手術ということになります(去勢ともいうようですが)。
 
 避妊方法もさまざまで、確実性という視点でみるといくつかの段階に分かれるかと思います。最低レベルは「生挿入で外出し」でしょうか。避妊と呼べないような気もするのですが、殊のほか多いのではと推測しています。それも一度ならず一夜に二度までも「外出しするから大丈夫」などとほざく男もいます。一度目ならまだしも、二度目はペニスに精子が残っていますので、かなりリスクが高いと思わねばなりません。
 
 かつて「マイルーラ」という膣内挿入型の避妊薬がありましたけど、あれは生産中止になったのでしょうか。遠い昔に、彼女が耳許で「そのままいっていいよ」と囁いたとき、かつてないほどときめいてしまった思い出がありますが、僕がマイルーラを知ったのはそのときでした。けれど、あれもどことなく危なっかしい気がしたものです。スキンを使うときの補助薬という認識でした。
 
 スキン、コンドームは全世界的に使われている避妊方法だと思うんですけど、スキンも万全ではありません。装着方法に不備があると、動いているうちに先端が圧力で破裂する危険性があるからです。破けたのを知らずに射精してしまい、血の気が引いた経験を持つ方も少なくないかと思います。特に女性に警告しておきますが、スキンが破れるとペニスはそれを察知するはずです。きわめて薄いスキンであっても、生とはぜんぜん違います。それを知らん顔で通す男は信用できない奴だと思ってください。
 
 薬といえばピルがありますね。妻もかつて使ったことがありますが、薬で人間の生理を操作するわけですから、かなり肉体に負担がかかる方法だと僕は感じています。それから、スキンの女性版、リングというのもあります。これも妻は経験しました。しかしどうにも体調が不安定になり、三年ほど装着していたかと思いますが外してしまいました。体質によって適不適があるようです。
 
 少々古典的な方法になりますけど、オギノ式という避妊方法もありますね。もちろん我が家でも経験済です。もっとも僕ら夫婦の場合には、避妊目的ではなくて懐妊目的でしたけど……そういうのはオギノ式懐妊方法とは呼ばないのでしょうか。理屈は同じなんだけどな。
 
 こうして一般に採用されているであろう避妊法を列挙してみても、100%確実という避妊法は世の中にはないんです。唯一、精子を作らないパイプカットを除いては。ですから究極の避妊方法となるのでしょうが、それだけに、決断にはそれなりの経緯も必要でしょうし、正しい知識がなにより重要となる気がします。
 
 
 僕がパイプカットに至った経緯、じつはそれこそが、このヲトナごっこに記録すべきところなのかもしれませんけど、半年悩んだ末に出した結論は、そこには言及できないというものでした。起承転結も伏線も無視した本題のみの小説みたいで、なんとも情けない話になってしまうんですけど、どうしても公の場で書くことができません。自分のことならいざしらず、これは、夫婦や家族をも巻き込む話になりますので……。
 
 ただ、根っこが判然としないまま言うのも説得力に欠けるとは思いますけど、はじめに夫婦間でその話が出てから実行するまでに、僕らは八年近くの歳月を要しました。そしてその間には、当初の考えや衝動だけでなく、その後の「出来事」も積み重なっての結果であることを、はなはだ身勝手な書き方ですけどご理解いただきたいと思います。
 
 いま僕が思うのは、正しい避妊とパイプカットというものの認識を、読者の皆さんに手にして欲しいということです。僕自身が実際に経験をしてみて、それを近しい仲間たちに話したところ、意外なほど彼ら(あるいは彼女たち)の知識が乏しいことに驚きました。この記述が、少しでも避妊に悩む人たちの手助けになればと、僕はそう願っています。
 
【つづく】



2004年12月10日(金) 不平等だから愛がある /制約が人をつくる

 厭な世の中になったものだなどと、ようやく不惑の未熟者が口にする科白でもないのかもしれませんが、社会の縮図のようにもみえるウェブを俯瞰するたびに、僕の胸中にはやり切れぬ想いが広がります。ある時期に正しいと考えていた道筋が、じつはとんでもない迷路への入口であったことに、そろそろ気づかないと大変なことになるようにも思えて……。
 
 
 ウェブコンテンツ、とりわけアダルトコンテンツの世界を眺めていると、堕落した男女の姿にため息が漏れることも少なくありません。僕自身、そんなアダルトコンテンツを楽しんでるひとりの男には違いないのですが、あるべき姿からはとうの昔に離脱してしまって、いまや人間の厭な面のみを露呈する場に成り下がってしまっている気がします。
 
 ライブチャットをはじめとする有料無料さまざまなチャットや掲示板、そして出口のみえない出会い系サイト、自己責任において遊ぶのだから何ら恥じることなどないと言う人も少なくないように思えますが、その「自己責任」にこそ大きな問題と落とし穴が潜んでいることに、どうして気づかないのでしょうか。
 
 そもそも、「自己」で「責任」を負えるほど、このウェブ世界にたむろしている人たちは人間が成熟しているのでしょうか。誰にも迷惑をかけてないなどと口先だけの言葉を吹聴し、いざ手に負えなくなるとさっさととんずらする。相手の人生を背負う度胸もないくせに、平気で美辞麗句を並べ立てる。そして、そんな虚構の世界を、ひとときの安らぎだなどと勘違いして受け入れてしまう。その先に存在するであろう人間の変わり果てた姿というものを、彼らはきっと想像できていないのだと僕には思えます。
 
 
 自由という言葉は、もしかするとこの国では、もはや死語となりつつあるのかもしれません。義務を蔑ろに権利ばかりを主張してきた民族は、自由を手にしたつもりでいながらそのじつは、混沌とした無法迷路を彷徨っているだけのようにもみえます。抑制されるものがあるから自由は存在する。そんな基本的で単純な理屈ですら、頭の片隅にも置き場を持たない大人が増えてしまったということなのかもしれません。
 
 近年、子どもたちの学力低下が取り沙汰されています。具体的な原因を探り出すと手に負えぬほど広範囲に渡りそうですけど、彼らもまた、幻の自由を目指した大人たちが描くユートピアの犠牲者とも言えるのでしょう。それを事前に察知していた一部の大人たちに見守られ導かれた子どもたちだけが、十年後二十年後にはこの国の柱となっていく。なんとも末恐ろしい国の姿だとは思いませんか。
 
 いまこそ、僕は「自由」を真剣に考えるべき時代だと感じています。本当の自由というものを、本当の幸せというものを、それらが過飽和状態にある現代だからこそ、人は真剣に根本から考え直し探りなおす時期にきていると思うんです。そんな現代を象徴し牽引していくべきウェブという新たな世界。そこで織り成される核心のない人間模様の数々を目のあたりにするにつけ、僕のため息と絶望が広がっていくのも、少しはおわかりいただけるのではないでしょうか。
 
 
 僕は過去に憧れる男のひとりです。もとから歴史が好きでしたが、日本の江戸期や西欧の中世文化に強く惹かれています。あの時代には制約があった。現代と比べると、ばからしいほどに人間の権利を無視した制約がありました。けれどそこで人々は、おそらくは現代より遥かに輝いて生きていたのだと想像しています。きっと思うに任せないことの連続だったでしょう。しかし、限られた条件の下でも生命は進化するように、あの時代の人々もまた、制約の下で人間本来の姿に磨きをかけていたのだと思うんです。
 
 仲間と酒を酌み交わしながら話すとき、昔からよく口にした喩えがあります。電気というのは電線のなかを流れていきますが、その電線に全く「抵抗」というものがなかったら、電気は流れないんです。抵抗があってはじめて、電気は電流として我々の生活に光をともすんです。人間もそれと同じだと僕は思います。抵抗があるからこそ、それに抗する努力をし、力を身につけていく。そしてそこに達成感も生まれ、それは生きがいとなって人生を豊かにしていくんです。
 
 権利を考え主張するのは大切なことです。なぜならそれは、社会という枠組みのなかで生きていく自分を、人間として考える根本だからです。されどそれは、自分が置かれた立場や環境を鑑みた主張でなければなりません。自らの権利を生かすために、権利を主張すると同時に、己に負荷を負わせねばならないということです。そう、現代人に最も欠けているところでもあります。
 
 
 こんなことを口走ると、またヒンシュクをかいそうな気がするのですが、僕は男女平等と囃し立てるのはいかがなものかと考えています。人間の性、つまりは男と女という立場は、生物という観点からも明らかに別なものです。昨日今日騒ぎ出したたかだか数十年の人間経験者が論ずるより、数千年という人間の歴史が示している明白な真理だと思います。もちろん、社会的権利に関しては、男女に不平等があってはならないと僕も思います。しかし様子を眺めていると、どうも別の次元で平等をさかんに唱えているように思えるふしもあるんです。
 
 女は子どもを生み育て、男は家族を命がけで守る。おそらく男と女というのは、そういう単純な構図を天から授かった生き物ではないでしょうか。社会的事情によるとは思います。母でありつつも夫と同じように社会で働かねばならない状況というのは、あたりまえのようにこの国では展開されていますから。けれど僕が言いたいのはそういう見た目の形ではなく、もっと精神的な面での男女の位置関係です。
 
 上にいるから優れているとか、下にいるから劣っているなどという考え方は、人間と人間を並べ比較してみたときに、なんら意味のない評価基準なんです。人はそれぞれ個別の生命体であって、それは夫婦や恋人という関係にとどまらず、親子という関係においても尊重されるべき個々の生命なんです。そういう原理原則に立ち返れば、互いがどういう位置関係にいようとも、人間の尊厳が失われることなどないと気づくはずです。
 
 そしてそういう同等でない位置関係にいるからこそ、深い真の愛情も芽生えるということに、できれば気づいて欲しいものです。守る幸せ、守られる幸せ。支える幸せ、支えられる幸せ。持ちつ持たれつという言葉がありますが、人間は持ってばかりいては駄目なのだと僕は思います。ときに伴侶に持ってもらい、そしてまた自分で持ってあげるような関係が、人には必要なのではないでしょうか。自分を形の上で下におく。それは考えようによっては、意図的に己に負荷を課すことにも繋がるように思えます。
 
 
 先日、テレビで「なぜ勉強しなければならないかを子どもに教えられる親が減った」という発言を耳にしました。これにも答えはいくつかありそうに思えるのですが、ふと、かつて友人が口にした科白が思い出されました。
 
「僕は選挙には必ず行くことにしてる。なぜなら、まだ選挙権が与えられてなかった時代に、どれだけの人たちがどれだけ苦労してその権利を手に入れたのかを思うと、いかなる選挙であっても、それを蔑ろにできないからだ」
 
 現代は恵まれすぎていると思います。自由の意味すらわからなくなって、権利を当たり前のように行使しようとする。けれどその権利は、自分が苦労して手にしたものではないんです。先人たちが、それこそ命がけで手に入れてくれた権利なんです。それを忘れ、いや、それしら知らずに自由を口にする人間が増えてしまった現代、とりわけウェブコンテンツの世界を嘆く僕の気持ちも、これで少しはご理解いただけたでしょうか。
 
 まさに、混沌とした時代のように思えます。


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ヒロイ