沢の螢

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再開のエチュード
2005年12月09日(金)

「再会の・・」という題ならロマンチックな恋物語になるが、あに図らんや、色気のない話題。
2,3日前から、ピアノの練習を始めた。
若い頃、出産を控えて、当時勤めていた会社を辞めた。
その退職金で念願のピアノを買ったが、子供が生まれ、育児に追いまくられて、ピアノどころではなくなり、ちゃんとレッスンに通うでもなく、子どもの頃習った教則本を見て、ポロンポロンやっていたが、いつの間にかうち捨てられてしまったピアノである。
楽器は、やはり、先生に付かないとダメである。

私が子どもの頃は、ピアノは、余程金持ちの家でないと、個人が持つのは、一般的ではなかった。
学校の音楽室にあるピアノが、身近で見る唯一の物だった。
小学校6年の時、どうしてもピアノが習いたかった。
そこで父が、当時通っていた小学校の、音楽の先生のところに、私と、2,3人のクラスメートを伴って、何とかピアノを教えてもらえないかと、頼みに行った。
家で、紙の鍵盤の上で指を動かしている娘を、かわいそうに思ったのだろう。
先生は、はじめは断ったが、何度か頼んでいるうちに、とうとう、教えてくれることになった。
今なら、他の親たちから文句が出るところだが、当時は、親世代が、ピアノなんてものに関心がなかったし、子ども達は、外で走り回って遊ぶのに忙しかった。
学校で、先生に教わった歌を、合唱するくらいが、せいぜいだった。
だから私たちにピアノを教えてくれることになった先生は、全くのボランティア、月謝はいりませんから、ピアノの調律代だけみんなで負担して下さいと言うことだった。
毎週日曜日、私たちは、電車に乗って、先生の自宅に通い始めた。
皆、家にピアノがないので、レッスン日の他に、週に一度、先生宅のピアノで、練習させてくれることになった。
まる3年通った。
その間、月謝は、親たちが、毎年少しずつ増やしてくれた。
先生の方から、要求はなかったが、本当は調律代にも足りなかったかも知れない。
中学に入り、学校が変わり、友達関係に変化があり、1人1人減り始め、中学3年の時に、私もやめてしまった。
バイエル、ソナチネ、ソナタと進むうちに、先生のところに練習に通うだけでは、レッスンが捗らなくなってきたのである。
いつまでも、同じ曲の繰り返しで、詰まらなくなり、あれほど好きだったピアノを、続ける意欲がなくなったのである。
先生の方も、小学校から大学付属の学校に変わり、忙しくなっていた。
でも、自宅にピアノがあったら、やめずにいたかも知れない。
「高校に入って、また弾きたくなったらいらっしゃい」と言ってくれたが、そのままになってしまった。
自分で働くようになったら、いつかピアノを買おうと思った。
私がピアノを買った頃は、もう、個人で、ピアノを買うことが、それ程大変ではない時代になっていた。
子どもの時に、ピアノが持てなかった私の世代は、その仕返しのように、ピアノを買い始め、子供が生まれると、レッスンに通わせるようになった。
「本当は、私も習いたかったのよ」と、クラス会で昔の友達から言われたこともある。
私は、自分が弾きたかったから買ったのであるが、いざ、手に入れると、タイミングの悪さもあって、あれほど欲しかったピアノを、あまり使わずに過ぎてしまった。
今頃になって、急にまた弾く気になったのは、最近、指の力が衰えているような気がして、試しにピアノに触れてみたところ、音階を流すくらいのことも、うまく行かないことがわかったからである。
16分音符が、均一の長さで、流れない。
ピアノは、子どもの頃に覚えた曲は、いつまでも覚えているものだが、意識が先行して、指が、思うように動かないのである。
愕然とした。
パソコンのキイを叩く要領とは、まるで違う神経を使っているのだということが、良くわかった。
そこで、毎日、30分ほど、ピアノをいじることにしたのである。
子どもの頃に習ったピアノの楽譜は、ぼろぼろになりながら捨てずに、何度もの引っ越しに耐えて、手元にある。
先生が赤や青で書いた注意事項も、半世紀を経て、そのままである。
今日は、モーツァルトのソナタ、ポール.モーリアのピアノアレンジを弾いてみた。
いずれも、初歩的な曲。
流れは悪いが、何度か繰りかえすうちに、だんだん蘇るような気がする。
しばらく、この練習を続けるつもりである。
楽しみと、指の訓練のため。
当分、先生に付いたりしない。
ストレスになるからだ。
やさしく、楽しめる曲を選んで、気ままに弾く。
気が乗らないときは、無理に弾かない。
家事が終わり、ホッとしたお昼前の30分が、一番良いと言うことも、わかった。
ちょうど区切りがつく。
そして、テレビを見ながら、夫と昼食を食べるのである。


日記/手帳あれこれ
2005年12月07日(水)

逡巡を少し愉しみ日記買ふ

10月終わり頃になると、もう次の年の日記や手帳が出回りはじめる。
日記というと、1月からと言うのがふつうだったが、最近は、4月始まりの物もあるし、10月始まりというのも、出てきている。
そして、1月始まりであっても、前年11月ぐらいから書き込めるようになっているのも、嬉しい変化である。
日記帳は縦書きの分厚いもの、手帳は小型で薄いものという旧来のイメージも崩れ、日記帳とも、手帳とも、区別の付かない物が大半である。
そして、この業界の競争も激しいと見えて、年々、デザインが豊富になり、工夫を凝らして賑やかになっている。
日本人は、こんなに日記を書く人種なのかと、改めて思うが、旧来のイメージの日記でなく、記録、あるいは、日々の覚え書きと言った使い方のほうが多いのではないだろうか。
働く女性が多くなった今では、女性もビジネスに不可欠な小道具として、手帳を持つ。
主婦の私でも、毎日の生活に、手帳は必需品である。
IT化が進んでも、手書きの手帳は、バッグに入れておく物として残るであろう。
この数年、私は、月ごとの予定と、毎日の簡単なメモが書ける手帳の他に、日付以外は白紙の文庫版日記帳を買い、使い分けしていた。
バッグに持ち歩くのは手帳、予定や約束事、外出時の覚え書きはそれに書いておく。
文庫日記の方は、新聞で読んだ記事の感想や読書の記録、気に入った短歌や俳句などを記すことにした。
しかし、ネットでブログを書いたり、ホームページに掛ける時間が増えると、文庫日記のほうは、ほとんど白紙のままで置くことが多くなった。
そこで昨年は、文庫日記は買ったが、1000円もする手帳を買うのをやめ、スーパーに売っている400円くらいの安い手帳を買った。
予定を書く欄はあるが、あとは、横線が引いてあるだけのシンプルな物である。
その一冊で充分だと思ったのである。
ところが、どうも使い勝手が悪い。
日付で区切られていないので、必要なときだけ記入する点では便利なはずだが、逆に、必要なときに記録するのを忘れてしまう。
日付で区切られていれば、空白があるのが気になるのだが、その気持ちを持たずに済むのである。
やはり、記録のためには、毎日の日付が、最初から入っていた方がいい。
そこで今年は、まず、以前使っていた手帳と同じ仕様で、余分なページのない記録専用の手帳を買った。
文庫日記帳も買った。
今年も白紙ページが多いのだが、これがないと落ち着かない。

昨日、両親を訪ねた帰り、ロフトに寄った。
先日、たまたま知った糸井重里のサイトで、「ほぼ日手帳」のことが書いてあり、爆発的に売れているという。
売り出してすぐに完売、次の予定は12月はじめ、場所はどこそこで・・・などと書いてある。
そんなに人気の日記とはどんな物なのか。
売り出しの場所の一つが、帰りの駅の近くなので、見たくなったのである。
どうせ売り切れだろうと思っていくと、売り場に積んである。
小型システム手帳のような作り。
表紙が5色ほど。
手に取ってみたが、ページのデザインなどは、確かに、他にないような作りである。
使いこなせば、良いかも知れない。
気持ちが動いたが、3500円は、いかにも高い。
私の生活に必需品とも思えない。
それは止め、ついでに、ロフトで扱っている手帳、日記のたぐいを、隈無く見て歩いた。
あることあること。
本屋や文房具店にはないような、さまざまな種類がある。
若い女性が飛びつくようなキャラクター商品のマーク入りや、手帳とも日記とも判別しがたい物が多い。
これなら、持っているだけで愉しいだろうなと思う。
見ていると買いたくなり、2つばかりお目当ての物をマークして、今度は、日めくりのところに行った。
こちらは卓上に置いたり、壁に掛けて、毎日めくっていくもの。
以前は、教訓カレンダー的な物しかなかったが、昨日見た中には、「声に出して読む文学作品日めくり」とか、「豆知識日めくり」とか、凝ったものがある。
そのうち、折り紙の折り方が、365日入っている物があり、手帳日記を止めて、それを買った。
何とドイツ製である。
毎日、カレンダーをめくるたびに、新しい折り紙を一つずつ折っていったら、愉しいし、指の訓練になるではないか。
1470円。収穫だった。


ケアハウスで
2005年12月06日(火)

このところ寒さが厳しい。
しばらく父母の顔を見ていないので、午後から行く。
都内のケアハウスにいる両親は、共に90歳を超えて、健在である。
父の方は先月、時々熱を出したりしていたので、心配したが、今日は、元気な顔を見せてくれた。
95歳、いつ何があっても、おかしくない年である。
まだ車椅子は使っていないが、かなり足は衰えていて、ハウスのヘルパーさんの手を借りないと、歩けない。
しかし、なるべく車椅子を使わない努力をしている。
私の顔を見ても、もう、名前を呼んではくれない。
会話の力は、とんと衰えてしまった。
ただ、こちらから言うことには、反応するので、少しはわかるのであろう。
好奇心が旺盛で、外に出るのが好きだった父。
いつも、本を読み、短歌をたしなみ、人と話をするのが好きだった父。
いろいろなことが、だんだんわからなくなっても、穏やかで、人に気を使い、礼儀正しい性格は、少しも変わらなかった。
父の姿を見ていると、人間の、子どもの頃から培われた人格は、一生を通じて、変わらないものだと言うことが、良くわかる。
沢山のきょうだいも、ほとんど亡くなり、親しくしていた友人、知人、同世代のほとんどは、この世にいない。
そうした寂しさを感じる力がなくなったことは、父にとって、神様の思し召しかも知れない。

一緒にいる母は92歳、耳が遠く、補聴器を付けていても、相当大きな声でないと届かない。
それでも、ハウスのスタッフや医者の言うことは、大体わかっているらしい。
会話は、母の一方的な話に、こちらが相づちを打ったりすることが多く、あまり細かなニュアンスは伝わらない。
頭はしっかりしていて、まだお金は自分で管理している。
週に二回、スーパーなどの買い物をスタッフに頼み、日用品や食料品などを買ってきてもらうらしい。
自室の電子調理器で、食堂では出ないような、好みのおかずなどを作っている。
私が行くことが、前もってわかっているときは、煮物などを作って、持たせてくれたりする。
今日は突然行ったので、「何も作ってなくて悪いわね」と、取り置きのカステラを切ってくれた。
60代半ばになっても、私は母にとって、いつまでも、娘なのである。
父のことも、最近まで、母があれこれ世話を焼いていたが、もう手に負えなくなって、今は、ほとんどハウスの介護に任せている。
「無理しないで、やって貰いなさい」と私も言う。
その為に入っているのだから。
きょう、ハウス内の喫茶室にコーヒーを飲みに行った父が、ヘルパーさんに連れられて、戻ってきたので、私が、椅子に座らせようとした。
ところが、なかなか巧くいかず、一苦労した。
後ろから父の脇の下に、私の腕を差し込み、両手で、持ち上げようとしても、思うように行かない。
何とか、椅子に座らせたが、若いスタッフでも、こういう世話はさぞ大変だろうと、良くわかった。
専門的知識がないと、骨折や打撲に繋がってしまう。
改めて、ハウスの介護に感謝する気になった。

夕方帰るとき、「お父さん、また来るからね」と言って、父の手を握ると、ビックリするほどの強さで、握り返した。
ハウスの中は、ほどよい気温が保たれている。
外に出ると、寒い風が吹いていた。
両親を見送るまでは、私も元気でいなくては・・。


冬の林檎
2005年12月04日(日)

真夜中の林檎は紅く凛としてそのけなげさに涙こぼるる(茉莉花)

秋から冬の間は、野菜も果物も、おいしい。
葉物の緑は濃く、蜜柑や林檎の色は、赤みを増し、甘く、良い味になっている。
私の家の居間の、キッチンとの境にあるカウンターには、ガラスの果物鉢が置いてあり、店から買ってくると、そこに盛り上げておく。
寒い夜にあっても、鉢の果物は美しい色で、居間の隅を飾ってくれる。
花もいいが、果物を飾っておくのも良い。
勿論、そのうちに、食べて無くなってしまうのだが、いっとき、赤やオレンジの色があるのが、気分を和らげてくれる。
いつも気にしているわけではないのだが、鉢が空になっていることに気が付くと、とりあえず、家にある果物を入れておく。

昨日は、朝から出かけてしまい、果物を盛っておくことをすっかり忘れてしまった。
夕べ遅く、明かりを消す前に、気が付くと、真っ赤な林檎が、たった一つ鉢にある。
寒さがしんしんと迫る真夜中。
誰も居ない、真っ暗になった部屋に、この林檎は、ひとり紅い色を放って鉢の中に坐っているのか。
そう思ったら、不意に涙が溢れた。
けなげな紅い林檎よ。
その揺るぎのない形。
私の祖先のイブは、お前からどんな知恵を授けられたのだろうね。



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