沢の螢

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観梅
2004年02月29日(日)

夫婦五組で、梅見に行く。
夫の高校時代の友人とその連れあい達で10人、この10年以上の遊び仲間である。
年に1度か2度、全員で、日帰りのウオーキングや、一泊程度の小旅行を愉しんでいる。
昨年は、私が足を骨折したり、メンバーのひとりが胃の手術をしたりで、集まれなかった。
それで、だんだん暖かくなってきたこの機会に、快気祝いなどを兼ねて、梅見をすることになったのである。
みんなの住まいが、東京と神奈川に跨っているので、今回は、間を取って、世田谷の羽根木公園に行くことになった。
ここで梅祭りをやっていて、今日が最後の日だという。
いつも、グループの中心になって、計画したり、スケジュールを練ったりするのは、小田急線沿線に住むNである。
夫婦共々、面倒見が良いので、皆、頼っている。
全部の会計を受け持つのは、横浜地区に住むA。
しっかりした奥さんと一緒に、最初に概算でみんなからお金を集め、終わるまでのお金の出し入れをする。
都心で老舗の商店を営むKは、車の運転が得意なので、長距離の移動は、運転手を務める。
腕力のあるWは、重い荷物を持ったり、ウオーキングの先導役に良い。
最後に私の連れ合いは、あまり働きがないので、パソコンでの連絡や、リーダーのNの相談相手である。
男性群は、当然ながら同学年だが、女性は、5年ほどの年の開きがある。
しかし、もう中高年と言われる年齢になり、子どもがほぼ独立した今は、あまり年の差は感じない。
これからは、夫婦で、老後を愉しく元気で暮らそうという気分になって、付き合いが、盛んになってきているのである。

午前11時に、小田急線梅ヶ丘に集合した。
インターネットで、電車の時間を調べ、5分前に着いたが、すでに他の人たちは来ていた。
駅前は、観梅の人たちで、込んでいた。
歩いて5分くらいのところに、公園がある。
いろいろな種類の梅の木があり、赤、白、ピンク、それに、行事に合わせて盆栽や、煎茶の野点もあったりで、にぎわっていた。
梅見をしながら、お茶を飲み、甘いものなど食べ、昼を少し過ぎてから、近くのイタリア料理店に行った。
予約してあったのである。
家庭的雰囲気の小さな店は、私たちの他には、5,6人で満員になるくらい。
カルパッチョやスパゲティを食べ、歓談してから店を出た。
Nが示した案のうち、そこから移動が近そうなところに決め、電車に乗って、狛江に行った。
そこに、古民家があり、周辺にも、良い散歩道があるという。
昔は農道だと思われるような、曲がり道を歩き、目的の民家に行った。
わらぶき屋根の民家を、市が保存して、解放している。
お手玉や、けん玉、独楽なども置いてある。
童心に帰って、ひとしきり遊び、また歩いて、梅が沢山植えられてあるお寺に寄った。
鯉の泳ぐ小さな池や、流れも見た。
また歩いて、駅に戻り、そこでコーヒーを飲んだ。
午後4時。
暖かいうちに帰りましょうと言うことになり、駅のホームで、別れた。
若いころは、日のあるうちに帰るのはもったいないような気がして、夜の部も加わったが、やはり、年だなあと思った。
次回は、都内の温泉に行ってみようと言う相談がまとまった。
途中でお弁当を買って帰った。
まだ明るかった。
明日はぐっと寒くなるそうだ。


「涅槃」
2004年02月20日(金)

香月泰男展に行く。
東京駅ステーションギャラリー。
この人の名は聞いたことがあった。
第二次世界大戦で招集され、終戦後はシベリアに抑留され、帰国後は、シベリア体験と故郷の山口県の風景を描いて、1974年、62歳で没した。
3年前の夏、私はシベリア横断鉄道に乗り、始点のウラジオストックから終点のモスクワ、更に列車を乗り継いでサンクト・ペテルブルグまでの、約一万キロに及ぶ旅をした。
しっかりした旅行社のツァーで、ロシアならこの人という、ベテランガイドが付いて、参加者15人、15日間の旅程であった。
シベリアに行くについては、ロシアに対する関心以外に、きわめて個人的な動機があったのだが、それは、この際置く。
ともかく、はじめて行ったシベリア横断の旅は、予想以上に感慨深いものがあった。
シベリアに行く前に、私はデカブリストの乱と、シベリアに抑留された日本人達のことを、少し調べたが、その中に香月泰男の名もあった。
2月から、香月の作品が、東京で展示されると知って、見に行ったのである。
没後30年という意味での企画らしいが、生きていれば私の父とほぼ同じ年である。
作品は、4つの部屋に分けて、テーマ別に並べてあった。
心を奪われたのは「涅槃」と題する黒い絵の具で描かれた絵。
シベリアで過酷な重労働と栄養失調に耐えきれず、命を落とした戦友達を、独特の墨のような黒で描いている。
骨だけになった死者の顔がならぶ。
しかし死者達は皆違う表情をして、まるで生きているかのようである。
その目は、明らかに何かを伝えようとしている。
香月自身は、抑留されて2年後に帰国しているが、おそらく、残りの人生は、彼の地で生きて帰ることの出来ないまま、土となった戦友達から、一瞬たりとも心の離れない日々だったことだろう。
「涅槃」を見ると、彼の心の中にあったものが読みとれるようである。
彼は、シベリアシリーズとして多くの作品を発表し、また、故郷の山口県三隅町の穏やかな風景も、残している。
若い母と子どもの、愛情溢れる絵を見て、少しホッとするが、それも、黒い色で描かれている。
シベリア鉄道の車窓から見た残照の美しさ。
イルクーツクで、私は、名も無き日本人抑留者達の墓を訪れ、みんなで「ふるさと」を歌ったが、あの墓の中に香月の戦友に繋がる人たちも居たのかと、改めて思い出し、胸が熱くなった。


春の夜の宴
2004年02月17日(火)

昔ヨーロッパのある国に、仕事で駐在していた人たちで、年一回、夫婦単位で集まって交流を持っている。
今夜は、都心で、四〇人程集まった。
夫婦で来た人、片方だけの人、それぞれ。
こんな寒い時期に集まるのは、男性達が現役のころ、二月が一番暇で、集まりやすく、また、会場探しが、し易かったことによる。
三月、四月となると、時期がいいので、どこも込んでいて、幹事が苦労した。
バブルがはじけて、あまり高そうなところは、借り手が少ないと見えて、昔程の苦労はないようだが、習慣なので、ずっとこの時期である。
風邪を引いたり、悪天候に見舞われたりで、その日になって急に来られない人がいる。
会費も決して安くないので、幹事は苦労する。
幹事は持ち回りで、企業の暗黙の序列の順に廻って来る。
今は、大部分が一線を退いたので、そんなことは関係ない筈だが、やはり男社会を引きずっているので、自然そうなるのである。
外国にいたころ、奥さん達まで、そんな男社会を反映している面があり、正直言って、私はあまり好きではなかった。
しかし、夫がすすめるので、付いていくのである。
行けば、多少親しくしていた人にも会えるので、雰囲気には溶け込める。
大体立食パーティーなので、皿に盛った料理を食べながら、懐かしい顔を見て、互いの近況を語り合う。
その頃から14,5年経っているので、今さら偉そうな顔をする人もなく、ほどほどに人間も練れて、互いを気遣いながら、和やかに話が出来るのがいい。
次々と、スピーチのマイクが廻り、宴果てて、来年の再会を言い合いながら散会する。
リタイアして趣味に生きる人、ボランティアをしている人、第二の仕事に情熱をかたむけている人・・さまざま。
出て来られる人は、まあ、いろいろな意味で安定しているのだろう。
親の介護、自分の病気、子どもや孫の都合で、いつもの顔が見られない人もいたが、一方で、何年ぶりかで来た人もいて、愉しく歓談した。
暖かい日で良かった。


鋭角
2004年02月15日(日)

あるところで、「この頃は、人付き合いが鋭角になっている」と言った人がいた。
許し、許されることがしにくいとも。
私自身についても、同じことを思う。
人には、寛容になりたいと思いつつ、尖っている自分を発見することがある。
「人を赦さなくちゃあ・・」と言われて、「殴られた相手に向かって、もう一度頬を差し出せと言うの?」と言い返した。
相手は黙ってしまった。
「そんな抽象的な言い方しないで。私が誰に対して、何を赦せと言うの」とたたみかけると、その人は、もうそれ以上何も言わなかった。
私には、彼の言いたかったことが、わかっていた。
私に対して、大変理不尽な仕打ちをした人たちを、私はいつまでも赦せずにいるのだが、そのことだろうと思った。
当事者でない人たちから、そんなことを言われる理由はないのだが、敢えて私にそれを言ったのは、決して悪意でないことはわかる。
相手方に立っての発言だとしても、誰が、人から恨まれかねないことを、わざわざ言うだろう。
いつも一緒に喋ったり、呑んだりしている仲間だからこそ、言ってくれたのだと考えることは出来る。
しかし、一方で、私がそれについて何も言っていないのに、どうして、そんな一方的な聞きかじりで、判断するのだろうと、疑問もわく。
私に意見したいのなら、少なくとも、両方の言うことを訊いてからいうべきではないか。
私が水に流して、相手を赦せば済むと言うことではない。
それで、向こうは心が平安になると言うのだろうか。
人に傷を負わせておいて、赦せもないものだと、思い返すと腹が立つ。
問題の人たちとは、なるべく顔を合わせないようにしているが、同じ集団に属していれば、ニアミスというのは、ちょくちょくある。
私のほうは、ことが起こった時点で、きちんと解決したかったのに、向こうはそれに答えなかった。
問題から逃げることを優先し、老獪に処理しようとしたために、いつまでも尾を引くのである。
私のほうが遠慮する理由はないからと、どこにでも出かけていくので、向こうにとっては、疫病神のような存在かも知れない。
そのことがあってから半年ほど、私は時に悔し涙に暮れ、ホームページも一度は閉じてしまうほど、傷ついていた。
1年経つころには、自分で別の世界を切り開き、少し立ち直った。
しかし、そうした気持ちに、追い打ちを掛けるような相手方の仕打ちがあって、また、私は、不快な気持ちとたたかわねばならなかった。
残り火を掻き立てるようなことを、何故するのかと、理解に苦しんだ。
それから更に半年が経つ。
いまは、忘れることまでは出来ないにしても、無関心でいることは出来る。
少数ではあるが、私を理解して、それとなく思いやりを示してくれる人たちが居る。
ひとりではないと言うことで、何とか切り抜けてきたのである。

昨日の句会は、愉しかった。
「あたたか」「茶碗」「追う、逃げる」という季題とキイワードで、ひとり3句ずつ投句、選句発表では、ユーモアを交えたバトルもあって、なかなか弾んだ。
終わって、また飲み屋に11人が繰り出し、2時間程ダベって散会。
数日間のもやもやした気分も晴れた。

きょうも1日暖かい日。
平穏に過ぎた。
夜になり、風が強くなった。


ボヘミアン
2004年02月08日(日)

私の先祖は彷徨える民だったのではあるまいか。
ボヘミアンと言ってもいい。
なかなか実行しにくいが、目的もなく、知らないところを歩き回るのが好きである。
そして迷子になる。
イヤ、迷子というのは適切ではない。
行くべき場所を決めているわけでないと思えば、迷うという概念は、そもそも無いのである。
気の向くまま、足の向くまま歩いていき、決して後戻りはしない。
力尽きて立ち止まったところが、目的の場所である。
そんな気持ちに、襲われるときがある。
ただ、私は、日本のあるところに暮らしていて、大勢ではないが、家族がある。
決まったねぐらがあり、贅沢はしなくても、なにがしかのお金で、日々生活している。
文明の毒にも、充分浸っている。
訪問者は滅多になくても、ホームページなど持って、パソコンの前に座っている。
そんな私が、ボヘミアンなどと言ったら、本来のボヘミアンから笑われるだろうし、仲間に入れてもらえないだろう。
今の東京で、それに近い暮らしをしているのは、いわゆるホームレスと言われる人たち。
外眼にはどう見えても、また、オカミやボランティアの人たちが、「支援」の手をさしのべても、彼らの本質は、自由を大事にしていると言うことであろう。
はじめは、自分の意志ではなかったかも知れない。
生活苦のため、社会的に身を隠す必要があったため、それに伴う家庭からの疎外、さまざまなきっかけがあって、そういう生活に入ったのかも知れない。
それは、直接聞いてみないとわからない。
いまの私には、彼らと同じことは出来ないが、一方で、羨ましいと思う気持ちがある。
私は、ささやかながら文芸という物に関心があって、それと一生付き合いたいと思っているが、文芸というのは、本来、そう言うところから生まれるのである。
私が男だったら、一度彼らと寝食を共にして、じっくり語り合ってみたいと思う。

今日、府中の森芸術劇場で、オーケストラを聴きにいった。
バスと京王線で、家からは行きやすい処である。
井上道義の指揮で、レスピーギの「ローマの松」。
そのほか若手のオペラ歌手を起用しての、「椿姫」と「ルチア」の中のアリア。
久しぶりのクラシックは、なかなか心地よかった。
終わるとまだ四時。
帰り掛けて、市内のコミュニティバスがあるのを知り、乗ってみる気になった。
路線図を見ると、私の家の近くを通るバスに、繋がりそうである。
10分ほど待つとバスが来そうなので、バス停に立った。
そこに、年かさの女性達がグループで来たので、そのうちのひとりに訊いてみた。
すると、どこそこで降りて、少し歩くと駅があるから、そこの反対側に、そのバスがあるはずと、教えてくれた。
「でも、繋がりがいいかどうかわかりませんよ。案外時間が掛かるかも知れませんよ」という。
「いいんです。また来たときのために、試してみたいので・・」と答えた。
やがてバスが来て乗った。
マイクロバスである。
私の地区にもあるが、大型バスが通らない道を走る。
だんだん進むうち、さっき教えてくれた人が、「次で降りるんですよ」と、わざわざ席を立って教えに来た。
礼を言って、そこで降りた。
歩き出したとき、バスの中から大きな声。
「奥さん、反対ですよ。戻って歩くのよ」と、窓の中から叫んでいる。
心配しながら見守っていたらしい。
会釈して、言われる通り戻ると、同じところで降りた人がいた。
さっきの人と仲間らしい。
駅の方に行くというので、付いていく。
「こちらの方、はじめてなんですか」訊くので「もと来たように帰ればいいんですけど、まだ明るいし、たまには知らないバスに乗ってみたかったものですから・・」と答えた。
10分ほど歩くと、その駅に来た。
「あそこから、向こう側に抜けるトンネルがあるから、そこを行くと、ロータリーに出ますよ」と教えてくれた。
「ご親切に有り難うございます。先程の方にも、どうぞよろしくお伝え下さい」と言って、その人と別れた。
トンネルにはいるところで、振り返ると、その人が見ている。
お辞儀をすると、笑顔になって、安心したように、駅に入っていった。
駅の反対側に出ると、バスの停留所がある。
急行の止まらないローカル駅。
誰も待っていないところに、ぽつんと一台バスが止まっている。
しかし、私の乗るバスではない。
停留所が違うのかなと思い、少し歩いて広い通りに出ると、バス停がある。
私の乗るべきバスの名前が書いてある。
ホッとして時間を見ると、5,6分経てば来るとわかった。
待っていると、バスが来て乗った。
最初の客である。
そのまま、路線を走り、やがて私の降りるところに止まった。
いつものルートで帰るより、30分余計に掛かってしまったが、人の親切に巡り逢い、良い経験をした。


風邪の愁い
2004年02月03日(火)

インフルエンザには、予防注射とか、罹患して48時間以内に治療を受ければよく効く特効薬とか、出来たようだが、むしろ普通の風邪が、治りにくくなっている。
家のあるじも、もう10日経つのに、なかなか咳が取れず、イライラしている。
「インフルエンザになった方が良かったよ」と言うが、特効薬が出来たと言っても、高熱を出して、肺炎などになるのは、インフルエンザのほうが多いだろうと思う。
知っている人が、66歳で、肺炎で亡くなった。
長い患いではない。
その話しを聞いて、夫は、ショックを受けている。
「もう無理は出来ないなあ」と言った。
でも、夕方から会合があるからと、風邪以来はじめての外出をした。
夜遅く帰ってきたので、心配していたが、「酒がまずくてねえ」と、あまり飲まなかったようだ。
いろいろな予定を、風邪のために全部取りやめたが、今日は、主催者側だからと、出かけたのである。
昨日まで薬を飲んでいたので、その影響か、味覚がおかしくなっていたらしい。
夫は気管支が弱いので、風邪を引くと、長引くのである。
「暖かくなれば、治るわよ」というと、「今度は花粉の季節だよ」と浮かない顔をした。
例年2月の半ばから4月半ばくらいまで、夫は、花粉症に悩まされている。
「花粉症のないところに行きたいよ」といつも言っている。
3年前はその時期にインドに半月ほど旅行し、快適だったらしい。
次の年は、二人で、中国に行った。
昨年は、どこにも行かなかったので、3月終わり頃にどこかに行こうかと話している。

今日は「語り」の教室。
与謝野晶子の詩と短文を読む。
大阪弁の会話はそれらしくと言うので、東京弁しか知らない私には、ちょっとそぐわない。
先生は、京都の生まれだとか。
「方言の苦手な人は、そのままでいいんですよ」と言われ、ヘンに真似するのは、やめた。


春隣
2004年02月02日(月)

けふ一日捜し物して春隣

久々の雨である。
一雨ごとに暖かくなると言うが、今日は氷雨といった感じだった。
しかし、乾ききった庭の土が水を吸い、芽吹きの助けになるだろうし、何となくほこりっぽい周辺の景色が雨に洗われて、いくらか澄んで見える。

昨日は深川の連句会に行き、夕方まで歌仙を愉しみ、少し酒席にも付き合って帰ってきた。
それから私の新しいネット連句の書込と、よそのサイトの俳句に投句したりで、寝るのが遅くなってしまった。
常連のメンバーに加え、今度、新しい人を誘ったので、4人で半歌仙を巻くことになった。

今朝、つい寝坊する。
夫はまだ咳が取れないが、もう熱もなく、昨日からは通常の生活に戻った。
さすがに外出は控えているが、そろそろ髪が伸びてきたので、カットに行かねばと、気にしている。
床屋さんでなく、美容院に行く。
気に入った美容師を見つけ、バスで行くのである。
最近は、中高年の男性も、美容院に行く人が増えたらしい。
馴れると、こちらの方がいいらしい。
気に入りの美容師は、若い女性だそうだ。



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