先日新宿での連句会で、私は次のような句を出した。 月浴びて鼬の道を分け入らん これは前句に恋の句があり、もとの恋人がオーソレミオを唱っているという内容だった。 次の句は恋離れをと言うので、鼬の道を出した。 ちょうど月の句を出す場所でもあったので、うまく冬の月になり、治定された。 鼬は同じ道を二度通らないと言うところから、人との往来、交際が途絶えることを「鼬の道」というのである。 この言葉を教えてもらったのは、二年前、ちょうど今頃だったが、ある人とメールで連句の付け合いをしていたときだった。 その人の句に、この言葉を詠み込んだものがあり、辞書を引いて、意味がわかった。 百科事典のように、何でも知っているその人は、私にとって、得難い存在だったが、その付け合いを最後として、だんだん疎遠になり、昨年夏、些細なことから、決定的な亀裂が入って、文字通り、今は「鼬の道」の間柄である。 もう振り返るつもりはないし、元に戻ることもないだろうが、ひとつ残念なのは、その過程で第三者が入ったことである。 そのことが、わたしのこころに拭いがたい傷を遺した。 どんなひどい争いも、一対一で為されたことなら、まだ救いがあったろうに、そこに不純なものが入ったことで、修復も、転換も出来ない結果となってしまった。 しかし、これは私の側からの見方である。 信頼を寄せ、それを理解してくれていると思ったのは、私のほうの思いこみで、実は、向こう側の人たちにしてみると、私のほうこそ、邪魔な第三者であった。 その後の経過を、間接的かつ人の口を通して窺い知ると、それがよくわかる。 邪魔な存在がなくなって、平和で愉しく行き来している様子が伝わってくるからである。 「人間物事を決めるときに、最終的に働くのは、好き嫌いの感情ですよ」と言った人がいた。 理屈も、正当性も、好き嫌いの感情にはかなわないということであろうか。 それを言った人は、「あなたが悪いんじゃない。だからもうそんなことをいつまでも引きずるのはやめなさい」と、私を元気づけようとしたのだった。 それから更に時が経つ。 物事の記憶というのは、時間経過と共に薄れる。 しかし、感情の記憶というのは、なかなか消えない。 子どものイジメで、いじめた側がすぐ忘れても、虐められた方の子どもが、その記憶を長く引きずっているのは、当然のことだ。 その記憶は、時として深く沈潜し、人格に影響することもある。 子どものイジメを、軽く考えてはいけないのである。 大人の間でも、イジメはある。 私は、子どもの頃いじめられることが多かったせいか、イジメに対しては敏感で、ひとのことでも、捨てておけない。 代理戦争してしまって、当の本人がケロッとしているのに、いつの間にか私に矛先が来てしまうと言うことがよくある。 「バカだなあ」と、言われる。 「ソンな人ですね」と、同情されたこともあった。 「鼬の道」に入り込んだのも、多分、そんなところに原因があるのだろう。 十月尽。日が短くなった。 一年の終わりを、そろそろ意識する頃となった。
家の中でも、一階と二階では、温度差があるようだ。 朝、日が昇り、少し暑さを感じて起きあがり、下に降りていくと、まだ、ひんやりと寒いくらいである。 2,3度の違いがあるのではないかと思う。 今日は、日中は、ほどよい陽気だった。 振り込みなどがあって、郵便局に行き、図書館で借りた本を返し、ついでに、3冊ほどの、連歌関係の本を借りると、本が重いので、一旦帰宅した。 玄関先に、宅配便が届いている。 段ボールに入ったジャガイモだった。 夫が公開しているホームページには、写真のコーナーがあり、デジカメで撮った四季折々の写真を載せている。 ひと月ほど前、北海道の人から、夫宛にメールが来た。 ホームページに載ったジャガイモの花の写真を、使わせて欲しいという趣旨だった。 面識はなく、ホームページを見て、言ってきたのである。 農家の人で、ジャガイモを出荷している先のホテルのロビーに、宣伝用のジャガイモの花の写真を飾りたいと思い、いろいろ探して、夫の写真が目についたのだという。 ちゃんと礼を尽くして言ってきたので、承諾し、あらためて写真を送ってあげたら、その御礼にと、収穫したジャガイモを一箱、送ってきたのだった。 夫は、ホームページを、普通に公開している。 地味で、どちらかというと固い内容なので、掲示板に訪れる人も、少ないようだが、たまにはこんなことがある。 私のホームページは、もっと地味で、しかも、自分から全くと言っていいほど宣伝もしないので、公開とは名ばかりである。 友人達は、私がホームページを作っていることは知ってはいるようだが、URLも教えていない。 ただ、連句という共同作品の場に参加してもらっているので、その人達には、別サイトを作って、そちらを見てもらっている。 ほかに、URLを教えていなくても、何か目的があって、検索で探し当てて、こっそり覗いていた人もいたらしい。 友好的態度で見ているのではないから、「見ています」なんて挨拶もない。 別に挨拶などしなくても、ネット上のルールを守って、見る分には、仕方がない。 「誰それさんが、こんな名前で、このタイトルでホームページを公開しています」なんてことを、やたらに触れ回ったりしたら、それは匿名性を守るべきネットの法則を侵したことになるので、プライバシー侵害にあたる。 こちらも、防御策をこうじなくてはならない。 現在は、そのたぐいの人たちは、いなくなったようだ。 夫婦であっても別人格なので、夫と私は、お互いのページをリンクしていない。 夫は、自分のページを、友人知人に公開しているので、時々「奥さんのホームページも、見せてくださいよ」と言われることがあるらしい。 「ダメなんです。私にも、教えてくれないくらいですから」と断ると、「どうしてですか」と訊かれる。 「何だか亭主のワル口とやらを書いているらしいので、具合が悪いんでしょうよ」と答えたそうだ。 その通りである。 公開するが、公開しないと言うのが、私の行き方である。 天敵はもちろん困るが、友人知人、亭主の関係者でも、私のホームページを見るなんて考えただけで、ぞっとする。 そんなことになるくらいなら、潔く、閉じるつもりだ。
今朝私のところに、某新聞社から取材があった。 夫は、私より3年早くパソコンをはじめ、1年後には、ホームページも公開した。 2000年暮れのことである。 その頃、私はやっと、市のIT講座で、メールの操作を覚えたばかりであった。 その少し前に、ささやかな専用の書斎を、居間の続きに作った。 台所にも繋がり、ベランダにも行ける。 勝手口からゴミを出すときも、書斎から出られる。 つまり、主婦としての仕事をしながら、いつでも書斎に移動できるようにしたのである。 2階の端に、小さな和室を作ってあり、はじめはそこを私の部屋とするつもりだった。 また、息子が結婚して別に住むようになってからは、息子の部屋を、私の書斎にしてもよかったのである。 ところが、すぐに、2階の部屋というのは、主婦の書斎には向かないことに気づいた。 宅配便が来れば、玄関に行き、洗濯が済めば、干さねばならない。 台所には、始終用があるので、その度に、下に降りなければならない。 結局、私の生活現場は大半一階の台所と居間のあたりであり、すぐに外に出られる場所でないと、ダメなことがわかった。 結婚以来、私は自分の書斎というものを、持ったことがなかった。 逆に言うと、家全体が、私の場所と言えなくもなかったのである。 掃除をしたり、衣類を整理したり、私は家のどこにでも出没するので、食卓の隅で手紙を書き、煮物をしながら本を読み、テレビを見ながら、子どもの布団を掛けに行き、どこか一カ所で、長い間落ち着いていると言うことは、なかった。 だから、書斎などというものの必要性も、あまり感じなかったのかも知れない。 しかし、私の両親が同居したとき、私は自分の部屋が欲しいと思うようになった。 たとえば、きょうだいたちや、親の知人、友人が訪ねてくる。 居間や食堂で、親たちと歓談する。 その時、私は、茶菓の接待をするが、客が帰るまで、いるところがないのである。 親しい人なら、自分も一緒に加わる。 しかし、お茶を出して、すぐ引っ込んだ方がいい場合もある。 その時は、私は2階の寝室に行くか、息子の部屋に行くが、いずれにしても落ち着かない。 私の生活圏は、一階にあるからである。 台所に行くと、親の客達と顔を合わせるので、向こうが気を使う。 客人と距離を置き、しかも、気配のわかるところで、お茶などに気を配るためには、私は、2階に籠もるわけに行かないのである。 そこで、扉を閉めれば独立した部屋になり、開ければ居間と続いたワンルームにもなり、しかも、台所やユーティリティの動線の延長範囲に、私の書斎兼家事室を作ったのであった。 ちょうど夫がリタイアし、家にいるようになって、私の部屋の必要性を理解してくれたからでもある。 すでに、親たちが、別のところに引っ越してしまったのは、何とも皮肉なことであった。 それから私は、机を買い、専用のパソコンもセットして、IT生活に参入した。 自分のホームページを立ち上げたのが、それから1年後、夫より1年あとの2002年早々であった。 そんなことを「妻の書斎」というテーマで、夫が自分のホームページに書いた。 それを、その新聞の記者が見て、取材を申し込んできた。 妻の書斎について、取り上げるのだという。 私のホームページは、あまり広く公開していないし、実名との関係は伏せておきたいので、それを見せなくていいならという条件で、私も協力することになった。 電話をしてきたのは、その新聞の特集記事を担当している女性記者、予め夫のほうに取材はしてあった。 今朝の電話は、その確認と、私からも、いくつか訊きたいことがあったからである。 書斎を作った目的、そこで主に何をしているか、読み書きについてのことなど、特別難しい質問ではなかった。 訊かれたことには、12分に応えたが、その中のどこを切り取って、載せるのか、いささか心配でもある。 友人、知人には、言わないことにした。
誰の言だったか、人間には、若さと時間とお金が、三拍子揃っているときと言うのは、あまりないそうである。 若くて元気で、時間はあるのに、お金がないのは、私の学生時代はそうだった。 中年になり、生活は少し豊かになったのに、仕事や、家庭の変化への対応が忙しく、時間がない。 それらを卒業し、お金も時間もあるのに、もはや、体力がない。 三つを比較的、備えているいい時代が、60代ということになるだろうか。 リタイヤし、子どもも独立し、お金も、そこそこあり、まだ海外旅行に行ける元気もある。 ところが、長寿の時代となって、親の介護の問題が、60代の人たちのところに、大きな問題として、のしかかってきた。 昔なら、自分自身が高齢者と扱われる年になって、長生きしている親が、80代後半から90前後になり、要介護状態になっているのである。 私にも、90前後の親がいるが、私の友人達も、二親揃ってとまで言わずとも、まだ親が存命中である場合が案外とあり、皆、それなりに苦労している。 昨日、しばらく会わずにいる友人から、母親が、要介護状態になり、外出もままならなくなり、忙しい思いをしているとの、メールが入った。 介護保険を申請したが、何事もはじめての経験で、わからないことばかりで、大変らしい。 この夏、夫婦で、ドイツ旅行してからあとに起こったことで、もう旅行にもしばらく行けそうにないと言っている。 もうひとりの友人は、自分の母親、連れあいの母親が共に90前後、その介護を巡って、兄弟の間の軋轢やら、交代で泊まりがけの介護をするなど、心労が絶えないと言う。 「私のほうが先に逝きそうだわ」と嘆いている。 私の世代というのは、まだまだ古いモラルが生きている世代、親子の関係も、ウエットなところが残っている。 年を取ったら、子どもの世話になるのが当たり前として育ってきた親の世代と、親子関係を行政や第三者に委ねることを、自然に受け入れられる子ども世代とのはざまにあって、皆、つらい思いをしている。 親の面倒は見るが、自分たちは、子どもの世話になりたくないし、なれないだろうと思っているのが、私の世代の共通する感覚である。 今日、学生時代の合唱団の集まりがあり、半日愉しく過ごしたが、病気でもないのに、来られない人たちがいた。 親の介護で出られない人、子どもから孫の世話を頼まれて、足止めを喰った人、その二つの理由であった。 やっと、子どもから解放されると、今度は孫の世話かと、孫のいない私は、同情するが、孫はいずれ成長するからまだいい。 親の介護は、いつまでと、期間が決められない点、深刻である。 その上、状況が今よりよくなることは、ないのだから。 「60になって、まだご両親がいるなんて、いいですね」と、人からは言われる。 私もそう思う。 でも、顔を見に行くたびに、どんどん弱っていく親を見るのも、つらいものである。 昨日、私の留守中に、母から電話があったらしい。 「君の足のことを心配していたよ。でも、本当は、自分のことを気に掛けて欲しくて、電話してきたんだろうね」と夫が言った。 明日から2,3日、庭師が来る。それが終わったら、親の様子を見に行かねば・・・。
J大学の「俳句研究」に出席、帰る頃は少し寒かった。 5時過ぎに家をでたが、その少し前に雷雨があって、気温が下がったようである。 家にいると、その変化がよくわからず、暑からず寒からずの格好で出た。 この季節、夜に掛かっての外出は、温度差があるので、気を使う。 教室にはいると、まだ暖房はしてないものの、前のクラスの学生達の人いきれが残っていて、少し暑い。 今日から句会である。 5句を原稿用紙に書いて提出。 そのうちの3句を短冊に書き、別に出す。 句会に馴れた人たちが、短冊を配ったり集めたりを手伝う。 私と友人は、俳句初心者のうちの3人に入っている。 連句はやっているし、発句を作ることはあるので、純然たる初心者とは言えないのかも知れないが、俳句では、そのようにしておく。 選句、披講とあって、二人とも、お互いの句を知らずに選んでいたことがわかり、思わず苦笑。 いつも、一緒に連句を巻いているので、好みが似ているのかも知れない。 終わって、駅近くで、グラスワインを飲み、少し話して別れる。家についたのは、10時半だった。 昨日は、M先生の葬儀。 近親者のみで、と発表されていたし、会からの通達もそのように書かれてあったが、10年来の師であり、自宅にも伺ったことがあるので、お見送りはさせていただくことにした。 ある人からの連絡で、その死を知ってから、通夜、葬儀に行くほうがいいのか、遠慮すべきなのか、ずいぶん迷った。 通達があったこともあり、はじめは、行かずにお悔やみ状を、と考えていた。 しかし、通夜に行った友人の話を聞いたり、自分の考えもあって、行くことにした。 誰とも誘い合わせず、会場に赴いた。 顔見知りが30人以上はいただろうか。 時雨の1日。 雨中での見送りとなった。 親族だけで、静かに送りたいとの、お連れ合いの意志に反したかも知れないと言う気もした。 社会的立場にあった人の、喪の儀式は難しい。 いずれ来るであろう、自分の父親の場合を考え合わせて、感じるところもあった。 見送りが済むと、昼時になっていた。 駅までの道の途中で、軽食喫茶に入り、昼食を摂りながら、六,七人で追悼二十韻を巻いた。 お喋りをしながらの、愉しい付け合いとなった。 連句関係者の集まるときは、私は、歳時記を必ず持っていく。 短冊を持ち歩いている人もいる。 きっと先生も、供養として、喜んでくれるだろう。 おとといは、井上ひさしの「夢の泪」という芝居を見に行く。 東京裁判を扱ったもの。 ミュージカル仕立てになっていたが、今まで見たひさし作品に比べると、少し、なじめなかった。 外出が続いたが、そのお陰で、足のほうは、だんだん快復している。 膝や腰の痛みはまだ続いているが、ほどほどに歩くことで、次第に治るのだろう。 明日は、家にいる日。 たまっている手紙の返事を書いたり、家事に専念したい。
文芸上の師が亡くなった。 私にとっては、直に手を取って教えていただく機会は、ほとんどないほどの、偉大な存在だった。 年に何回かの例会に、お顔を見て、お話を聞いたり、書かれたことを通して、教えを受けたことになる。 このところ、体調を崩されて、高齢でもあり、心配していた矢先のことであった。 お見舞い状くらいなら、出してもいいかしらと思いながら、そのままになっていた。 1年ほど前から、先生は、公式の席にでることを控えるようになり、今年に入って、代表者としての立場を、ほかの人に託した。 でも、実質的な主宰は、やはり先生であり、精神的支柱としての存在感は大きかった。 入門して、この10月で、丸10年になるが、生活の中に占める割合が、年々大きくなっている。 それだけに、師を失ったことに、深い悲しみを覚える。 初心の頃、2度ばかり同席させていただく機会があった。 ある程度、道を極めた人たちには厳しい先生だったようだが、初心者には、やさしかった。 昨年夏、体調を悪くされ、それから、あまりお目に掛かる機会がなかった。 先生の身近にいる人の口を通して、様子を聞くだけになっていた。 先週、例会の席で、先生の近況報告があり、まだ、それ程の重篤とは思っていなかったので、驚いている。 冥福を祈りたい。
落語家の立川志らくが、シネマ落語というのを、あちこちでやっている。 洋画を、江戸時代の日本の風俗に置き換えて、落語仕立てにするという試みである。 たまたま近くのホールで、ビリー.ワイルダーの名作と落語をセットにして、上演するので、見に行った。 今日の映画は「お熱いのがお好き」という映画。 言わずと知れたジャック・レモンとトニー・カーチス、それにマリリン・モンロウが絡んでのコメディ。 1930年代のシカゴ、禁酒法時代に、多くのギャングが輩出した時代背景をパロディに仕立ててある。 ギャングの殺人現場を目撃した、芸人のトニーとジャックが、彼らの手から逃げるため、女装して女ばかりの楽団に加わる。 マリリン・モンロウは、その楽団の歌手である。 そこで、起こるざまざまな悲喜劇を、面白く映画にしていて、飽きさせない。 洒落たセリフも随所にあり、最後は明るく終わるのがいい。 マリリン・モンロウは、今見ると、セクシャルというよりは、可愛い女である。 古いフィルムなので、時々途中で切れて、映画が中断したりしたが、観客は、市内の住民達がほとんど、辛抱強く上映再開を待ち、そんなところも、ローカルの催しの良さであろう。 私が子どもの頃、夏休みになると、近所の小学校の校庭などで、青空映画会があり、その時も、機械の故障や、フィルムが切れたりで、映画が中断することはあった。 そんなことを思い出した。 映画が終わると、今度は志らくが舞台に登場、見たばかりのアメリカ映画を、江戸の話に置き換えて、語るのである。 禁酒法の話は賭博に置き換え、ギャングはヤクザに、人情話は町人と遊女に置き換え、という具合である。 客は、話を聞きながら、映画のシーンを反芻して、愉しむという仕掛けである。 本当は、映画無しで、噺家の話術だけで、映画を語り、客を喜ばせるのが芸なのだろうが、全く映画を見てない客には、限界があるのかも知れない。 市のホールでは、11月にマレーネ・ディートリッヒの「情婦」、12月には「アパートの鍵貸します」と志らくの落語を組み合わせて上映する。 すべてビリー・ワイルダー作品である。 ほかにも、国立劇場で明日、ウッディ・アレンの「マンハッタン」と志らくがある。 古典落語とまた違って、こういうものも、面白い。 芸術の秋、さまざまな行事が目白押し。 新宿のカルチャーセンターから、「詩の朗読」講座の案内が来た。 自作の詩を朗読するというもの。 朗読には、興味があるので、行って見ようかと思っている。 小さなライブハウスでいいから、いつか自作の詩を、ピアノ伴奏入りで朗読したいというのが、ひとつの夢である。
都心の連句会に行く。 この会も、足の骨折以来である。 今日は21人。4席に別れて、巻いた。 となりに幼稚園があり、運動会をやっていて、賑やかな歓声が聞こえたが、やがて静かになった。 終わって、いつものように、有志が飲みに行くことになり、外に出た。 年配の女性は、まっすぐ帰る人が多い。 それを見て、ある男性が、「良家の奥さんは、まっすぐ帰りますよ」と言った。 冗談であることは解っているし、いつもの私なら、「良家の奥さんでなくて悪かったわね」と言い返すところである。 連句が終わっての2次会は、楽しみのひとつで、呑みながら気の知れた人たちと交わす話は面白い。 全体の数は女性のほうが多いが、飲みに行くとなると、女性はぐっと減って、男女ほぼ同数になる。 「良家の奥さん」は、あまり参加しないし、女性は独身者か、準独身の不良奥さんと言うことになる。 そして、その人達のほうが、酒席に合うし、話題も豊富で、座が弾むのである。 その時も、男の人が5人、それに女性が私を入れて5人、12月の忘年会の場所探しを兼ねて、飲みに行くことになっていた。 ところが、「良家の奥さん」のセリフを聞いた途端、なぜか私は、急に、行く気がしなくなり、「じゃ、私帰るわ」と言って、「良家の奥さん達」の後に続いたのである。 呑み友達は、私がふざけているのだと思ったらしい。 すぐに引き返してくると思ったのだろう。 笑い声もした。 それを後ろに聞きながら、私は振り返りもせずに、歩を進めた。 「アラ、ホントに帰っちゃうの」という声がした。 それから引き返しても、間に合うのに、なぜか私は、引き返さなかった。 そして、歩みのゆっくりした「良家の奥さん達」のそばを抜けて、まっすぐ駅まで歩いた。 戸惑っている呑み仲間の表情が見えるような気がした。 飲み屋で、多分、話題になったかも知れない。 そこには、「天敵」はいなかったので、悪意のある噂にはならなかったと思うが、「ちょっと今日はヘンね」ぐらいの話にはなったであろう。 人間には、時として、自分でも説明がつかないような行動を取ってしまうことがある。 連句が終わり、そのあとのお酒を楽しみにして、ほかの人たちが終わるのを待っていたのだった。 「良家の奥さん」云々を言ったのは、私とは気の合う男の人である。 私が骨を折って家に籠もっていた間も、時々心配して、メールをくれたりした。 今までにも、そんなことを言って、私をからかったし、お互い、気心がわかっている。 自分の言ったことで、私が気を悪くしたと思っただろうか。 おかしいな、今日は虫の居所が悪いのかなと感じたかも知れない。 ウチに引きこもっていたから、まだ、気持ちが快復してないんだなと、思ってくれればいいが・・。 自分でも、なぜあのとき、そんな風に反応してしまったのか解らない。 多分、その言葉が原因なのではなく、私の気持ちの中に、どこか本当に愉しめない何かがあって、そんな行動を取らせてしまったのだろう。 予定外に早く帰宅したので、風邪が治らずにいる夫のために、夕食を作った。 「良家の奥さん」の主に、メールを送ろうかと思ったが、そのままにした。 ヘンに説明するより、今度連句の席で一緒になったとき、「この間は、ごめんなさい」と、あっさり謝ろうと思った。
車の話ではない。 私の愛車は自転車、運転歴30年以上になる。 優良ドライバーというお墨付きはないが、安全運転に心がけ、前を歩いている人を、ベルでどけるようなことは絶対しない。 買い物、市役所や郵便局、病院、図書館、etc。 私の生活に、なくてはならぬものである。 駅までのバス代を節約して、駅近くの自転車置き場に置き、都心あたりまで行くこともある。 自転車置き場は3時間までと言うことになっているが、実際は、半日くらい大丈夫のようだ。 私の家から駅までは、自転車で15分くらい。 天気のいい日は利用する。 ただ、夜遅くなりそうなときや、帰りのルートを変える可能性のあるときは、自転車が置いてあると、不便である。 あまり暑いとき、寒いときも、自転車はきつい。 最近は、電車に乗って出かけるようなときは、バスを使うことが多くなった。 今日、久しぶりに自転車で買い物に行った。 足の骨を折ってから、自転車は、カバーを掛けたまま、裏手に置いてあったが、歩くようになってからも、しばらくは、乗れなかった。 体のバランスが悪くなっていて、ちょっと怖かったのである。 買い物は、夫が、車でスーパーに行ったり、近くの店で済ませたりしていた。 家事が私の手に戻ってから、買い物も、私が行くことになったが、やはり重いものを手で持つのはきつい。 自転車に乗せれば、ずいぶん違う。 思い切って、自転車を出した。 乗りはじめ、少しふらつくような気がしたが、すぐに馴れた。 郵便局に行き、公共料金などの支払いをし、帰りにスーパーに寄った。 あれこれ買い込んで、少し自転車の籠からはみ出してしまったが、人通りの少ない裏道を通って帰ってきた。 2ヶ月ぶりにペダルを踏んだ気分は、なかなか良かった。 夫が、2,3日前から風邪を引いている。 私の「看病」で疲れたからだと言ってるが、今月に入って、急に寒くなったりしたので、体の調節がうまくいかないのである。 私の風邪は、すぐに治ったが、夫は、気管支が弱いので、クシャミから咳に移行すると、長くなる。 今日も医者に行った。 熱はないし、喉の痛みも取れたが、何となく不快感があるという。 夜の会合を欠席し、パソコンで遊んでいる。
昔から俳諧師という人たちは、何かしらの庵号、座名を持っていた。 その伝統を引き継いで、私の周辺にも、宗匠と呼ばれる人たちはこうした名前を持っている。 「・・庵」または「・・亭」といったたぐいである。 今日の連句の会のあとで、例によって有志が20数人、飲み屋に繰り出したが、そこでも、そんなことが、私の周りで話題になった。 立机して宗匠となる人たちの庵号は、真面目な話だから、それとして、飲み屋での話は、もし、自分に庵号を付けるとしたら、どんな名前がいいかということを、ちょっとふざけたのであった。 私は、自分のサイトで、複数の連句ボードを置いているが、それぞれに名前を付けている。 「俳諧みづき座」、「俳諧蘭座」、あるいは「リリック連句座」といった具合である。 以前は、「連句燦々」とか、「連句遊々」などと名乗っていた。 常時付け合いを愉しみ、ほかの人のサイトにリンクしてもらっていたこともあった。 しかし、いろいろな経緯があって、それらのボードは削除、いまは三つのボードを交互に運営している。 ひとりで全部やっているので、管理が大変なときもあるが、参加者が愉しんでくれればいいので、気の向くまま、好きなやり方で運営している。 現実の連句座では、私は結社の一員に過ぎないし、本名以外の偉そうな名前があるわけではない。 しかし、インターネットは、虚構の世界だから、そこでは、勝手に座名を付けて、亭主気取りでいるわけである。 もし、もうひとつ名前を付けるとしたら、少しひねって「艶笑庵というのはどうかしら」というと、「ナニ、炎症庵?」とそばにいた男性が言って、笑った。 私が足の骨を折って、ひと月半も、連句座に出られなかったことを、茶化したのである。 「炎症庵、悪くないわね」と私も言って、その話はそれで終わった。 先週末から3日ほど、連句関係の行事で山形に行った。 連句は文芸の中ではマイナーで、俳句や短歌に比べると、関わっている人はまだ多くはないが、関わり方の深さにかけては、かなり上ではないかという気がする。 それは、連句が、文字通り「座」の文芸だからであろう。 複数の人たちで、座を作り、一つの作品を作り上げていく過程は、音楽に例えると、オーケストラであり、合唱である。 この魅力にとりつかれると、なかなかやめられなくなる。 その代わり、人間的な繋がりも関わってくるので、なくもがなのトラブルの果てに傷ついたり、人間関係がうまくいかずに、時にそこから遠ざかりたくなることもある。 それでも、やはり、やめられずに、また戻っていく。 連句によって、癒されることも少なくないからである。 ひと月ほど前、私はある人に長文の手紙を出した。 この1年ほど、明快な答えがなくそのままにされていることについて、責任ある立場の人に宛てて書いた質問状だった。 ある小さなグループから、私は事実上「追い出された」のだが、その「罪状」と理由を明らかにしてもらいたいこと、私の人格にも関わるそうした仕打ちについて、私にすべての原因と責任があるのかどうかを、あらためて正面から問いかけたものだった。 直接の関係者にとっては、「一人抜けた」ような小さな事であり、時間が経てば忘れてしまえるようなことかも知れない。 しかし、私にとっては、ちゃんとした答えが得られない限り、終わりがないのである。 きっかけになった人が、何も関係ないような顔をして残り、私だけが「断罪」されたのは、納得しがたいし、それに同調した人たちを、いつまでも許せずにいるからである。 追われた人間にとっては、「個人的な些細なこと」ではないのである。 追い払っただけでは足りずに、こちらの実名を挙げて弾劾し、さらに傷を深めるようなことをする。 そんなことを、なぜ、たったひとりで、耐えなければならないのか。 しかし、3週間も経って来た返事は、実に、誠意のない、実の籠もらないものだった。 質問に対する答えは、何もなく、言質を取られないように用心深く、短く終わっていた。 そこには、何も起こらず、関係者は誰も存在していないかのような書き方だった。 どこかの国の代議士の国会答弁のほうが、まだましだと思えるくらい、狡猾で、老獪だった。 怒りと失望を感じたが、これで、気持ちの整理がついた。 こちらが真摯に問いかけたことに対して、応えない人たちというのが存在するのである。 彼らにとっては、いなくなった人間より、現在いるメンバーのほうが大事であり、グループを守るためには、どんな手段も使うのである。 共同作品を作り上げることを目的とするグループの、唱っていることとは異なった正体を、見た気がした。 人の心を、土足で踏みにじって、平然としている人たちと、2年近くも、付き合っていたことになるのかと、愕然とした。 判ったのは、一見民主的で、公平を心がけているかのようなところにも、理屈抜きに、支配する力があり、闇の部分があると言うことだった。 その人達と「連句」を巻くことは、今後おそらくないだろう。 「炎症庵」とはよく言ったものである。 炎症を起こしたまま、彷徨っている心にも、休む場所がなければならない。
私は睡眠時間は、それ程多くない。 短い間に熟睡するほうである。 健康なときは、6時間ぐっすり寝れば、疲れは快復する。 そして、めったに夢はみない。 しかし、何かで、興奮しているとき、考え事をしたり、悩みがあるとき、あるいは、体調の悪いときは、夜中にしじゅう目が覚めるし、長い時間寝ている割には、すっきりしない。 そして、そんなときは、必ず夢をみる。 2,3日前から風邪を引き、熟睡していないせいか、このところ、バカに夢をみる。 目が覚めれば、記憶に残っていないことが多いが、時に、妙に鮮明に、夢の内容を覚えていることがある。 登場した人の名前、顔が判っている場合は、もちろんだが、知らないはずの人まで、絵心があれば復元できるくらい鮮明に顔かたちが浮かぶことがある。 夢というのは、心理学的に言うと、やはり、現実の世界と、深く関係があるのだろうか。 フロイトに依れば、さまざまな分析が出来そうだが、その辺は、詳しくないので、単純に夢は夢として、愉しんだり、ちょっと考えたりする。 漱石「夢十夜」風に、こんな夢をみた、と始めてみよう。 長い道を歩いていた。 遠くに高い建物があり、そこに行こうとしているのに、いつまで経っても、建物の大きさはそのままだった。 はじめは一人だった。 そのうちに、となりに誰かが一緒に歩いている。 横を向こうとしても、なぜか首が回らないので、その人の顔を見ることが出来ない。 しかし、知っている人のような気がした。 多分あの人だと思った。 そのうちに、隣からタバコの煙が漂ってきた。 タバコを吸わないはずの人が、なぜタバコを吹かしているのだろう。 私は前を向いたまま、「タバコはやめてください」と言った。 すると、その人は、「あなたは何でも否定形でものを言うんですね」と答えた。 そして「ふふふ」と笑う声がした。 それが女の声だった。 いつの間にか、もうひとり増えていた。 3人が横に並ぶと、道が狭くなるわと言って、そちらを見ると、誰もいない。 前を見ると、2匹の白い生き物が、走っていく。 「ふふふ」という声が遠ざかっていった。 追いかけようとするのに、足が進まない。 叫ぼうとするが、声が出ない。 生き物のうちの一人が振り返った。 手で、目を隠し、長い舌を出した。 もうひとりの生き物は、そのまま建物に入っていった。 「待って」と言ったが、声にならなかった。 目隠しをした生き物が、「ふふふ」と笑いながら、建物に入っていった。 そこで目が覚めた。 なぜこんな夢をみたのかわからない。 直後は、もっと細部まで覚えていたが、だんだん忘れてしまって、残っているのは、かけらのような、断片的な場面である。 脈絡のない、何も話に関連性のないのが、夢というものなのだろう。 バスや電車に乗っているとき、吊革につかまって、ぼんやりしているときにも、一瞬ではあるが、夢のようなものを見ることがある。 そして、すぐに、消えてしまう。 夢だったのか、ふと浮かんだ考えだったのか、判然としない。 忘れてしまうと言うことは、考えと言うより、一瞬の夢か幻と見た方がいいのだろう。 ホンのたまに、惜しかった、続きを見たかったと思うところで、目が覚めてしまうことがある。 慌てて、もう一度目をつぶっても、続きを見ることは出来ない。 「折角いい夢を見てたのに」と、恨めしい。 夢を食べてふくらんだ貘のお腹の中を、覗いてみたいものだ。
今週に入り、急に寒くなり、ちょっと油断をして軽い風邪を引いてしまった。 夫が、4,5日留守をして、おととい帰ってきたが、「オレのいない間、ろくなものを食べなかったんだろう。栄養失調じゃないか」という。 確かに、主がいないと、自分の食生活は、いい加減になる。 誰かが作ってくれれば食べるが、わざわざそのために、買い物に行ったり、時間と手間を掛けるのは、はっきり言って面倒くさい。 ふと気が付くと、昼抜きになっていたりする。 出かける用事があれば、外でついでにと言うことになるが、たまたま、外出の予定もなかった。 朝は、夫がいれば、必ず和食だし、みそ汁も、納豆も食べる。 夫は三食欠かさないので、昼は、パンか麺、単品と言うことはなく、野菜炒めを作ったり、オムレツを焼いたりする。 しかし、自分一人の場合、朝と昼を一緒にしたブランチ、それも、パンに紅茶、ゆで卵がせいぜい、サラダを作ったり、炒め物をするのは、面倒である。 時々、芯からイヤだなあと思いながら、食事作りをするのは、自分のほかに食べる人がいるからかも知れない。 夫に先立たれたら、私はきっと、すぐに栄養失調になって、死んでしまう。 何日も、泣き暮らして、痩せていき、そのうち、気力もなくなって、誰も知らないうちに、あの世に旅立ってしまう。 こんな事を言ったら、連句の悪友どもが、「いやあ、そんなことないと思いますよ。すぐに、ニコニコして、ひと月も経たないうちに復帰して、後顧の憂いがなくなったとばかり、ますます意気軒昂になるんじゃないですか」なんて言う。 イマニミテロ。 息子が、ウチに来ると、「お父さん、長生きしてよ」とは言うが、私には、そういわないのは、私のほうが残されると、かなり厄介だと思っているからに違いない。 金木犀の花がそろそろ落ち始めた。 香りが年々薄くなってるのは、木が弱ってきたからか。あるいは、環境の変化か。 昨日は、夫の母の命日だった。 24年前の10月8日、亡くなった。 脳出血で倒れ、救急車で運んで、まもなく意識不明になり、1週間後の死だった。 二人の息子と、その連れ合いに見守られながらの静かな最後だった。 ちょうど、金木犀が、見事な香りを漂わせていた時期で、母の入院していた間に、雨が続き、花は次々と散っていった。 母が倒れる前の晩、私が覚えているのは、台所で何かをしていた母が、「さあ、もう寝ましょう」と言って、エプロンを外し、「おやすみなさい」と私に声を掛けて、自室に入っていった姿である。 「おやすみなさい」と私も、答えて、母の背中を見送ったが、それが、元気な母との最後の会話となった。 70歳になったばかりであった。 50歳そこそこで、夫に先立たれ、大学を卒業したばかりの長男、まだ高校生だった次男と3人になった。 それから、二人の息子が、家庭を持ち、孫にも恵まれ、これから穏やかな老後を愉しみたいと思っていたはずである。 私たちが南米で暮らしていた頃、たった一人で、太平洋を横断して、母はやってきた。 寒い日本の冬を避けて、1,2ヶ月の予定であったが、結局半年そこで暮らした。 いろいろな思い出がある。 いつか母の事も書きたい。
2,3日前に電話したとき、母の声が元気がなかった。 私が骨折して以来、行ってないので、「近々行くからね」と言っておいた。 今朝、電話をして、「今日か明日行こうと思うんだけど」というと、「明日は歯医者に行くから、今日の方がいい」というので、午後から行くことにした。 電話を切ったと思ったら、すぐ母から掛かってきて「廊下の本箱に五木寛之の『大河の一滴』があるはずだから、探して持ってきて」と言う。 3年前まで、父母は私の家で暮らしていたが、その部屋は、そのままになっている。 庭に面した広い廊下には、父の本箱があり、それも、そのまま置いてある。 「大河の一滴」は、母が読みたいというので、文庫本になったものを、私が買ってきたのだった。 一度読んだが、また読み返したくなったらしい。 本箱からそれを抜き、ほかにも、気軽に読めそうな数冊を取り出した。 母の元へ行くのは、午後からお茶の時間を挟んで、夕食前までの頃がよい。 昼食を済ませ、そろそろ行こうかと支度をしていたら、母から電話。 「今雨が降っているでしょう。滑ると危ないから、今日はやめた方がいいわ」と言う。 確かに、明け方から小雨が降っている。 母には、「捻挫」と言ってあるが、私の足を心配しているのである。 でも、最初に掛けたとき、そんなことは言わなかった。 あるいは、誰かほかの人が、行くことになったのかも知れない。 母は、自分の娘達であっても、複数の人間が、鉢合わせすることを好まないのである。 90歳になってもなお、母はゴッドマザーを演じたいのである。 しかし、言われたことだけ素直に受け取ることにし、「じゃ、今日はやめるわ。また、2,3日中に行くからね」というと、母は安心したように、電話を切った。 母はもともと、そんなに読書をするひとではなかった。 父のほうは本がなければ1日も生きられないような人だったので、戦後の混乱期にも、狭いアパートに、父の本箱だけは、場違いなスペースを占めていた。 私が小学生の頃、忘れられない記憶がある。 多分、冬の夜遅くだったと思う。 話し声がするので、目が覚めた。 火鉢を囲んで、父が母に本を読んでやってるのだった。 縫い物をしながら母は、ぽろぽろ涙をこぼしていた。 読んでいる父の声も、涙にくもっていた。 何か、声を掛けてはいけないようなものを、子供心に感じて、私はそのまま、また目を閉じた。 あとで、その本が、上林暁の「聖ヨハネ病院にて」であったことを知った。 私の目に映る母は、いつも父と私たち4人の子どものことで、忙しく働き、ゆっくり本を読んでいる姿を見たことはなかった。 だから、読書などしない人かと思っていた。 でも、冬の夜に垣間見た父母の姿で、母も本当は、本が好きなのだと知った。 この数年の間に、父は本を読む力がなくなり、その代わりのように、母は本を読んでいるらしい。 いつか行ったときも、母のベッドのそばには文庫本が置いてあり、見ると「啄木歌集」だった。 「退屈なときに、読んでるの」と母は、悪いことをして見つかった、子どものような表情をした。 文庫本は、疲れるに違いない。 後で図書館に行き、「大河の一滴」が大型活字本になっていたら、借りてこようと思った。
骨折で家に引き籠もっている間も、インターネットの連句は続けていた。 こんな時、パソコンを覚えていて良かったと思う。 居ながらにして参加できる、インターネットの有り難さを感じる。 全快するまで、出かけての座に参加できないとなると、ネット連句だけが頼りである。 今7人での付け合いのほか、独吟もやっているが、もしこういう物がなかったら、かなりつらい日々だったと思う。 今日は、座の連句にも復帰するべく、骨折以来45日ぶりに、深川の連句に行った。 ここでは、参加者は多いときで25人、最近少し減っているようで、今日は11人だった。 私はくじ引きで、6人の席に配され、歌仙に参加した。 終わったのが6時過ぎ、それから食事に行くという人たちと、小さな飲み屋に付いて行き、久方ぶりに会話と酒も愉しんだ。 飲み屋では、5人という気安さもあって、最近問題になっている訊かずもがなの話も聞いた。 風の便りに入ってきた、別の人の話と比較して、自分なりの判断材料を持つことが出来て、大変良かった。 人の口から語られる話というのは、錯綜して、少しずつ違っており、こういうことは、情報が多いほどよい。 もはや解決済みのことであり、やがて公式見解が発表されることではあるが、そこに大きく関わった人の口から、直接経緯を聞くことが出来て、見えてきたものもあった。 その人と、帰りの電車が一緒だった。 来週に迫っている行事の話などをしながら、電車に揺られていた。 5,6年前までは、ふざけたことを言い合っていた仲間だった。 その人が、時の成り行きで、重い役を持つことになり、今、心労の多い立場にいるのだった。 そのことには、お互い触れなかったが、大変だろうなと、その心の内を想像した。 私のほうが先に乗換駅に着いた。 降りるとき、彼は「ホームの先に、エレベーターがあるから、利用するといいよ」と、教えてくれた。 その人は、私の骨折のことは、誰かから聞いていて、いたわってくれたのだった。 折角教えてくれたからと、エレベーターのほうに行きかけたが、思い直し、階段を使って、電車を乗り換えた。 昨日は美容院、今日は連句と、2日続けての外出だったが、それ程の疲れは感じない。 まだ足は引きずるが、それも、やがて直るだろう。 昨日、美容院の帰りに靴屋に寄り、医療用の靴を買おうと思ったが、それよりも、普段の履き慣れた靴で慣らす方がいいと考え直し、買うのをやめた。 昨年、中国旅行の際、馴染んだ靴がある。 今日はそれを履いて出た。 骨折経験者が何人かいて、医者よりも有益なアドバイスをしてくれた。 明日は、両親の顔を見に行こうと思う。
昨日は、42日ぶりに電車に乗って、都心まで出かけた。 ある大学の公開講座に出席するためである。 足の骨折以来、家に籠もっていたが、もう6週間経ち、新しい骨も出来ているので、いつまでも、引きこもり状態を続けるわけにはいかない。 「社会復帰」は10月からと決め、ギブスが取れてから2週間は、家の中でのリハビリに徹した。 リハビリと言っても、特別なことをするわけではない。 居間と台所、私の書斎の間をいったり来たりするだけで、結構な歩行の量になる。 階段の上り下りは、日に何度かするので、自然にリハビリになる。 ずっと夫に任せていた家事を、夫が「大政奉還」するというので、外回りやゴミ出し以外の仕事は、元通り、私がやることになった。 一昨日は、近所のスーパーに一緒に行ってもらい、買ったものを家まで運んでもらった。 まだ自転車に乗るのはコワイ。 思わぬことで、足に力が入って、骨がポキリといきそうな気がする。 理屈の上では、そんなことはないのだが、左右のバランスが悪くなっているような不安がある。 そこで、まずは近場を歩くことから始めた。 休んでいる間に、季節が変わり、スーパーの食料品も、様変わりしている。 夫は料理が一番苦痛だったようで、半調理品や、ナマのまま食べられる豆腐、はんぺん、トマトや果物を、切ったり洗ったりするだけで精一杯だったので、食生活がずいぶん偏ってしまった。 「入院しててくれれば、君の分を作らなくて済むのに」と、よく言っていた。 自分だけなら、どこかに食べにいったり出来るのに、私がいたために、食事抜きというわけに行かなかったのである。 洗濯物を干したり取り込んだり、習慣にないことは忘れてしまうので、時々私が、座ったまま指図したりした。 おとといは「全快祝い」ということにして、ワインを開け、乾杯した。 昨日の公開講座は、一緒に行く友人がいるので、駅で早めに待ち合わせた。 時間があるので、駅ビルの中のイタリア料理の店に入り、パスタを食べた。 それからゆっくり大学構内に入り、講座の開かれる会場に行った。 この大学の社会人公開講座は、20年ほど前から、時々通ったことがあるので、懐かしかった。 6時45分からの講座なので、始まる頃には、暗くなっていた。 「俳句研究」と題した講座は、講義と実作を取り混ぜて、進行することになっている。 昨日は、全体のアウトラインを話し、来週から俳句、連句の実作があるというので、楽しみである。 週一回、12回続く。終わるのは、12月半ば過ぎ、そう考えると、今年も、そう長くない。 授業が終わって、駅までの道を歩きながら、「疲れたね」ということになり、駅構内のコーヒーショップで、濃いめのコーヒーを飲んだ。 久しぶりに話も弾んで、家に帰ったのは10時過ぎ。 夫が心配顔で迎えてくれた。 今日は秋晴れ。 夫は蓼科に行った。 山荘を閉めるためである。 私も行きたかったが、今回は、残って、こちらの秋支度をすることにした。 夏物、冬物、処理しきれないまま、あちこちに散乱している。 寒くならないうちに、片づけねばならない。 連句の作品集を作る仕事もあるし、忙しくなりそうだ。 蓼科は、秋の日射しが降りそそいで、とても、いい景色だとか。 4,5日、家から離れれば、夫にとっても、いい骨休みになるだろう。 私は、郵便局に手紙を出しに行き、図書館に寄って、6冊ばかりの本を借りた。
子どもの頃、ターザンの映画が好きだった。 もとオリンピックの水泳選手だったジョニー.ワイズミューラー演ずるところの初代ターザンは、森の中で暮らしている。 皮の腰布を付けただけの姿で、妻と子ども、動物たちと、原始に近い生活をしている。 木から木へ跳び、川を泳いで、獲物を捕り、平和で、愉しい暮らしである。 そこに時々、侵入者が現れて、悪いことをする。 強いが優しいターザンは、平和を乱す悪人達と、決然と戦う。 その姿はとても、素晴らしく、当時の映画館は、観客がスクリーンと一体になってみる習慣があったので、妻や子や、動物たちの危機を救うためにターザンが現れると、拍手したものだった。 日本映画でも、鞍馬天狗などはそうだった。 悪を懲らしめる正義のヒーローは、人々が持っているひとつの夢かも知れない。 水戸黄門のテレビが、長寿番組になっているのも、これと同じ理由であろう。 しかし、現実の人間社会は、もう少し複雑で、正義の姿は、誰が見ても同じとは限らないのである。 特に、企業や政界、学校、地域社会、小さなグループにあっても、個人の正義と組織の正義が、いつも一致するわけではない。 最近、話題になったいくつかの医療事故、病院の名誉と社会的地位を守るために、まず事実を隠すか、あるいは、公にして、社会の審判を仰ぎ、潔く断罪される道を選ぶか、それを決めるのは、そこに働く人たちの正義が、どこにあるかと言うことで決まるのであろう。 こういうものが、外に出るのは、多くは内部告発かららしいが、告発する人も、組織の正義と、人としてのあるべき正義との狭間で、悩むに違いない。 あるいは、そんなこころざしの問題とは別の、利害が絡んだ結果かも知れない。 人が集まるところには、必ずそうした問題がある。 組織、あるいはグループの対面を守るために、本当は正しくないと解っていながら、邪魔になる人を切り捨てるということも起こる。 これは、大変理不尽なことであるが、現実には、あちこちで見られることである。 その場合、切り捨てられた人間はどうするか。 黙って、しばらく様子を見る。 正面から、反論なり抵抗を試みる。 そこから離れ、別のところに居場所を探す。 まあ、こんなところであろう。 もっと、元気のいい人なら、別の組織を作って、そちらに人を集めることもするかも知れない。 邪魔者を追い出した方は、組織としての正義を守るために、すべての罪を追いやられた人に被せ、メンバーにもそのように言い含めて、相手があきらめるのを待つ。 しかし、自分たちの不正義は解っているので、そのままで済むかどうかという不安は、常につきまとう。 黙って、済めばいいが、いずれ何かの形で、返ってくるかも知れない。 それが怖さに、相手を抹殺して、殺戮を繰り返していったのが、ソビエト時代のスターリンであった。 独裁者の正義は、相手を殺すことによってしか、守られないのだから。 小さなグループであっても、生きながら殺すという点では同じである。 抹殺された人間が、真剣に問いかけた疑問に答えず、握りつぶし、あるいは、とぼけてはぐらかす。 そんな人が、例え世界平和を唱え、平和運動に身を挺していたとしても、それはまやかしであり、ポーズにしか過ぎないのである。 直接肉声を訊ける相手に対し、誠実な態度を取れない人が、口先で人類愛を唱えても、誰が信用するだろうか。 それが見抜ける人というのは、実はそう多くない。 だから老獪な妖怪が、大手を振って歩けるのである。 水戸黄門に出てくる悪代官は、見るからに悪相をしているが、現実の悪人は、見分けるのがむずかしい。 しかし、そういう人がいないと、ドラマは平坦で面白味に欠ける。 その意味では、悪人も、存在意義があるのかも知れない。
今朝のテレビで、見聞きした話題。 名前を変える人が、増えているそうな。 ペンネームや芸名でなく、戸籍上の名前の話である。 親からもらった名前が気に入らない、人生をやり直すために名前を変える、姓名判断で勧められた、名前を変えることで、別の人格を生きたい・・・など、さまざまな理由があるらしい。 私の親族でも、姓名判断で名前を変えた人がいる。 それ程簡単なことではなかったと聞いているが、読み仮名はそのままで、漢字を変えたのであった。 今日のテレビは、漢字の名前の読みが難しいので、カタカナやひらがなにした例、失敗の多い人生を、名前を変えることで、出直したい人、いくつかの仕事を掛け持ちしていて、それぞれの場所で、別の名を名乗っている例などを紹介していた。 姓名判断で名前を変えた奥さんが、夫にも勧め、「親からもらった名前だから」と、抵抗を受けている場面もあった。 息子が、知らない名前を名乗っていることを知って、ビックリしながらも、「本人の生き方だから」と、理解を示す親の表情も、映していた。 名前を変えることで性格が変わり、人生が愉しくなったという人もいた。 前向きに生きることが出来るなら、それも、いいことなのではあるまいか。 戸籍上の名前を変えるのは、手続きが面倒だからと言うので、通称として、別の名を名乗っている人もいた。 こういう現象が増えてきたのは、ひとつには、インターネットの影響もあるかも知れない。 ネット上では、ハンドル名を名乗ることが普通だが、使っているうちに、それも自分の本当の名前のような気がしてくる。 私は戸籍上の名前がちょっと変わっているので、「ペンネームですか」と訊かれることもある。 苗字はごく平凡だが、名前のほうは、生まれてこの方、同じ名前の人に出会ったことがない。 子どもの頃は、名前で虐められたこともあった。 どうしてこんな名前を付けたのかと、親を恨めしく思ったものだった。 しかし今は、その名前でないと、私ではないと思っている。 まず、この名前を変えることはないだろうと思う。 しかし、ネット上の名前なら、たびたび変えて、名前に合った人格を演じてみるのは、愉しいのではないだろか。 私は結婚して、夫の姓を名乗ることになったが、旧姓よりも今のほうが、名前には合っている。 夫婦別姓も、やがては珍しくはなくなるだろうが、私の若い頃は、女性は夫の姓を名乗るのが普通だった。 とてもいい名前なのに、結婚したら相手のつまらぬ姓に変わって、惜しいなあと思った人もいる。 学生時代の友人と会うと、自然に昔の名前を呼んでしまうが、その名前で付き合っていたのだから仕方がない。 昔の名前で呼ばれると、今は、かえって新鮮な気持ちになる。
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