ネコヤシキ日笑
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明日、向後千春さんを迎えてのワーク。
台風がこちらにむかっていて気になる。
なんどもなんども台風情報にアクセスする。
先生のひこうき無事かしら…のほうは無事だったようでよかった。
隣県から申し込んでくれているひとたちが無事に来られるかしら…のほうも、台風がのろいおかげで問題なさそう。一安心。
2月に主催した講習会のとき、前の日まではもう春のようにぽかぽかだったのに、急に嵐になった。
6月に共催した合宿ワークのときも、ことしは空梅雨かと思っていたのが、これでもかというくらいの豪雨になった。高速やJRで来る参加者も遅れたし、なにより講師ののる飛行機が飛ばなくて、開始を遅らせることになった。
ふう。ほんとうに、ひとあんしん。
印刷物、閉館時間ぎりぎりで間に合った。
仲間が、早出+残業のあと、保管してあった荷物をとりにいってくれた。
これもぎりぎり。
また別の仲間からは、朝ピックアップしてくれるとの電話。
ふう。ありがたくってなきそう。
直前になって電話で申込みが続いて入った。人数もにぎやかになった。
ふう。ばたばたした日々だった。あしたはワークにひたって楽しみたい。
成績つけ、今月中の書類つくり、月末の請求書の〆、試験監督、遅れている学会誌の編集、催促のきた持久走大会の準備、そんなときに調子の悪くなるパソコン…ふはー。シングルタスクな私には、積もりすぎ。
昼間ぼやぼやしていて、夜遅くに帰宅。
帰りがけに、むしょうにカレーが食べたくなって、いきつけになりつつあるインド料理店に。
店に入って声をかけると、インド人のおじさんが、「いつものでしょー」と。だまってすわればぴたりと出てくる、になってきた。
アル・パラク(じゃがいもとほうれんそうのカレー)
くるみの入った焼きたてのナン
ちょっとサラダ
チャイ
いつもこれ。840円。
2004年07月28日(水) |
スケジュールの先には「人」がいる |
キャリアカウンセラーの方による「ライフ・デザイン」の公開講座。4回目。
ライフダイヤグラムというのを書く(描く)。
そのあいなかで、時間管理について。
「スケジュールは『モノ』ではなく『人』」
というサジェスチョンが私にはよかった。
「〜ねばならない」「〜すべきである」という「責任」の観点から考えがち。
そうではなくて、じぶんの「ミッション 使命」の観点から考える。
何かをするその先には誰かがいる。相手がいる。
その人との関係のなかに役割がある。
じぶんの「役割」を大切にする。
「(だれか)のために(どういう存在)でありたい。あったらいいか」
「(だれか)のために(どういう存在)であるために何ができるか」。
・多く、速く、懸命にではなく、何をどうやるか「方向性」を大切に
・限界を知り、自分にできることに焦点を合わせる
(やらなくていいことを知る)
(無理してやらなくていいことは何かを知る)
・感情的に反応しないで解決する力を持つ
・自立ではなく相互依存 win-win を考える
備忘録みたいだけれど、じぶんが読み直しやすいようにここに書いておこう。
たしかに私の場合、とくにこのごろ、やらなくちゃならない、やるべき、が多くて、やたらと疲れていることが多いみたいだ。方向性をしぼること、今の優先することをしぼること、無理をすればできる…ということでも今の方向性の軸で考えて、(できるだけ…)すっきりと断ったり、他の人に頼んだりしていくこと。今の課題。
(だれか)は、(顔のある)個人ではなくて、集団であるとか、不特定の人たちであることもありそうだ。
それぞれのことは、あたらしいアイデアではなくて、どこかですでに知っていることなんだけれど、これも今だから、この文脈できくから、ヒットするんだろう。
このひと月のあいだに、
・7年周期説のワーク
・仕事・交友・愛のタスクからこれまでのジンセイをいくつかの時期に区切るワーク
・きょうの、ライフダイヤグラム
と、来し方行く末を、ばくぜんとではなくて、手で書き、目で見えるようにして、人にも説明する、という機会が続いた。
これも必然、大きな流れというものなんだろう。
これまでやってきたこと、やってきていないこと、あと生きていられるかもしれない30年余りの余生、方向性。明確にしないできたことを掘り起こされるような。
今はそういうことに迫られている/機会がやってきている時期らしい。
「ライフアップ」工事。
広い浴槽、自動化された風呂釜に取り替え、
大きな鏡のついた洗面化粧台に取り替え、
給湯。
洗面所でお湯が使える。うれしいな。
お風呂をわかすのに時間を気にしていなくて済む。うれしいな。
今どきの家なら、こんなものが標準でついているのだろう。
ここは40年ものの古い公団。
こんなふうにちょこちょこと改修をして、今どきの設備にしてくれる。
ただし、あとからあとから美観なく配管が壁を這う。それはしかたないね。
昼間の立ち会いのために来てくれていた母が、風呂場や洗面台まわりはもちろん、玄関あたりのこまごましたものを撤去してしまって…いや、撤去するよう指示してくれて…入口だけだが極めてすっきりしているわが家である。
モノをどこに置く、なにを食べる、なにを飲む、お風呂、寝る、テレビ、買い物…2夜だけだけれど、〜しなっせ/〜するたい(〜しなさい)と言われ続けて、ぐったり疲れた。途中ではキレそうになって、いいのっこれでっ、とか、ほっといてっ、とか言いそうになった。
ふだん、マイペース、マイウエイで暮らしているということだなあ。
お惣菜などたくさん。
ビールを2回。
巨峰や杏仁豆腐のデザート。
食卓はいつになくにぎやか。
暑い。暑い。
明後日から改修工事が入り、そのために明日から母が来る。
今日はおかたづけ日。一日家にいて、ぐずぐずとおかたづけ。
書類の山から、「エンジョイ・イット」と題した、ふるいログが出てきた。
1)問題が自分の努力で解決できるものかどうか考える。
1−1)もし自分の努力で解決できないなら、楽しむか苦しむかを選ぶ。
1−2)もし自分の努力で解決できそうなら、努力するかどうか考える。
1−2−1)もし努力してまで解決する気がないなら、楽しむか苦しむか選ぶ。
1−2−2)もし努力して解決する気があるなら、楽しんで努力するか苦しんで努力するか選ぶ。
結局、どんな場合にも、人は「楽しむか、あるいは苦しむか」を選ぶことができるのです。これは、まったく主体的に選ぶことができる。このことは大発見です。「問題があるから苦しむ」というのは原因論で、アドラー心理学的ではありません。目的論的には、苦しみを「使っている」のです。おそらく、非建設的にね。
さて、趙洲は、「楽しむ方を選ぶ」と言います。しかし、私は、ときには苦しむ方を選んでもいいと思う。「私が選んでいるのだ」と知ってさえおればね。
うん。そうなんだ。
私が選んでいるのだ。
あたらしいアイデアではない。
何度も、何度も、聴いていて、知っていることだ。
でも、やっていないならば、識ってはいなかったってことだ。
このごろ、ずうっと気になっている課題があって、他者は変わらないし、自分は腑甲斐無いし、それはわかっているのだけれど、落胆して、苦しく思っていた。
そのような人たちが居るということは、私の努力では解決できないのだから、楽しむか苦しむかを選ぶことができる。私は今のところ、苦しむほうを選んできた。これから、楽しむほうを選ぶこともできるが、今は、しばらくこのまま居ることにしよう。
気になっている別の課題のことでは、私は努力して解決しようと思う。
ひとつは、苦しんで努力する。
もうひとつは、楽しんで努力することにする。
昨晩、FAX電話機が死んでしまった。
いぢれるところはいぢったが、復活しない。
部屋に帰ってすぐFAXを印刷した途中だった。
機体が熱くなっていたので、どこか回路が焼き切れたのだろうか…。
FAXで申込みの連絡を受けているし、このままでいるわけにもいかない。留守電も必要だ。FAX電話なしで、一昼夜すごすだけでも、心もとない。
で、きょうは、仕事のあと、まずFAXを買いにでかけた。
B店で接客してくれたおねえさんは、とてもよかった。
いろいろな機種を紹介してくれたのだが、話しているうちに、じぶんの欲しい機能や優先したいことがクリアになって、候補が絞られてきた。いつか買おうと思っていたものなら下調べをするのだが、今日の場合は、このごろどんなふうになっているかも知らないで、それに今すぐに決めなければならない。
てぶら通話ができて、紙をさすところにカバーがあって、留守録時間が充分あって、できたら5枚以上いっぺんに原稿がさせて、留守録が入ったのが見やすくて、できたらコンパクトで白っぽいので、Lモードとか余計なものはついていないもの…
数年は部屋において、毎日のように使うものだ。
ちょっとこだわってしまう。
さいごに絞った数機種を存分に迷わせてくれて、何度も見くらべさせてくれて、じぶんで選ぶ。
無理強いをしてすぐ決めるようにはされない。
それでいて、商品間の違いは教えてくれる。
とてもありがたい。
腰の低い態度で、ていねいで。
2万円ほどのお買い物にこんなにしてもらって、ほんとうに頭が下がる。
夜中に、あれこれの設定。
前のより、ずいぶん使いやすくなっているように思われる。
今日も猛暑だ。
試験監督の場所にゆくために、十数分だけ外を歩いたら、アスファルトの地面からも天からも両面焼きにされているようだった。
試験監督で教室を巡回していたときに、くらくらとして、まっすぐに立っているのがあやうくなった。幸い空いている椅子があって、座らせてもらっていたが、なさけない。
原稿書いたり読んだりで、この2,3日もまともに眠っていない。
さすがにこたえている。
ひるのしごとに差し支えるなんて、なにをやっているんだろう。
なにやってるんだろう>じぶん
と、このごろそんなことばかりだ。
このごろ、幸田文の「季節のかたみ」という文庫本をかばんに入れて持ち歩いている。たまに、ほんとうにすこしずつ読んでいる。いいまわしが独特でマネしたいほどなので、先に進もうと思わないで、何度も読み直しながら進んでいる。
扉のところに、著者がきものを着て、ちょっと斜にこしかけている写真が一枚。その居ずまいが佳くて、あこがれる。50代くらいだろうか、きちきちとはしていない着方で、普段着のきものを着ている。くだけた腰掛け方。憂いのあるような、きつすぎない、それでいて芯と意思との感じられる姿。
50代になるころ、こんなふうになれていたらいいなあ。
ぐるぐる考えていることなんか、そのまま考えつづけたって
こたえが出ないよ。
しばらく、たなあげにして、しまっておいて、
そのあいだに、他のことを一所懸命して、
あとからとりだして、また考えたらどうだい。
どこかに、ぱたんとしまっておくイメージはどうだろう。
そうだなあ…冷蔵庫の、冷凍庫のひきだしのなかに
凍らせておくのはどうだろう。
しばらく入れておくと、こちんこちんに固まっていて、
それを、ときがきたら、電子レンジに入れて出してくるんだ。
それか、冷蔵庫の上の、抹茶茶碗の箱のなかはどうだろう。
桐の箱で、真田ひもで十字に結んである。
たいせつなおたからのように、桐の箱に入れて、
真田ひもを結んで、高いところにおいておくんだ。