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2024年09月08日(日) |
蒼天抗露(エストニア エクストラタリン) |
出国審査。EU民のブースと外国人のブースとあり、外国人のブースに並ぶ。パスポートを見せ、スーツケースを預ける。続いて手荷物検査。それも通過すると免税店がいくつか並ぶ出発ロビー。時節柄そうなのか、迷彩服を着た軍人の姿をたくさん見かける。添乗員氏が深刻そうな顔をしてツアー客に告げる。
「ひょっとしたら、我々が乗る予定の便、飛ばないかもしれせん。」
「その場合どうなるのですか?」
「タクシーで市内に戻って、航空会社が確保した宿でもう一泊ということになります。」
添乗員氏の読みは当たった。搭乗時刻になっても登場すべき飛行機の姿はなく、搭乗の案内はされず、しばらくして添乗員氏から、「欠航が決まりました。ついてきてください」と言われ移動。まず、先程預けたスーツケースがベルトコンベヤで吐き出されてきたのを各自回収。次に、
「代替便の交渉をします。先程のブースに各自再度並んでください」
ブースは長蛇の列。しかも列はなかなか進まない。ここで、「代替便の案内、その航空券、もう一泊するためのホテル案内、そして、ホテルまでの往復のタクシー券」の案内がされる。ここで添乗員瀬田氏が掛け合って、無事にそれらを獲得。しかし、なんと全ツアー客18人のうち、14人がフランクフルト経由で羽田へ、そして残る4人と添乗員瀬田氏はヘルシンキ経由で成田という代替便を指定されるということになった。
ともかくも、タクシー券は一人に一枚ではありません。4人一組になってタクシー券でホテルに行ってくださいねということなので、タクシーを捕まえる。ノーと言われる。
「タクシー券が使えるのは黄色いタクシーのみと添乗員さんが言ってました」
歩き回ってようやく黄色いタクシーを見つけ乗車。この時点で、来た時青空だった空港はすでに暗くなっていた。時刻は8時くらいだっただろうか。
案内されたホテルは「スイスホテル」、一回のロビーの天井が高く、昨夜のKGBホテルと同等か、もしくはそれ以上ではと思われる高級ホテル。ツアー客全員の集合を待ってフロントで受付。添乗員が代表して全員分受付してくれる訳ではなく、フロントの男がひとりひとり英語で説明をする。「一人なのか、連れがいるのか?」くらいまでは答えられたが、長文の英語なんて分からないという顔をしていると、フロントの男は、「誰か英語の分かる奴はいないか?彼に説明してやってくれ」と声をあげ、添乗員氏の出番に。「食堂は30階、メニューは20ユーロまでは無償。超えた分は自腹、酒類は自腹。等々」
割り当てられた部屋1305室は大きなダブルベッドが鎮座する、おそらくはスイートルーム。
日本の旅館とは違い、浴衣が部屋に備え付けられているわけではない海外のホテルだが、この部屋の浴室にはバスローブが備えてあった。もともと日数分の下着しか持ってきていないのでこれは有難い。
30階の展望食堂へ。バーのような空間。メニュー表を見る。「前菜」「主菜」などと書かれている。「主菜」に記された中から、20ユーロに満たない値段のものを探す。18.5ユーロの「マッシュルームの何か」を選ぶ。(マッシュルーム以外は読めなかった)マッシュルームを使った何かの料理だが、果たしてどんな料理が運ばれてくるのだろう?
出された料理は、ひだの部分を上にして焼いた椎茸の上にとろけるチーズが乗り、生野菜をきれいに散らして彩ったもの。西洋のレストランでは、テーブルの上に乗ったパンは無料で食べ放題という話を聞くが、ここにはそれらしきパンは見当たらず、おかずだけの夕食。
食事が終わり、会計方法を添乗員氏に聞く。
「部屋番号と食べた食事をレジで言ってください。」
部屋番号は確か1305だったっけ?持ってきたルームキー自体に部屋番号は記されておらず、部屋番号、多分1305だったと思うんですけどと言うと添乗員氏、「多分じゃダメです」と、私を連れ1階のフロントに行き、部屋番号を確認し再度食堂に戻るという荒業。
明日の代替便は朝6時半発。そのため、朝4時にホテルを出てタクシーに乗ると添乗員氏には説明されている。当然、朝食の提供はなしということになる。絶対に寝坊が許されない早起きの為、さっさと風呂に入って寝ることにする。部屋の窓からは青と黄色の2色にライトアップされたオフィスビルが間近に見える。特等席だ。写真に収め、睡眠時間は4時間半かと確認して寝る。
フロントで添乗員氏が黄色いタクシーを呼び、朝4時、何台かに分乗して予定通り空港に向け出発。自分が乗った黄色いタクシーの同乗者は、同じく欠航で一泊を余儀なくされた外国人グループ。
まだ一名分席が空いているよということで乗ることになった。
空港で、昨日並んだブースに再度並び、出国審査、手荷物検査やり直し。同じ列に、あのHISツアーの一行の姿も。彼等も昨日同じ目に遭ったらしい。そして、彼等のグループは幸運にも全員が「フランクフルト経由羽田着」の代替便を割り当てられたそう。
ヘルシンキ経由が割り当てられた添乗員氏とはここでお別れ。あとは添乗員なしでフランクフルトで日本行きの便に乗り換え、帰国しなければいけない。
フランクフルトでの乗り換え便の搭乗ゲートの番号を教えてもらい、窓口でパスポートを見せれば日本行きの代替航空券を発券してもらえると教えてもらったが、今、手許にフランクフルト発の航空券がないのは、はっきりいって不安で仕方がない。
手荷物検査場を過ぎて出発ロビーまで来ると、疲れた表情で椅子や壁にもたれかかっている搭乗客を何人か見かけた。着の身着のままでこの場所で一晩を明かしたのだろうことが明らかだった。交渉力とか語学力、それに頼もしい添乗員の有無が昨晩の明暗を分けたのだろうか?
出発までの間、日本から持ってきた煎餅を食べる。いつか日本の食べ物が恋しくなったら食べるように一袋持ってきたのだが、恋しくなることはなく、とうとう最終日まで食べないままだったが、朝食代わりに今食べるしかない。でも、それだけでは腹を満たすには至らず、売店で袋に入ったクッキーのような菓子を買う。見た目適正価格100円程度のものだが、7ユーロ。1000円超。
やがて搭乗。初めて乗るルフトハンザ航空。片道2時間半ということもあり、配られたのはペットボトルに入った水だけで、機内食はなし。窓から遠い席で下界の様子は分からないが、西に向かって飛んでいるせいで、夜明けが長く続いている感じ。飛行機が高度を下げた。フランクフルトは朝もやに包まれているようだ。着陸。
タラップで滑走路に降り、迎えのバスで空港建屋に向かう。近くに見える作業車両にはベンツのエンブレムが光る。日本ではありえないベンツの作業車両の写真を撮りたいが、どうしてもほかの乗客が視界に入ってしまうので撮れずじまい。
乗り継ぎ窓口に行き、係員のいるブースでパスポートを差し出すと、機械で何か読み取って、日本行きの航空券を発券してくれた。これで安心。
乗り継ぎ時間は4時間ある。空港内の売店で小瓶のビールを2本買い、カウンターで飲む。日本円換算でおよそ1500円。日本ではビールなんて自分で買って飲むことはあまりないのだが、この旅行中は毎日のように飲んでいる。多分、気温と食べ物のせいだろう。あと、冷たい緑茶がなかなか売られていないせい。
しばらくしたら酔いが冷めてきたので、免税店で500㎖の缶ビールを買う。レジ店員は、一目でそれと分かる被り物をしたイスラム女性。彼女にとって、酒を売るのは不本意だろうけど、仕事だから我慢してくれ。私には今これが要る。店員は慣れているのか、無表情でバーコードを読み取り売ってくれた。5.25ユーロ。タリンのスーパーの3倍半の値段。
値札には5ユーロって書いてあった筈なんだけど、おかしいな、と思いつつ払い、蓋を開ける。缶をよく見ると、0.25ユーロがどうのこうのと缶自体に表示されていた。本体価格とは別に、環境保護かごみ対策かなにかの為に、0.25ユーロ上乗せされることになっているものと理解。
今度の代替便は全日空。「○○様、○○様、搭乗ゲートまでお越しください」待合ロビーに、外国人社員が話す、くせのある日本語放送が流れる。
そして搭乗。機内の放送も日本語と英語。機内食には白いご飯。そして、到着地での日本時間にああわせ、出発後しばらくすると機内の照明は落とされ、日本時間に合わせてみんな寝てくださいということだろう。時差ぼけにならないよう、眠る。
そして半日遅れで日本に到着。偶然とはいえ、代替便の到着空港が羽田になったのは有難い。
最後に残った心配があった。スーツケースの中にはリチウム電池を入れるなという指示が出ていたので充電器などは機内持ち込みとしたが、持って行ったノートパソコンをスーツケースに入れてしまっていたのだ。ノートパソコンのバッテリーとしてリチウム電池が使われているはず。無事にベルトコンベヤーからスーツケースが出てくるまで心配だった。
スーツケースを回収し、ツアー仲間に別れを告げ帰宅。風呂に入ったら、日本の暑さと湿気でふやけた肌から大量の垢が出た。滞在中も毎日入浴なりシャワーなり入っていたのに。
2024年09月07日(土) |
蒼天抗露(エストニア・タリン2日目) |
翌朝の朝食も同じ会場。会場には、大きなガラスの容器に入った牛乳が置かれていた。やはり、冷たい牛乳は朝にしか飲まないものらしい。そして、あの牛乳サーバーにあの後置かれた「使用不可」を意味すると思われる札は撤去されていた。昨日はさして気にも留めなかったが、牛乳サーバーのすぐ隣に給茶機が置かれていることにも気づいた。多分、あの牛乳サーバーは、コーヒーなり紅茶なりをカップに注いだ後に、ミルクコーヒーなりミルクティーにするためのものだったのだ。それならば、私が昨夜もし、私がコーヒーを注いだカップに、「牛乳サーバー」から少量の牛乳を注いでいたとしたら、私はきつい剣幕で注意されずに済んでいたのであろうか?
さて、共産時代に幹部を接待する為に建てられたというこのホテルの最上階には、当時秘密警察KGBが使った秘密の部屋というのがあり、公開されている。スタッフの説明付で事前申込制。添乗員氏にお願いし、フロントで申し込む。17ユーロ。日本円換算2500円。博物館としてはかなり高価な入場料だ。
ロビー10時集合なので、それまでの間、今日行く予定の場所までのバス乗り場と時刻の確認の為、地下のバスターミナルを下見することにする。バスは約20分おきに出ていることが分かったが、行先として書かれている地名が、ガイドブックには見当たらない。その地名の場所が目的地より先にあるのならいいが、もし手前ということであれば、途中から歩かなければいけないことになる。
バスターミナルに隣接して食品スーパーもあった。まだ時間があるのでお土産を買うことにする。レジを見ると、セルフレジと有人レジがあり、有人レジを選ぶ。女性レジ員、私の首元を見て、にやけた笑顔で「ティンティン」と言う。ウクライナ民族衣装に特有の、首元から伸びた紐の先にポンポンの付いた飾りが可愛いと言っているんだろう。で、その真意はおそらく「(男のくせに)可愛いらしい飾りね。」ということだろう。知らないはずないんだけどなと思いつつ英語で、 「これはウクライナ民族衣装。私はウクライナを支援しています。」 と言った。店員は笑顔だった。理解してもらえたらしい。ホテルチェックアウト後にもう一度このスーパーに立ち寄って、お土産を買い足そうと思うが、その際、またこの店員がいてくれればいいな、と思った。
さて、ホテル最上階のKGB博物館、20人あまりがロビーに集まった。説明は英語(ほかに、別の時間にエストニア語によるツアーもあり)。さて、この英語が、所詮、店で買い物をするのが精一杯の私の英語力では、固有名詞くらいしか聞き取れず、ほとんど何を言っているのか分からなかった。
展示自体は、当時の共産趣味満載のポスター類、室長の部屋、監視員の仮眠ベッド、盗聴器やガスマスク等の機器類、あとは、最上階からの市街の展望くらいしか見るものがなく、高額な入場料の割には正直、期待外れの内容だった。が、見なかったら見なかったで、せっかくの機会に何故見なかったんだろうと後悔した筈だから、それもひとつの思い出だろう。
ガイドの丁寧な英語の説明のおかげで、終了したのは11時過ぎ。(帰国便に乗るための)ホテルのロビー集合時間は午後4時。先程せっかくバスターミナルに下見に行ったが、不確かなバスではなく、タクシーを使うことに決める。ホテルの玄関先には数台のタクシーが客待ちをしている。「地球の歩き方」に掲載の地図を運転手に見せ、ペンで印をつけた場所に行ってほしいと英語で言う。
実は、目指す場所の正確な位置は私も知らない。「地球の歩き方」には掲載されていない。印をつけた博物館の隣に公園があり、その中にあるとネット上の書き込みで読んだだけ。
博物館はこの階段の先だよと運転手に言われ、タクシーを降りる。ピンクの外壁の博物館は、海沿いの道路から階段を上った見晴らしの良い高台にたたずんでいた。時間に余裕があったらこの博物館に立ち寄ってみてもいい。でも、最優先で見たいのはここじゃない。隣の敷地の公園ってどっちだ?博物館正面に対して右か左か?とりあえず右に歩いてみる。タクシーが通ってきた方向。
やがて、「歌の広場」と呼ばれる芝生敷の美しい巨大屋外スタジアムのある公園に行きついた。多分戻りすぎ、ここじゃない。「歌の広場」自体は歴史的には重要な施設である。リトアニア、ラトビアもそうだが、万人単位の市民がここに集まり、歌を歌うという伝統は、民族意識を高めることにつながり、それはソ連からの独立という悲願に寄与したはずだ。写真を何枚か撮って、来た道とは違うルートで博物館の方向に向かう。「歌の広場」とひとつづきの芝生の公園や、閑散として使われていない駐車場、工場の敷地の裏庭?のような場所を通過したが、とうとうそれらしき公園を見つけられないまま、ピンクの外壁の博物館まで戻ってきてしまった。
見つからなかった。優に30〜40分は歩いた。すでに時間は正午を回っている。博物館正面向かって左側を探すか?視線の先に、コンクリートのオベリスクのようなものが見えた。あそこ、公園?ゆるい坂道で高くなっていて、今いる場所からは分からないが、公園なのではないか?
200メートルほど続くゆるい坂道を登っていくと、芝生と、オベリスクのほかにも、コンクリートのオブジェがいくつか見えてきた。3つがワンセットになって芝生に佇むコンクリート製の十字架。これは、間違いない。この公園は慰霊の場になっている。ということは、この公園内にきっと目指すオブジェがある!
緩やかな起伏の先に、黒い塀が現れた。この塀の先は墓地にでもなっているのか?それとも?
行ってみると、塀の先は単に駐車場だった。そして、塀自体に文字がたくさん刻まれている。
これが、ネットで観光名所に関するコメントに書き込みされていた、シベリアに連行されたエストニア人に関する慰霊碑か?説明文には英語もあり、確かにそうだと分かる。
遠くからではわからないが、足元には棺を模した黒御影石の長方形の石が一列に並び、石にはソ連の地図が刻まれ、一点に印がつけられ、さらに人名らしきものが彫られている。間違いなく、印のついた場所で命を落としたエストニア人を示した慰霊碑だ。直線状の黒い塀は、さらに同じ高さで、擂鉢状の地形に向かって続いている。そして、そこには、目指すものがあった。
塀にブツブツとなにやら粒状のものが多数張り付いている。近づいてみると、そのひとつひとつは、蜂の形をしたオブジェだった。ついに辿り着いた!半年前、その意味とともに新聞で紹介されていた「蜜蜂のオブジェ」、石碑程度のものを想像していたが、まさかこれほど壮大なオブジェだったとは。差し渡し数十メートル、高さ10メートルはあるだろうか?擂鉢の底に観客席のように並べられた石のひとつに腰掛け、しばし感慨にふける。
塀の上部に、ESTI 1941-1990 と書かれている。エスティとはエストニア、1941−1990とはエストニアがソ連に併合されていた期間。その右側はcommi-で始まる綴り。英語のコミュニズム(共産主義)に相当する語だということは容易に想像できる。エストニア語はフィンランドと同様、印欧語族に属さない言語ではあるが、「共産主義」のような概念語は、英語(もしくはラテン語)からの借用語であるらしく、私にも意味が分かった。
さて、擂鉢の縁の部分に植栽としてりんごの木が植えられていた。こんな慰霊の地で、こんなことをして申し訳ないが、赤く熟していて、しかも、地面には食べ手がいなくて落ちた実がいくつもある。近くに人がいないので失敬。野球ボールよりも一回り小さく、牡丹杏程の大きさ。小さいがみずみずしくて美味い。
やがて中学生くらいと思われる学生の一段がやってきた。授業の一環だろうか?
帰りは、バスではなく歩くことにした。海沿いで、昨日までよりは暑さも少し和らいでいるし、海を眺めながらの広い歩道を歩くのは気持ちよさそう。それに、たとえ時間がかかっても、バスを乗り間違えて時間をロスするよりも確実。ピンクの博物館に立ち寄る余裕はない。
ゆるやかにカーブを描く海岸線の先に、尖塔がいくつも見える。中国語ではタリンに塔林の字を当てるが、まさしく言い得て妙だと実感する。海はほとんど波がなく、ところどころ岩が海面に突き出しているが、遠浅で、底が透けて見える。
途中、かつての露帝国が立てた石碑を通過する。石碑本体を取り囲む石のフェンスには、あの醜悪な双頭鷲の紋章が、壊されることもなくそのまま刻まれている。
砂浜の浜辺で、寝そべって日光浴をしている人々がいる。中学の美術の教科書に載っていた、フランスだったかの画家の作品そのままの構図。
自転車に乗った人に鈴を鳴らされた。地面を見ると自分が歩いている道は自転車専用道。完全な歩行者自転車分離方式だった。歩行者用の道に避ける。 その後、港湾地域を通過し、観光客が多い旧市街地に到着したのは2時半だった。1時間強。
昨日、ツアーでは行かなかった観光名所「ウクライナ教会」を目指す。この服で建物に入ったら、歓迎してくれるだろうか?「日本から来ました。ウクライナに栄光を!」と言ったら喜んでくれるだろうか? ところが、ガイドブックで示された場所に着いてみると、建物は工事中だった。残念。最後に朝のスーパーにもう一度立ち寄ることを考えると、時間的に、新聞記事で、「蜜蜂のオブジェの意味」を説明してくれていた館長のいる「ワバム博物館」は無理。
なら、旧市街地の「城壁」の上に上る観光が妥当。城壁の下に行き、まるでお化け屋敷の入口みたいな薄暗い受付で、「大人一人。いくら?」と英語で聞くが、聞くまでもなく傍らに4ユーロと書いてあった。石の螺旋階段を登り城壁の上へ。見晴らしもいいし風も気持ちいい。誰が始めたのか、手すりにリボンが結び付けられている。結ばれますようにとのおまじないだろう。この時代に生きる自分の性(さが)で、青と黄色がセットになって結び付けたリボンがないか探す。いくつかあった。きっとそれらは、ウクライナの平和を願って結び付けたものに違いない。
一度ホテルのロビーに戻り、既にロビーに集合している人に、「ちょっと買い物してきます。集合時間20分前を目安に戻ります」と伝え、朝買い物をしたスーパーに再度足を運び、追加でお土産、それに、飛行機を待つまでの間に食べる軽食、それにビールを買う。そういえばまだ、昼飯は食べていなくて蜜蜂オブジェのところの植栽のりんごしか口にしていない。残念ながら、レジの店員は朝とは違う人だった。
予定通り集合時間20分前にロビーに戻る。ツアーバスに乗り、今しがた買った缶ビールのふたを開ける。もっと効率的に回れば博物館を見る時間があったかもしれない。だが、蜜蜂のオブジェの実物を見られて、そしてそこが予想を超える「聖地」だったことで、悔いはない。終わった。これであとは帰国するだけだ。満足の行く旅だった。空港までは20分。バスを降りる前に飲み切らねばと、500㎖のロング缶ビールをぐいぐい飲み切り、ほろ酔いで空港到着。
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2024年09月06日(金) |
蒼天抗露(6日目)エストニア・タリン(1日目) |
朝食後ツアーバスに乗り、エストニアへ。 リガの町に別れを告げるが、川沿いにバスの車窓から共産アート剥きだしの像が見える。添乗員氏曰く、「1905年に起きた市民デモの記念碑です。」
1905年といえば日露戦争。当時の日本は、当時まだ帝政ロシアに支配されていたバルト3国の民族運動を支援することで、帝政ロシアを背後から揺るがし、戦争を有利に進めようとしていたことはどこかで聞いた。こんな共産趣味な像だけど、この像で表現された市民デモというのは、日本が秘密裏に支援したからデモという形で結実した可能性が高い。勿論、当時の日本としては、帝国支配下の民族に同情して支援したわけではなく、ロシアに勝ちたくて、後方攪乱してもらいたくて「投資」したに過ぎないんだけど。でも、それでも、日本が彼等当時の運動家に「投資」しなければ、そもそもデモは起こらず、鎮圧され犠牲者や逮捕者が出ることもなかっただろう。そしてこの像がここに立てられることもなかった。
全人口の3割が住む首都リガだが、30分も走ると道路沿いには物流センターが点在する郊外となり、やがて、見渡す限り建物が見当たらい畑、牧草地、平地林の繰り返しとなる。たまに池や沼が見えるが、水面にジャンプ台らしきものが設置されている。ラトビアではレジャーとして水上スキージャンプが流行っているのだろうか?
2時間走って国境。ガソリンスタンド併設の店舗があり、休憩。ここで、杉原千畝館で遭遇した、他社のツアーバスにまたしても遭遇。ああ、また会ったね。帰国日も同じなんだよねと会話を交わす。
さらに2時間走って首都タリン到着。旧市街の一番高い場所でツアーバスを降り、次第に下町へと降りていくという高齢者に嬉しい徒歩観光となっている。石積みの城壁や見晴らし台、アーチの門など中世の城歩きを楽しむ。(脚注6)
二の丸へと降りていく。坂道の途中にデンマーク国旗柄の盾をまとった騎士の立像があり、添乗員氏が由来を説明する。中世のある日、空からデンマーク国旗が降ってきて、だからこの都市は我々デンマークのものだと言ってデンマーク軍が攻めてきた云々。無茶苦茶な言いがかりだ。
石垣の下の地面に蕗が生えている。緯度では北緯60度近い場所でありながら、北海道に生えるような巨大なものではなく、関東あたりで見かけるのと同じサイズ。不思議だ。蕗が生えていること自体知らなかったが、北に行けばいくほど大きくなるはずの蕗が何故、関東あたりで見るサイズと同じなのか?単純に緯度だけでなく、年間平均気温とかが関係しているのか?そもそも、地元の人は蕗が食べられることを認識しているのか?知らないのなら一度食べさせてみたい。果たして顔をしかめられるのか、気に入ってくれるのか?
聖ニコラス教会。今では祈りの場ではなく博物館となっており、入場ゲートを通過して参観。ここには、世界史の教科書で「ペストの災禍」の説明の挿絵としてしばしば使われる「死の舞踏」が所蔵されている。髑髏と人が踊っている=死は常に隣り合わせ という強いメッセージを込めた絵。撮影可とのことで遠慮なく撮影。
一見すると一種の茶室?それとも聖徳太子の玉虫厨子(国宝。仏教に関する貴重なアイテムを収蔵するための、家を模した形の特別な容器)のようなもの?と想像したこの遺物は、説明を読んだところ「貴賓用洗礼室」 きっと、ゲティミナスのような異教の王とかがこの中に入って聖職者から水をぶっかけられたのだろう。
キリスト磔刑を描いた作品の額縁の更に外側に、壁に取り付けた門のようなつくりの装飾がある。その門柱の装飾が、まるでマヤ文明の神々を思わせる。様式化された、顔だけの奇怪なライオンと、それを取り囲む、極度に様式化された草木。これらは、主題である「キリスト磔刑」の絵を引き立たせるために制作されたことは想像に難くないが、何故このような奇怪な表現となったのだろう。
ほかにも、羽なしの天使が首だけの天使を踏みつけているように見える奇怪な構図の装飾用彫刻。天使の周囲は唐草模様。何を訴えたくてこういう表現になったのだろう?
振り返れば、仏教美術も、予備知識・解説なしでは一般人には理解不能なものが多い。どこかで解説なり予備知識を手に入れればきっと、これらキリスト教美術に関しても、制作者の思いを理解できることだろう。だって作ったのは人間なんだから。
そして、この博物館が教会だった時に、普段は折りたたまれ、御開帳の時だけ信者に見せたという祭壇画。ここでの添乗員氏の毒舌ぶりは冴えわたっていた。「この祭壇画を、庶民に見せるんですよ。偉い聖職者の一生だと言って。右の方には異教徒を処刑する場面が描かれているですよ。中世で文字も読めない庶民は洗脳されちゃうんですよね。異教徒を処刑するのは正しいことなんだ!ってね」
さて、大戦で尖塔が壊されたこの教会、いや、博物館は塔復元時にガラス張りのスケルトンエレベーターを塔に設置。中世宗教美術と石棺(石棺の蓋に彫刻が施されているため、いくつか展示されていた)に囲まれた空間と塔最上階を結び、見晴らしを楽しめる。このシュールなエレベーターの設置を考えた人、そしてその設計案を許可した人に拍手を送りたい。
二の丸の中央には広場がある。公共の水道の蛇口から水がポタポタと滴り落ち、下には受け皿が設置されている。どうもこれは小鳥の水飲み場として受け皿を置いているらしい。微笑ましい光景だ。
広場のそばにはアレがある。そう、露大使館。柵は抗議の掲示物でいっぱいだったが、以前テレビで見たときに見覚えのある掲示物もあった。テレビ放送が半年以上前だから、その時とあまり変わっていない印象。そして、歩行者の多い旧市街にありながら、やはり、リアルタイムで抗議している人を見かけなかったことは残念だった。
さて、ホテルの部屋は11階。窓が開けられる構造になっておらず、熱がこもって外より暑い。仕方なく冷房を入れる。
夕飯はホテル内にいくつかある食事会場でバイキング形式。今回この食事会場に案内されたのは我々20人足らずの日本人ツアー客だけなのに対し、白いエプロンをつけた給仕の若い女性の数が多い。食べた皿はすぐに片付けられてしまう。サラダを盛って、ドレッシングかけすぎたので、食べた後もう一回生野菜を盛って、皿底に残ったドレッシングで食べようとか考えていたら、給仕に速攻で持って行かれた。
添乗員氏、事前に我々に、「笑顔で接客ってのは日本だけです。スマイルに期待しちゃダメです。仕事なのに何で笑顔をふりまかなきゃいけないの?という意識です。特に、エストニアはフィンランドと同様、その傾向が強いです。」
今回の給仕の女性陣、ひときわ無表情、というか、まるで何かに不満があるかのように、皆むっつりしている。
ドリンクコーナーに、機械式の牛乳サーバーを見つけ、牛乳を注いでいたら、ひとりのむっつり女性給仕が、きつく注意する口調で私に向かって何かを叫ぶと同時に私から牛乳の入ったガラスのコップを奪い取った。そもそも言葉が分からないし、何故注意されたのか訳が分からない。ガラスのコップの隣には紙コップもある。「あなたは私にこのコップを使えと言いたいのか?」と英語で問い返すも給仕は無言。ミネラルウォーターのサーバーから紙コップに水を注ぎ、先程私から奪い取った、途中まで牛乳の入ったコップとともに、突き返すように私に渡した。そして、牛乳サーバーには立て札が立てられた。使用不可ということは分かった。しかしなんでそんなにも強い口調なのか?
こちらの国には「冷たい牛乳というものは、朝食にしか飲まないもので、夕食のお伴に冷たい牛乳を飲むというのは非常識な行為である」という文化的「常識」があって、彼女の目には私が「常識」をわきまえない野蛮人として映ったのだろうか?
正解は分からずじまいだったが、そういうことでなければ彼女の強い口調は説明がつかない。
(脚注6) 撮ったスマホ写真と旅行日程表によれば、訪れた歴史的建造物は順に 1,「トームベア城」、「地球の歩き方」でも「城」と書かれているが、実際のところ、旧市街の中に存在するひとつの「建物」で、役所として使われていたという説明だったような。入口にエストニア旗とともにウクライナ旗が掲げられていた。外から見ただけ。 2,ネフスキー聖堂。〜スキーという名称から気付く方も多いと思うが、ロシアが支配していた時代に建てられた露正教会。写真は撮っていない。本堂の中に入った。出口のあたりにはお土産が売られていて、イコン(聖画)とか売られていた。古代ローマのフレスコ画の面影が漂うイコン自体は好きだが、Zを支援してしまうことになるかもしれない買い物をする気はないので買わずに素通り。
2024年09月05日(木) |
蒼天抗露(5日目)ラトビア・リガ(下) |
まず、ギルド商館のすぐ隣の「占領博物館」に足を運ぶ。ガラス張りの1階外壁には、戦場でウクライナ兵士を撮った写真パネルがいくつも貼られている。入ろうとしたら様子がおかしい。出入口付近に人が滞留し、警報音が鳴り響いている。入口の改札システムのトラブルらしく、復旧まで入館できない状態らしい。後回しにして、「1991バリケード博物館」を目指す。
1991バリケードとは、民主化や独立を求めて広場に集まったラトビア人をソ連軍が鎮圧しようとした事件のこと。ひとことで言えば「天安門一歩手前事件」。幸い武力鎮圧には至らず犠牲者も出なかったことは当時新聞でこれに関する記事を読み漁っていたので覚えている。
多分当時の参加者と思われる初老のおじさんがひとりで受付に座っていた。無料だが寄付金箱が置かれており、小銭を入れた。ジオラマに仕立てられた当時のバリケードの様子や、バリケード内の様子を実物大で再現した部屋、ラトビア全土から参加者が集まったことを示す、市町村別抗議参加人数を示す地図などが展示されていた。当時の風刺画には、「鎌槌マークの戦車に乗った豚」なんてのがあった。今、露宇戦争で露兵が豚の姿で描かれているイラスト等を目にすることがあるが、既にこの当時から豚の姿で描かれていたんだということを知った。
何故当時のソ連はバリケードに戦車を突入させて鎮圧しなかったのだろう?やはりそれは天安門事件の後中国が世界各国から経済制裁を食らっているのを横目で見て、鎮圧に踏み切った場合の経済制裁を恐れたのだろう。世界は繋がっている。
次に足を運んだのが「軍事博物館」建物は石造りの寸胴な円塔。昔の火薬庫だったものを再利用したとある。入館無料。
入るとまず広間に置かれているのは、銃痕だらけでボロボロの車両。説明を読むまでもなく分かるが、ラトビアからのボランティアが物資を積んでウクライナの前線に行って、帰ってきた車両。続く展示室には等身大兵士パネルと良宇国旗。読まなくても分かる。ラトビアから参加した義勇兵で落命した者。次の展示室はNATOの紹介。
そしてその後は戦史とそれにまつわる資料の展示。
10数コマのイラストに簡単な説明文がついた手書きの「漫画」のようなもの。説明文は読めないのだが、これはシベリアに送られたラトビア人の抑留体験記だと分かる。日本で似たような場面を描いたものを見ているから。
そして、「地球の歩き方」で紹介されていた、「寄せ書きされた日の丸」があった。大戦後、ソ連占領下の樺太に置かれた収容所(樺太のどこなのかまでは記載されていない)で、日本人抑留者から託された戦勝祈願の日の丸を、荷車に積んだ麦の山に忍ばせて密かに持ち出し保管していましたという由緒の品。ソ連という共通の敵が奇しくもつないだ日本とラトビアの不思議な縁。
さて、例によって大きく育った樹木でいっぱいの広い公園を伝って、あの場所を目指す。木陰のベンチでパンをかじる。公共の施設の中庭に、10数本ものウクライナ国旗が林立しているのが目に入る。なんでそんなに林立させているのかと思って近寄ったら、その場所が、露大使館の窓からよく見える位置であることに気付いた。意図は良く分かった。素晴らしい。そして道路沿いにはネットで見たことのある抗議の掲示物の数々。「Put In」と記された首吊り台も、古びてしまっているが残っていた。ただ、リアルタイムで抗議している人を見かけなかったのは残念だった。
側面の別の建物の壁に掲げられた、髑髏プーチンを写真に収め、次の目的地KGB博物館へ。実際にKGBの建物として使われていた建物を再利用したもので、交差点にあるくせに、入口が通用口みたいな簡素な造りで、本当にここが入口?としばらく建物の前をウロウロしてしまった。通常展示と、事前予約者だけが見ることが出来るヤバい展示(拷問室とか処刑室とか)があるらしく、予約なしで行ったため、展示自体は物足りないと感じた。
KGB博物館から独立記念碑を経由して昼間トラブルで入れなかった占領博物館に向かう。独立記念碑、塔の先端で女神が手を頭上にかかげている姿が「地球の歩き方」には乗っているが、台座には、首に鎖が巻き付いて苦悶の表情の男達の像が彫り込まれている。言うまでもなく台座の男達が象徴しているのは独立に到るまでの自由への渇望、先端の女神が象徴しているのは勝ち取った栄光だが、現地の人の説明によると、話はそこで終わらない。女神が両手を掲げているポーズは、両手で乳児を持っていることを暗示しており、この自由と独立が子々孫々まで伝えられるようにとの願いを込めているとのこと。
この旅行中、私が着ていた服は、それぞれネットで戦時下のウクライナの縫製業者から買ったヴィシヴァンカ(ウクライナ民族衣装)(×2)及び、ヴィシヴァンカ風の刺繍のTシャツ(×4)。見る人が見れば「ウクライナを支援してます」とアピールしながら歩いているようなものだ。公園のベンチで一休みしていると、隣のベンチの女性が立ち去り際に私を見て「スラバ ウクライニ」(ウクライナに栄光を)と呟いた。反射的に合言葉「ヘロヤム スラバ」(英雄達に栄光を)と返す。ただ、私は彼女がどことなくよそよそしく、無表情なのが心にひっかかった。露宇戦争の余波で、人口わずか200万の国に数万のウクライナ避難民。彼等の存在は物価を押し上げ、逆に賃金水準を低下させる。その状態が既に2年超。彼女はウクライナ支援の必要性は理解しつつも、「ウクライナ支援疲れ」の状態にあって、それが、「スラバ ウクライナ」と私に声をかけながらも、無表情な態度になって表れたのではないか?
さて、占領博物館、トラブルは解消しており、すんなり入館。占領とは1940年のソ連による併合を指す。壁に掲示されているのはそれ以降にシベリアに送られた人の数。日本人でのシベリア抑留者と比べ、絶対数では少ないが、群馬県ひとつ分ほどのこの国の人口を考えればものすごい人口比でシベリアに送られたことが分かる。
そして、シベリアに送られた者達の経路。当然ながらベクトルが逆。親を連れ去られた?子供の絵も涙をそそる。シベリアで樹木伐採に使われた二人用大鋸。全く同じものを日本の博物館で見たよ。そしてここにも「日本」そのものがあった。漢字で氏名が書かれた布製眼鏡ケースとともに展示されている眼鏡。収容所で目が不自由なラトビア人捕虜が、食糧と交換に日本人捕虜から、かけていた眼鏡を譲ってもらったという説明。
実物の白樺の枝が飾られている。私には何故展示室に白樺の枝が飾られているのか、それが何を象徴しているのか、解説を読むまでもなく分かる。平地にいくらでも白樺が生えているこの国においても、日本と同様、白樺はシベリアの記憶の象徴となっているんだなということを知った。
壁に掲げられたラトビア国旗と、折れた旗竿にぶら下がる旧ソ連旗。壁一面に貼られた来館者からのメッセージ。付箋紙とペンが置かれていて、自由に記載して貼ることが出来る。いろんな国の人が書いていて、ウクライナを支援する内容が目立つが、中には「FREE TIBET」とか、「自由香港」とか書かれたものもある。占領博物館とは単に占領の記憶を語り継ぐ施設ではなく、独裁・抑圧に抵抗し、民主主義と自由を求める人々に勇気を与える施設だった。
ああ、こんなメッセージボードがあるなら事前にメッセージ考えてきたのに。 しばらく考えたが、考えているうちに時間が過ぎてしまうので結局何も書かずに館を後にした。
さて、目の前の道路を走る路面電車(トラム)に乗る。川向こうにはラトビア人が「恥の塔」と呼ぶ「ソ連軍勝利記念塔」跡地と、かつてシベリア送りされたラトビア人が詰め込まれた「貨車」がある。その後歩いてホテルに戻ればいい。時間はまだたっぷりある。
添乗員が渡してくれたメモには、系統表示1番又は5番に乗ると書かれている。信号のない片側3車線の交通量の多い車線を走って横切り、車線中央の島状の電停に辿り着く。着いてから気付いたが、実は道路の中央の電停には地下道が通じていた。
「こっち向きに走るトラムがきっと下り線(川を渡る方向行き)と思って乗ったところ、トラムは何故か川から離れる方向に進んでいく。きっと橋の高さに達する為に一度回り込んで助走しているに違いない。そう都合よく解釈するも、ついにトラムは中央駅前へ。うーんどうしよう。このまま乗り続けたら、時間はかかるけどやがて折り返し運転となるに違いない。
路線図を見ると、かなり郊外まで運行されていて、折り返すまで何十もの電停があり、非現実的だと判断するに至る。もう一度乗り直すにはまたカードを売店で買わねばならない。「せめて近くに売店のある電停まで乗って、覚悟を決めて一度降りよう。」降りてから電停一駅分歩いて売店に辿り着き、再度1回券を購入。確かに今回は1.5ユーロ。
路線図によればこの軌道上には1番のトラムしか走っていないはず。やってきたトラムの系統番号を確認せずに飛び乗る。今度は順調にもと来た軌道を戻っていく。川が見えた。ああ、やっとこれで川向こうに行ける。ざっと一時間のロスだ。トラムは川と並行に走る。朝立ち寄った中央市場を通り過ぎる。あれ、中央市場って、橋より南で、通過するはずないんだけど、まさかこのトラム、1番系統ではない?やがて、リガ初日にツアーバスの車窓から添乗員が説明していた「スターリン建築」のビルが近づいてきた。地図と路線図を見て位置を確認する。間違いない。今乗っているのは「7番」系統。さて、7番系統は適当なところで折り返してくれるのか?
地図上では小さく見えるが実際は広大な「ラトガレ公園」電停で、下車しようとするほかの乗客が私を手招きした。どうやらこの車両はここで終点ということを教えてくれているらしい。
地図で見ると橋からの距離はおよそ4キロ。もう一度売店でトラム1回券を買ったら、初めから5ユーロの一日券を買った方がお得だったということになる。それはなんか癪だ。もういいや、歩くか。予定通り一時間歩いて橋に辿り着く。夕焼けの橋は絵になる美しさ。川べりに立つビルの最上部が、ビルの幅と同じだけの巨大なウクライナ国旗パネルになっているのを見つけて撮影するも、これは逆光で絵にならず。
橋を渡ると、交差点の手前で「右折車両レーン」に差し掛かる。車両右側通行ではこの場合、車は前方からやってくる。しかし習慣で首を右後ろに向けて車の有無を確認してしまう。思えばこれが最初にトラムで行先を間違えた原因だろう。
北朝鮮が喜んで建てそうな巨大な台形のシルエットのビル。きっとこれは共産建築に違いない。近くまで来たら、ラトビア語で建物名が掲げられている。ラトビア語は印欧語の一種、だから多分この建物はきっと「ラトビア聖書協会」だろう。まあ、単に「図書」の意味かもしれないが。もし、これらの読みがあたっていれば、共産主義の偉大さを表現するために建てられたこのビルが今では、共産主義が否定した宗教のための施設として使われているという最高に皮肉なことになる。(後日、ラトビア人に写真を見せたら、これは国立図書館ですよとのことだった)
シーソーに腰掛けている姿の巨大な銅像がある。何か考え込んでいるような顔つきだが、三角のあごひげに頭頂部まで禿げ上がった顔自体はまさしくレーニンではないか。なんでまだここにいる?誰かこの像を青と黄色のツートンカラーに塗ってしまえばいいのにと思うも、後日ラトビア人にその写真を送ったら、ああ、彼はレーニンではなく、ラトビアの詩人レーニスですよ。とのこと。レーニンらしからぬ考え込んでいるような姿はそのためだったのか。
分岐を右に行けばホテルだが、まっすぐ「ソ連軍勝利公園」沿いを進む。この公園の奥に、目指す「恥の塔」跡地があるはずだ。公園は地図で見ても広大だが、実物は敷地の果てが見渡せないほど広大だ。「リガ」と都市名が記されたオブジェがあり、その先がゆるやかな丘になっている。丘まで行くと、池と、波打つような起伏で歩道と立体交差している自転車専用道。地図上の池は直線状の岸になっているように描かれているが、実物はゆるやかで自然なカーブを描いていてちょっと違う。塔を倒した後、一帯を再整備する際に形を変えたのだろう。そして自転車専用道の起伏はきっと、塔の残骸を埋め立てて造ったものだろう。そう考えた。自転車に乗った市民が気持ちよさそうに走り去っていった。おっと、ここは自転車専用だった。歩行者用の道に降りて、今度は、「貨車」を見つけに再び歩き始めた。
貨車は路面電車ではなく鉄道駅の前に置かれているという。ソ連軍勝利公園を出てその方向に行く。正確な位置を再度確認とスマホを開くも、通信用Wi-Fiが充電切れで、送ってもらった地図を開けない。ローカル線の駅舎らしきたたずまいの建物が目に入った。だが、線路が見当たらない。ということは駅ではない。日本庭園風の公園。例にもれずこの公園も大きい。きっとこの公園の端が線路と駅前になっていて、貨車も置かれているに違いない。公園の端は道路だった。道路の先に踏切が見えればそこまで行く価値はある。しかし何も見えない。とうとう辺りが暗くなってきてしまい、捜索断念。
暗くなったソ連軍勝利公園を、ホテルがあるはずの方角に向けて横断する。樹木が視界を遮り、ホテルの姿は直接は見えない。照明は少なく、ベンチにたむろする数人の若者の脇を、距離をとって通り過ぎる。もし彼等に悪意があった場合、単独の中年男なんて最高の獲物だ。しかも公園名からして、Zに帰属意識を持つ人がいても不思議ではない。そして私はウクライナ民族衣装姿。やがてホテルの姿が見えてきた。時刻は優に8時をまわっていた。ホテル内の売店で缶ビールを買い、昼間半分食べたパンの残りで夕食とした。
2024年09月04日(水) |
蒼天抗露(5日目)ラトビア・リガ(上) |
ホテルでのバイキングの朝食。今日は扁桃を見つけた。人生初の扁桃試食。味は桃そのもの。
今日の午後はツアーバスではなく、自力でホテルまで戻る必要があるので、ホテルを出てすぐのところにある売店で予めトラム(路面電車)の1回券を買う。2.5ユーロと言われ払ったが、後で周囲のツアー客に聞くと、1,5ユーロの筈。ぼったくられたね、と言われる。
ツアーバスで中央市場に向かう。倉庫のような建物の中が平屋の市場となっており、建物の外にも日よけのシートをかけただけの露店がひしめき合う。添乗員氏がぐるっと市場内を案内した上で、では一時間後に再集合、みなさん思い思いに買い物を楽しんでくださいと解散。ツアー仲間のうちの幾人かが露店の蜂蜜屋に集まっている。蜂蜜はなかなか使い切らないし、日本でウクライナ産のが買えるからお土産としては考えていなかったけど、腐るものではないし、せっかくだから買うかと、小瓶を2つ購入。「蕎麦の花」と「森の花」の2種。蕎麦の花の蜂蜜は黒い色をしており、独特のクセがあるそうでちょっと楽しみ。
向かいの店舗では何やら森から採ってきたと思われる、天然きのこが売られている。全体が鮮やかな黄色で、傘の中央が窪んでいて、ひだが垂生している。きっと美味しいんだろうな。でも持って帰るまでの間に傷んでしまうし、何しろ生鮮品は帰国の際に検疫ではねられる。残念だが素通りするしかない。
何としても買っておきたいのがチーズ。冬に手頃なワインのお供に塊をナイフでちびちびと切って食べるチーズはたまらない。できれば個性のあるのがいい。売り場を見つける。値札がついていて、20ユーロとか書いてある。多分1キロ当たりの値段なんだろうけど、これは、その場で塊を1キロ分に切り出して売りますということなのか、それとも、既に手頃な大きさに切り分けてあるものを秤に乗せて売るということなのか良く分からない。とりあえず前者の方式でも後悔しないように3種類だけ選んで現物を指差し、英語で「私はこれが欲しい。そして私はこれが欲しい。そしてこれが欲しい」と言う。店員は同じ場所に置かれている2種類のブルーチーズ(地が白っぽいものと黄色っぽいものがある)のどちらが欲しいのか聞いてくる。「両方!両方!」と答える。
これで4種類のチーズを手に入れた。販売方法は後者であり、ひとつひとつの塊は1キロより小さかった為、思ったより安かった。その後同じ店員からさらに3種類チーズを買った。うちひとつは山羊チーズ。日本で山羊のチーズを買おうとすると大体1グラムあたり10円する。円が弱くなったとはいえ、日本の半額以下であることは間違いない。
洋服なんかも売られている。ウクライナ支援もののTシャツとかないかなと品揃えをチラ見しながら通り過ぎるが、東京上野のアメ横の露店と同じで、センスと質が微妙な感じ。民族柄の幾何学模様を織り込んだ毛糸の靴下が売られている。これは洋服と違い、見た感じ品質はしっかりしているように見えるが、残念ながら今日も30℃を超えそうな勢いの気候のもとでは買おうという気は起こらない。
最初に添乗員に率いられて行列になって素通りした酒屋を探す。パッと見た感じ、蜂蜜酒(蜂蜜を発酵させた酒)が売られていたようだが、見つからない。確か6ユーロと値段がついていたんだよな。6ユーロなら是非買って初めての味を楽しみたいところだが、集合時間が迫り、諦める。
そういえば、昼飯用としてパンも買い込んだ。日本ではパン専門店でもあまり売られていないハードなライ麦パン。水に投げ込んだら沈むんじゃないかと思う程ずっしりと重い。多分おにぎり3個分くらい。
全員が集まるのを待つ間、どこからともなくかもめが舞い降りた。日本の、東京や横浜で見かけるそれに比べ、大きく、デブと言っていいほどどっしりとした体格。街は河口に面しているとは言え、潮の匂いなどしないというのに。
ツアーバスで旧市街へ。停車可能な旧市街沿いの車道でバスを降り、石畳の旧市街を歩く。歴史的建造物が至る所にあるが、それらのほどんどに、自国旗とともにウクライナ旗が掲げられている。添乗員氏、「はいっ、ここにもラトビア国旗とともにウクライナ国旗がかかげられていますね。でも、なにも自国の歴史的建造物にまでウクライナ国旗を掲げなくてもいいと思うんですけどね」
この国が過去にソ連に併合されて国を失った歴史を知らないはずないのに、添乗員氏、この件に関してだけは本当に心魂が曲がっている。
歴史的建造物が3つ仲良く並んでいる「3兄弟」、石畳の上にストリートミュージシャン、というか、楽器を持った2人の老人がいて、日本人観光客の一団に気付いたのか、なんと「君が代」を奏で始める。異国の街角で思いがけず聴くことになった君が代。お礼に、石畳の上に逆さになって置かれている帽子に小銭を投げ入れる。
かつてバブル期に海外に行った日本人観光客がよく遭遇したという絶滅危惧種「絵葉書売り」が現れる。
「エハガキ、2ユーロ。ドレデモ2ユーロ。」
私達が興味を示さないと悟ると、今度は別の外国人観光客に、その国の片言の言語で話しかけていた。そもそも写真はスマホでいくらでも撮れるし、絵葉書を郵便で誰かに送るなんてことも自分自身何年もしていない。世界中の人がそうなんだから、このおじさん、この商売で食っていけているのだろうかと心配になる。同情心で買ってあげようかという思いが脳裏をよぎるが、でも使い道のないものはやっぱり要らない。ごめんなさい、おじさん。
そして、初日から数えると何度目かの大聖堂。添乗員はよく勉強しており、ステンドグラスの説明で、左側はドイツ騎士団による占領を、右側はスウェーデンによる占領を描いているという。ほかには、本堂内に置かれた錆び付いた大きな鶏の像について、本来大聖堂の屋根にあったものがソ連占領期に持ち去られ、何故か後にモスクワ郊外で捨てられているのが発見されたという逸話。しかしこの大聖堂は本堂そのものより、断然中庭が面白かった。
どこかで発掘されたと思われる何かの遺物が無造作に並ぶ。最初にあったのは直径1メートルあまりの皿状の石。変な形をした魚が彫刻されている。(ラトビア人の話では、その魚とはチョウ鮫ですとのこと)そして、誰がいつ何の為に彫ったのか見当もつかない人面岩。現実の人間の顔よりはるかに大きな大岩に不細工で歪んだおっさんの顔。顔だけ。少なくとも偉人を顕彰しようとして彫られたものでなさそうということだけは想像できる。やはりこれが一番不思議。(後日、写真を見てもらったラトビア人の話では、キリスト教伝来前の古代の彫刻とのこと)
そして極めつけは、かつてこの大聖堂のどこかに取り付けてあったものを取り外したものと思われる、鋳物で作られた双頭鷲の紋章。世界中の全ての双頭鷲のオブジェがこうなって欲しい。
中世のギルド商館の建物に面した広場で徒歩ツアー終了。ここで添乗員付きのオプションツアー組と、フリーとに分かれる。一昨日は、途中までフリーのうちの数人でまとまって行動したが、今回は自分の行きたいところだけを確実に見て回る為、ホテルに戻るまで完全単独行動。
2024年09月03日(火) |
蒼天抗露(カウナス:杉原館、シャウレイ:十字架の丘) |
3日目のことを記す前、昨夜ツアーバスで夕食からホテルに戻ってきた後のことを書かねばなるまい。
昨日、スーパー前での中年女事件の後、ホテルとは信号を挟んだ向かいにあるというのに、スーパーには行っていないままだった。
でも明日の朝はツアーバスでホテルを後にし、もうこのホテルに戻ってくることはない。しかも今日の観光ではどこにもお土産屋に立ち寄らなかったし、何も買わなかった。何としてでも買い物をしなければ。添乗員氏に、ホテルに戻ったらスーパーでの買い物にお付き合いしていただけませんかと申し出た。私も行きたい!と周囲の数人も手を上げた。菓子売り場を見ると、首都ビリニュスの名が記されたチョコレートが目についた。個包装になっていて、ひとつの大きさも職場で配るのにちょうどいい。しかも、30個の個包装がひとつの大箱に収まっている。ほかにもいくつか菓子を買ってレジへ。レジは自分でバーコードセンサーに商品のバーコードを当ててピッとやるセルフレジ方式。
ここでトラブル発生。先程のビリニュスチョコ、大箱についているバーコードをセンサーに読ませても反応しない。レジ待ちの地元の人々の行列が長くなっていく。きっと、「あの外国人なにモタモタやってんだよ」ってなことを思っているに違いない。添乗員氏に助けを求める。添乗員氏は店員に事の次第を説明し、店員もバーコードを読ませようとするも反応せず。
おもむろに店員は大箱を開け、個包装についているバーコードを読ませ、レジに×30と打ち込んだ。大箱が開いた状態のビリニュスチョコがかごに入れられ、会計は終わった。バラバラにならないように大箱に密封された状態で日本まで持ち帰りたかったのだが、自分の語学力と、レジ待ちの行列とを考えると、これで良しとするしかなかった。ホテルに帰ってから、雑に開封された大箱ごと大き目のビニール袋に入れて、一個一個がバラバラにならないようにしてスーツケースにしまった。
さて、翌日。このホテルの朝は昨日と同じバイキング形式だったが、そのことについても書かねばなるまい。
当然白米なんてものはないが、麦を牛乳で煮たミルク粥があった。これはレストランでの高カロリー高脂肪の食事を中和するのに役立った。それと、日本では見かけない果物に目をひかれた。白い外皮の夕顔のように見えるものは大きな真桑瓜だった。さっぱりと控え目な甘さで、水分補給にもなり良い。茄子くらいの大きさと形の洋梨。どういうわけかどれも形が少しねじれている。まるのままかごに入っているので、食事用のナイフで4つに割り、すいかを食べるようにして外側を残して食べる。その食べ方であっているのかどうかわからないが、味は確かに洋梨だ。りんごは牡丹杏ほどの大きさ。これもまるのままかごに入っているので、農薬など使われていないだろうことを信じつつ皮のままかじって食べる。日本で普段目にするりんごは、どれも品種改良で大きくなりすぎで、本来りんごとはこのくらいの大きさの果物であるらしい。 そういえば日本ではほどんど売られていない「サワークリーム」(脚注3)の入った壺が、ジャムの入った壺とかの隣に置かれていたのでパンに塗って食べた。バターやマーガリンより健康に良さそうな感じ。
さて、朝食後、荷物をまとめてツアーバスに乗り込み、旧都カウナスを目指す。家々の屋根より高く育った街路樹に囲まれるようにたたずむ住宅街の一角に杉原千畝館があった。入館後すぐに映写室に案内され、15分くらいの紹介ビデオを鑑賞。上映終了後、ここでの土産をリクエストされているのでお土産コーナーに直行。リトアニアのキーホルダー3個、スギハラハウスと彫られた陶製の鈴は手頃な値段だったのですぐ買った。壁に記念Tシャツがかかっているが、ただのプリントTシャツなのに29ユーロ。腕組みをしてしばらく迷うが、同じく20ユーロ近い価格のマイバッグ(買い物袋)とともに購入。買い終わったらもうバスの時間ぎりぎりで、展示を閲覧する余裕はなくなっていた。そして、入れ替わるように別の日本人観光客の団体がやってきた。他社のツアーで、8日間という日程も、帰国予定の日時も同じとのこと。彼等とはその後も何度か顔を合わせることになる。
その後、カウナス市街観光。キリスト教伝来以前の自然崇拝の寺院との説明の煉瓦造りの建物。一見教会のような建築だが、屋根の上に十字架はなく、細部の装飾が見馴れない造りとなっている。
これも建物の中までは入らないが中世のお城「カウナス城」を見学。現在では窪地となっているお濠の芝生を、芝刈りドローンが行き来しているのが印象的だった。そしてカウナス大聖堂。これは中まで見学。一応写真は撮った。その後ツアーで予約済みのレストランへ。
ここの名物はじゃがいも団子。団子と言っても形はぎょうざに近い。生を摺りおろしたじゃがいもに恐らくは小麦粉を加えて練ったもので挽き肉を包んだ代物。まさかの冷製ボルシチの前菜の後にこれが出た。皿の上には2個しか載っていないのだが、これがものすごく腹にたまる。食後バスに戻ったら、他のツアー客から、「よく完食しましたね。完食したのあなただけでしたよ」と言われた。味は悪くなかった。ただ、ツアー客の中にはじゃがいものカロリー爆弾ぶりに参っている高齢者もいる。
そしてバスは抗露の聖地シャウレイへと向かう。車窓に映るのは畑、針葉樹と白樺の混じった林、そして日本だけの問題ではなかった耕作放棄地。人家はほどんどない。2時間平原を突っ走って聖地シャウレイ到着。駐車場に面してお土産屋があり、まずここで木製の十字架を買う。(別に買う義務はない)買うと店主がサインペンを手渡そうとする。願い事を十字架に記すために。「ノーセンキュー。アイハブアペン!」持参したサインペンで日本語と英語で縦と横に「ウクライナ勝利!」と書きにっこり笑って店主に見せつける。店主も笑顔。中学の英語で真っ先に習う「アイハブアペン」、実際に使う場面などないとしばしばこき下ろされるが、ここでは見事に役に立った。アーチをくぐり、世界遺産「十字架の丘」へ。ほどよく近づいたところで一礼し、「ウクライナに勝利を!」と願う。丘は想像していたより小ぶり。先程購入した十字架を丘の隅の地面に突き刺し、再度祈る。そして写真を撮りつつ丘の頂上まで行って戻る。滞在時間は長くない。最後にもう一度丘に向かってウクライナに勝利をと願い丘を後にする。
バスはまたしても人家のほとんどない畑、牧草地、耕作放棄地、針葉樹と白樺の林を突き進み、やがてラトビアとの国境に辿り着く。昔の国境検問は廃墟となっており、その脇のドライブインでバスを降りて休憩。ここで立ち寄ったトイレに備え付けのトイレットペーパーが面白かった。壁に対して平行の向きにペーパーが取り付けられており、更に小さな穴からペーパーを取り出す造りになっていた。
その後もバスはほとんど人家のない畑、牧草地、耕作放棄地、林を走り抜け、人家が増えてきたなと感じてから30分ほど走って首都リガのホテルに到着。ホテルで夕食。夕食そのものはツアーに含まれているが、例によって酒は別払い。5ユーロのビールをカウンターで頼み、ツアー参加者と乾杯。就寝。
2024年09月02日(月) |
蒼天抗露 (3日目 ビリニウス) |
ホテルでの朝食(バイキング形式)後、ツアーバス集合。
バスに乗り、新市街中心部近くの桜公園を案内される。杉原千畝の功績を讃え、川沿いに多くの桜が植樹され、記念碑が立つ。只、今回の添乗員氏、少々斜に構えてひねくれたところのある人物で、「ヨーロッパ人は内心、邪魔なユダヤ人にいなくなって欲しかった。ナチスのせいでユダヤ人が街から消えて、しかもその悪行は全部ナチスのせいということになって、自分達は汚名をかぶることなく「始末」できてせいせいしているというのが内緒の本音。だから実は明日行く記念館もそうだけど、地元民は杉原千畝のことは、今のように有名になるまではあまり関心がなかった」
この公園の少し背後の高層ビルの最上階に、ウクライナ旗と、「プーチンよ、ハーグ(の国際裁判所)は待っている」とのメッセージが掲げられていて、そのことは以前新聞記事で読んで知っている。添乗員氏もそのことに触れながらも、露宇戦争についてはかなり冷めた目で捉えている印象。今日はリトアニア人現地ガイドも同行しているのだが彼は逆に熱心なウクライナ支援者。私のザックに貼り付けてあるNAFO(脚注1)ステッカーを喜んでくれ、「俺は毎月ドローンのための寄付を続けている」と語ってくれた。そんな彼、英語でロシアがいかに非道かを熱心に添乗員氏に語るのだが、添乗員氏は全部を翻訳しない。現地ガイド氏の口からチェチェン〜という単語が出てきたが、添乗員氏から、それはしゃべらなくていいからと遮られ、訳が語られることはなかった。現地ガイド氏は何を伝えようとしたのだろう?今、カディロフの下でプーチンの飼い犬のようになっているチェチェンだが、そうなる前は、実はプーチン自作自演と言われるアパート爆破事件をチェチェン過激派の犯行に決めつけられた挙句、首都を瓦礫にされたりしている。普通の観光客がリトアニアに来て、かつてのロシアのチェチェンでの悪行の話を聞かされても確かに当惑するだろうことは想像に難くないが、私は、彼が話そうとして遮られた続きを聞きたかった。
聖ペテロ・パウロ教会という教会に到着。入口脇に白黒の大きな写真が掲げられており、今、真の前にあるのは再建されたもので、写真にあるオリジナルはソ連支配下の宗教禁止政策で破壊されたことを知る。
ペテロ・パウロと言われてもキリスト教における聖人ということ以外知識のない我々に添乗員氏は、「分かりやすく言うと、ペテロは観音様、パウロは風神雷神といった存在ですね。」うん分かりやすい。風神雷神は不動明王と言い換えてもいいかも。
バスが通れる広い道を選んで市内中心部の広場に到着。この都市の礎となったゲティミナス王(脚注2)のかっこいい像が立つ。添乗員氏は石畳の一角にはめ込まれた、マンホール程の大きさの標識を案内。それは当時まだ10代だった私に、希望の21世紀を予感させてくれた「人間の鎖」の起点を示している。標識の上で3回回って願い事をすると叶うとの談で、ウクライナ勝利を願って3回回った。
大聖堂の前の石段には、コップを手に持って座り込み、絶え間なく前を通り過ぎる人々に頭を下げる物乞いがいた。見た感じそんなに年寄りでもなく、その気になれば働けそう。単独のようだが得てしてこうした輩はペアになっていて、施しをしようと小銭を出そうとした隙に人々に紛れているもう一人の実行犯がスリに及ぶという事例を聞くので、見なかったことにして建物に入る。
見上げる天井、壁を飾る像や絵画。それはそれで想定内の範囲で素晴らしいが、ここで想定外のものを発見。なんと「キリストの手の骨の一部と伝わるもの」がガラスのケースの入って展示されていた。まさしくこれはキリスト教版「仏舎利」ではないか。聖書ではキリストは「生き返って天に昇っていった」と書かれているから、論理的に考えれば遺骨の存在それ自体が聖書の記述を否定していることになる。本家「仏舎利」も、世界中からそれと伝わるものを全部集めると象一体分程になってしまうと言われており怪しいものだが、結局、信じる神がなんであろうと人間というものは、こうした「遺物」を、作り出してでも有難がってしまうものらしい。
次に旧市街地を訪れる。車両通行禁止の石畳の道に多くの飲食店が並ぶ。添乗員氏の話では、コロナ前はお土産屋が多かったが、全部潰れてしまったとのこと。ツアーで予定されていたレストランに入る。地下に案内される。昔はワイン蔵か何かに使っていたのだろうか?地上部分よりも地下の方が広く見える。もしかしたら、天井の上は店ではなく石畳の道なのかもしれない。前菜のサラダに続き、ツェペリナイ(リトアニア風水餃子)が供される。水餃子のクリーム煮込み。嫌じゃないけど、水餃子は透き通ったあっさりしたスープの方がいいね。
さて、食事の後は、オプションツアー組と自由行動組に分かれ、オプションツアー組は、添乗員氏とともに郊外のトラカイ城へ。トラカイ城は以前(10年くらい前)テレビの旅行番組で見た。堀と石垣で囲まれた、世界のどこにでもあるありふれた城。別に見る程のものではない。同席した英語達者で旅行前の下調べも万全というパワフル定年退職者を中心とする3人についていく。パワフル定年退職者が向かったのは、この国の最高学府ビリニュス大学。部外者でも構内に入れる。ガイドブック「地球の歩き方」に乗っていた壁画・天井画を見るが、自分的には「?」という感想。古い資料と当時の室内装飾が施された部屋も見たが、これも「ふーん」という感想。構内にたまたま日本人学生がいて、同行者の誰かが話しかけたところ、「日本人がいない環境で勉強したくて、英語で受験して入学しました」とのこと。偉い。
次に向かったのは「リトアニアにおけるホロコースト記念館」パワフル定年退職者の話では、事前に休館日ではないことを確認したはずだったのだが、入口の扉には「臨時休館日」を意味する張り紙。扉にはウクライナ支援を意味しているであろう張り紙があったのでそれを記念に撮って退散。
次どこに行こうかという話になり、ゲティミナス王の砦に行くことになる。砦は60メートル程の丘の上に立っており、麓から上まで傾斜エレベーターが通じているのだが、それもたまたま運休日。上まで行くのは諦めようという者もいたが、結局4人そろって歩いて登ることに。砦へと続く歩きにくい石段、以前夢で見たような気がする。もしかしてこの砦に来たのは必然?ゲティミナス王、俺を呼んだ?
山頂にこぶのように立つ石づくりの見張り台は、傾斜エレベーターと同様、定休日のようで中に入れなかったが、砦の石垣の上からの眺めは良く、何枚も写真を撮った。
さて、この時点で既に3時半。パワフル定年退職者に今までの礼を言って別れ、一人丘を下りバス停へ。何としても見に行くべき場所に足を運ばなければ。
しばらくバスを待っていたが諦めて歩くことにする。地図を頼りに川沿いをひたすら歩き、その後庭付き住宅街のような場所を歩くこと1時間半。もう諦めてホテルに戻ろうかという時になって、公園の向こうに見覚えのある横断幕が見えた。辺りにはベンチに座る一組の男女がいるだけの場所。 露大使館前の狭い道路に、2022年以降ビリニュス市は「ウクライナ英雄通り」と名付け、辺りには抗議の横断幕やプラカードが貼られた。ただ、この場所自体が都心から離れた不便な場所にあるせいか、リアルタイムで抗議に訪れている人はおらず、また、かつて報道やネットで見たときと、風景そのものは変わらない。撤去こそされていないものの、見た感じ、新しいプラカードはなく、色褪せたり、下を向いてしまっている状態。「血の池」も撮影。ただの大き目の池なのだが、2年前、露への抗議として、食紅で赤い色に染めたことがニュースで報じられた池。今ではただの池に戻り、静かで波紋ひとつない。
さて、時間がないので写真を撮り終わると早々に現場を後にする。ホテルまで直線距離で5〜6キロ。郊外行きで本数が限られている行きと違い、帰りは中央駅に向かうバスに乗りさえすればいいのでバスの本数は多い。一本目の前で逃したが、幸い10分後に次のバスが来た。実は、「地球の歩き方」には、「バスに乗るには事前にバスカードを買って車内でセンサーにタッチする。カードを持っていない場合は現金で2ユーロ」と記されており、乗車後、ワンマン運転手のところに行って英語で声をかけ、2ユーロを渡そうとしたが、運転手は難しい顔をして首を横に振るばかりで現金を受け取ってくれない。そもそも現金を入れるための料金箱すらバスの中にない。中央駅でバスを降りる際に再度運転手に、2ユーロを見せつつ現金しか持っていないと言ったがまたしても顔を横に振るだけ。無賃乗車になるが、諦めてそのまま降りた。
中央駅前から走ったが、集合時間6分遅れでホテル前に到着。添乗員氏は、集合時間に遅れたら置いていきますよとツアーの始めに全員に言っており、覚悟していたが、幸いまだ待ってくれていた。添乗員とツアー参加者に詫びて、ツアーバスで夕飯会場へ。
まるで微細な氷が中に入っているような舌ざわりのビールが美味かった。 食後にお茶かコーヒーか選択できて、さらにお茶は紅茶か緑茶か選べるとのこと。ただ、添乗員氏曰く、「緑茶」は日本人が考える緑茶とは違いますとのこと。気になって緑茶を選択。緑色に茶色を混ぜたような濁ったお茶がカップに入って供された。
味は、「もし日本でこのお茶が売られていたら、多分同じお茶は二度と買わない」
(脚注1)NAFO ナフォーと読む。ウクライナ支援のためにいろいろな国から素人が集まって自然発生的にできた支援団体。(ステッカーはなにがしかの寄付をするともらえる。)
(脚注2)ゲティミナス王 日本で言うと、鎌倉時代〜室町時代の間くらいの年代。この王の時にリトアニアはキリスト教受容。ネット上でこの王のことを調べると、受容の過程が面白い。これこれをしてくれたら洗礼する→不都合なことが起こったから洗礼の予定は延期する。 こんなことを何回か繰り返したらしい。誰かに似ているな、誰だったっけと思って記憶を手繰り寄せたら、戦国大名の「大友宗麟」を思い出した。テレビ番組で、宣教師から「大砲」「硝煙」といった、戦国時代を生き抜くための軍需物資を手に入れるための「交渉カード」として、「洗礼するする詐欺」を何度も繰り返したとされる。最終的にカードを切って洗礼したけど、それまでに何年も(ひょっとすると10年以上)かかっている。
多分、ゲティミナス王も、キリスト教受容がもたらすプラスの面とマイナスの面を冷静に天秤にかけた上で、自分とその国が最大限利益を得られるように、最善のタイミングで有効にカードを切ったのだろう。
2024年09月01日(日) |
蒼天抗露 (バルト三国+α周遊記)1〜2日目 |
半年前に申し込んだ「おひとりさま限定・バルト三国周遊ツアー」
露宇戦争の行方如何では現地への飛び火もあり得、催行中止の可能性もゼロではなかったが、無事に出発日当日を迎えることが出来た。
集合時間夜8時だが、台風で成田までの鉄道が乱れていることもあり、早目に集合。自分が最初にスーツケースを預けた気がするが、あとで聞いたらもっと早く来ていた参加者がいたらしい。お一人様参加限定ツアーということで、てっきり自分と同様の境遇の、中年独身未婚者が多いものと想像していたが、来る人来る人定年後の高齢者が多い。俺より若いのは1人か2人か。添乗員も想像と違って50代。今、人気書となっている過酷な労働実態を書いた本「派遣添乗員ヘトヘト日記」のモデルになれそうな感じ。
ポーランド航空、二度目の機内食、何故か自分だけ早く、他乗客と違う機内食を配られた。何らかの配慮(アレルギーとか宗教とか)が必要な乗客と間違えられたのではないか?本当に必要な乗客はどうしたのだろうか?
乗り継ぎのワルシャワ到着。空港はガラスを多用した、現代的で明るい造り。乗り継ぎ時間5時間待ちを利用して、短時間だが市内観光がある。ツアーバスから見た景色の印象としては、まず、並木(街路樹)がでかい。高さ3〜4階建てくらいある。余程生育条件が合っているのだろう。なにかの敷地内に一本立ちしていた白樺の木が高さ30mくらいあって、いままで生きてきた中で一番でかい。ツアーバスの中から写真を撮ろうとスマホを向けている間に通り過ぎてしまい、撮れず。
ツアーバスを降り旧市街地観光、現地は早朝で人は少ない。旧市街地の赤煉瓦造りの城壁、キュリー夫人の家などを見る。
歩道に特設展示がされている。「1944ワルシャワ蜂起」 後日調べたら、「ナチス占領下ワルシャワで、郊外に陣取るソ連軍に加勢の約束を取り付けた上で一般市民が武装蜂起したが、頼みのソ連軍は動かず、ドイツ軍に返り討ちに遭い、多数の市民が犠牲になった上に、街も焼け野原にされた」という事件。味方に対しても約束を守らないロシア・・・。
空港に戻る。何か飲みたくなったので空港内の売店を見るも、500ml入コカコーラが日本円換算で500円近い値段と知り、買う気が失せる。同行のツアー客も「コーラごときに500円はちょっとねえ・・・」
ビリニュスに向かう。窓際ではないが、下界は見える。市街地を抜けると、道路沿いに家が、そして家の背後に短冊状の農地という、モザイクのような景色が果てしなく続く。ビリニュスに近付き飛行機が高度を下げると、短冊状のパターンは消え、平地林と農牧地の不規則なパターンとなる。都市はらしいものは見当たらず、村レベルの集落すら視界に入ってくるのは稀。
70〜80人乗りの小型機からタラップで地上に降りる。空港建屋までのバスはなく、歩いて空港建屋に向かう。ツアーバスに乗りホテルに案内され、夕食までご自由にとなる。道路を隔てた向かいはスーパーとなっている。お土産でも見てみるかと思うも、日本語が一切通じないことが分かり切っているスーパーに入るのは心細くもあり、とりあえず駐車場で煙草に火を点けたところ、何やらただならぬ気配で中年女性が俺に向かって声を上げて近付いてくる。もしやこの女性は地域パトロールの監視員かなにかで、この場所での喫煙を咎めているのか?もしかして罰金でも請求されるのか?
慌てて地面で煙草をもみ消し、立ち上がって改めて女性を見ると、女性の片手にも火の付いた煙草。ということは、明らかに、女性が私に近づいてきた理由は、この場所での喫煙ではない。では何の目的?
怒鳴り声を私が理解できていないことに気付いた女性は、自身の大きな腹(ただの中年太り)を指差し、ベビー、マネーと片言の英語を発してきた。
女の目的を理解した。「私は妊婦だが、お金がない。金を寄越せ。」
信号が青になったのを見計らって走って信号を渡り、後ろも振り向かずホテルに駆け込んだ。
しかし、他人から金をせびるのに、どうしてあそこまで高圧的なのか?リトアニア人というのは、実はやばい民族なのか?こいつは実は残留露人なのではないか?リトアニア語とロシア語の聞き分けなどできない自分には検証できないけど、それなら納得がいく、と思った。
結局その後3時間あまり、夕食を食べに行くためにツアーバスに集合するまでの間、ホテルの自室に引きこもってしまった。
明日の午後はフリータイム。こんなんで単独行動できるのか?でも、絶対アレを見に行かなければ!
夕飯は、ツアー料金込みの料理のほかに、ほかの大半の参加者と同様に4〜5ユーロでビールを頼んで乾杯。裏ごししたじゃがいもをクリームかバターかなにかで伸ばしたスープが前菜に出て、フライドポテトと野菜の上に肉だったか魚だったかが乗ったものが主菜。デザートでケーキが出たはず。スープが見た目少量な割にカロリー高めなようで、自由に取って食べてください状態でテーブルの上に置かれているパンは一切れしか食べていないのに満腹。
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