蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2010年11月11日(木) AKB考

電池の日。十一月十一日、プラス(+)とマイナス(−)だからだそう。

ちらっと書いたAKBのこと。我が家のAKB歴は1年にも満たない。それまでは、みんな一緒に見える(区別がつかない)、また秋元康がなんかやってる、学芸会みたいだ、などとシラケた見方だったのだけれど。

それまでの「それ」というのは明確にはわからない。たぶん今年の春の「桜の栞」という歌を聴いたとき、おや、この子らはもしや?と心が動いたような気がする。「桜の栞」はおよそアイドルが歌わないような、いい歌だったのだ。女子校の合唱コンクールとかで歌うといいよね、としきりに相方に同意を求めた記憶がある。

みんな一緒に見えて区別がつかなかった子たちも、興味を持てば見分けがついてくる。AKB48は48人じゃなくてもっといる、とか、基本的なことからいろいろわかってくる。秋葉原のAKB劇場に行くほどではないけれど、AKBが出ている番組があれば見るし、新しい曲が出ればCD(+DVD)を買い、お風呂で歌う。あっちゃんやゆうこやさしこのブログも時々読む。そして熱狂的なAKBファン(特に男子)の様子をおもしろおかしく眺めては楽しむ(これはやや斜めな見方か?)。

我が家のAKBの楽しみ方が世間と比べてどうなのかピンとこない。私と相方でも入れ込みようが少し違う。私は相方のおこぼれで楽しんでいると言ってもいい。私は握手会には行かない。でももし握手会の券が5枚あったら誰と握手するかを相方と言い合って遊ぶことはある。CDを買うと1枚ついてくる握手会の券は、だから5枚あるなんていうのはもちろん「たとえば」の話で、こういうくだらないことを言い合って笑うのは何かと似ているなと思って、それが何なのか思い出せない。

売り方がどうとか金儲けだとか汚いとかいろいろ言われているけれど、気に入らないならそれに加担しなければいいだけのことで、彼女たちの「アイドルたるべく」健気な頑張りぶりは、それとは独立して楽しく、そして儚い。


2010年11月10日(水) ベランダいっぱいの植木鉢から続く

祖父は家の2階を取り囲むL字型のベランダいっぱいに植木鉢を並べていた。几帳面な祖父は毎朝の水やりを欠かさなかった。その几帳面さは植物の水やりだけでなく玄関前を掃き清めたり、朝食前に家中の床の雑巾がけを済ませていたことからもうかがえる。

幼い頃、夏休みやお正月休みには祖父母の家に泊まりがけで遊びに行った。転勤ばかりでいつも遠くに住んでいたから、私たちはその都度飛行機に乗ったり、高速道路を端から端まで延々と走ったりして祖父母に会いに行った。たまにしか会わないせいで私は緊張気味で、祖父母との交流を心から楽しむという気分にはなかなかなれなかったけれど、それでも今となって思い返せばおもしろいことがそこここに転がっていた家だったように思う。

2階の特に日当たりのいい四畳半程度の板の間が祖父の部屋だった。書斎と呼べるかどうか、机と椅子、本棚の大きいのと小さいの、それに植物用のスチール棚があって、それでもう部屋はぎゅうぎゅうだ。その部屋で一時期メダカを買っていたこともある。私はメダカがとても気に入って、気をよくした祖父はペットボトルにメダカを少し分けて持たせてくれた。

ベランダいっぱいの植木鉢で祖父が何を育てていたのか、実はあまりよく覚えていない。サツキとかクンシランとか濃い緑の和風のイメージがぼんやりと残っている。盆栽のようなものもあったかもしれない。長年の水やりでベランダの床や支柱は錆びてしまい、およそ20年後にひょんなことで私と相方がその家に住むことになったときには、歩くとみしみし音がするおっかないベランダになっていた。祖父は亡くなっていて、植物もとっくに処分され、もうベランダには何も置いていなかった。

祖父の植物好きは家族からはあまりいい顔をされていなかったはずだ。新しい鉢を買ってくればまた買ってきた、と呆れ顔をされ、いつまでやるんだか、とか、どこまで増やすんだか、とか、祖父に面と向かってではないけれど、祖母や叔母は似たような文句を口にしていた。通りに面したベランダでの水やりは通行人の迷惑にもなっていたかもしれない。そんな大人たちの意見を耳にして私は、おじいちゃんの植物好きは褒められたことではないのだな、と思い込んでいた。どうして植物が好きなのか、植物のどこに惹かれるのか、どうやって育てるのか、もっといろいろ聞いてみればよかった。そうしたら祖父は嬉々として話してくれたかもしれない。植物について自分から祖父に尋ねたことはおそらく一度もなかった。

祖父の影響なのかそうでないのか計りかねるが、父もまた植物が好きだった。父は祖父のことがあまり好きでなかったはずだから、意図的に祖父をまねしたのでないことだけはわかる。父は転勤のたびに母にさんざん文句を言われながらも増え過ぎた大量の植木鉢を持ってまわり、しまいには広い庭と菜園を手に入れるべく定年直前に田舎に引っ越した。そこで水を得た魚のように(!)好きなだけ花や果樹を植え、野菜を育て、自家製堆肥を作り、思う存分、土と戯れていた。それも1年ほどで病が見つかり、次第に何もできなくなってしまったのだけれど、最後にここに行き着いたのは父にとってはかなり幸せなことだったのだと思う。

ここ数年は病気とその介護に必死で、家族の誰も庭まで手が回らなかった。いつか落ち着いたら庭のことをしようとだけ心に決めて、季節がいくつも来ては去った。すっかり雑草だらけの無法地帯となった庭に、今やっと少しずつ手を入れている。庭に手をかけられなかった間、不思議と少しずつ植物への興味がわいてきた。祖父がもっていた植物愛とも、父のそれとも、たぶん違う、純粋な植物への興味だ。この庭を蘇らせたいという気持ちは確かにどこかにある。でももっと直接的に、土や植物に触れてちょこまかと動き回っていると、自分の内側にポッと明かりが灯るような感覚がある。うれしいような、くすぐったいような、あたたかい元気な気持ちになるのだ。このことに気づいてからというもの、遠くから庭が呼んでいるような気がしてならない。図らずも私もまた祖父と父に続く迷惑な植物好きの一員になるのだろうか。


2010年11月07日(日) 食べること書くこと

ずっとSPURに連載されていた江國香織『抱擁、あるいはライスには塩を』がついに単行本になった。連載は追っていなかったのでどんな話なのかは全然知らない。ぶ厚い。毎晩寝る前にだいたい1章ずつ読んでいく。時間が行ったり来たり、語り手が変わったりで、はじめの数行は頭の中に話を組み立てるのがやや難。それでも一度波に乗ってしまえばあとはスイスイといつものように読み進む。

SPUR11月号(だったか)にはプレミアム8の4人(井上荒野・森絵都・角田光代・江國香織)による女子会の様子が掲載されているらしい。買い損なったし、図書館のは貸出中だし、でまだ見ていない。そのうち忘れずに。

10月のプレミアム8『愛と胃袋』は4週ともおもしろく見た。江國さんはぐでんぐでんに酔っぱらってしまった、とおっしゃっていたように(かどうか本当のところはわからないが)、後半は写真が主で、他の回に比べて映像は少なめだった。撮ったはいいけれど使えなかったのか、それとも撮らなかったのか、撮れなかったのか。ノートにメモや構成を書いたりする場面もなくがっかりした。江國さんの時こそ見てみたかったのに。

井上荒野さんの回は期待以上に惹きつけられた。もちろん予め用意されていたとはいえ、そのまま物語になりそうな人たちとの出会いと井上さんの人柄がいい具合に混ざり合って、予定調和ながらいいものを見たと思う。秀逸なのは角田さんの回で、食事が最もおいしそうだったのもこの回であり、人物もすべて味わい深かった。時間をあけてまたじっくり見たい。


2010年11月06日(土) 慕っていたおばさんの死

昨日、佐野洋子さんが亡くなった。Yahooのニュースで見たとき、一瞬頭が真っ白になった。慕っていた知り合いのおばさんが亡くなった、そんな感じだった。

佐野さんは絵本「100万回生きたねこ」でとても有名だけれど、私にとってはエッセイの佐野さんで、『神も仏もありませぬ』や『役にたたない日々』を読んで佐野さんのおもしろさに出会った。

そして、私の父が病気になってがんじがらめの介護に悩んでから、佐野さんの本当の魅力に気づき、そのありがたさが身にしみた。いろいろ読んでいくうちにわかったのは、佐野さんのお父さんもおそらくは私の父と同様の病気であったらしく(当時はそこまで医学が進んでいなかったので正確なことはわからなかったようだが)、会ったこともない佐野さんに同士のような気持ちまで抱いた。

こんな知り合いのおばさんがいたらいいのに、と何度も思った。私の煮えきらない話を笑い飛ばして、元気づけてくれそうだったから。エッセイを読んでは、語り合っているような気持ちになった。もうこれ以上新しいお話は聞けない。とてもさびしい。

佐野さんが亡くなったとき、まっさきにもう一度読みたいと思ったのは『あの庭の扉をあけたとき』という物語で、なにやらこれが不思議な話なのだ。佐野さんは今頃はあんな感じの世界にいるのかもしれない。


2010年11月01日(月) 超然とスルメ

週刊プレイボーイの「まるごと1冊AKB」を探しに行ったアトレの本屋さんにて、絲山秋子の超然3部作『妻の超然』と、川上弘美の句集『機嫌のいい犬』を買う。「きのう何食べた?」の最新刊はまた今度にする。

普段イトヤマさんの日記を読んでいるから、この超然3部作は単行本が出たら買おうと思っていた。「妻の超然」「下戸の超然」「作家の超然」の中編3作が収められている。執筆後半は修行のようだった、ともおっしゃっていたけれど、どれもおもしろく読んだ。批評で注目されやすい「作家の超然」より「妻の超然」にひきつけられるのは、私もまた「妻」であるからだろうか。私は今のところまったく超然とする場面などないが、小田原のマンションの一室で、正座して今日のお題をこなす彼女の心持ちがわからなくもない。何の前触れもなくちょっと脅かし気味に、男はねえ、女がすべてわかっているということがわからない、らしいよ、と相方に言ってみる。え、こわーい、とかわいく返された。何やってるんだか。超然からはやはり程遠い。

川上さんのは過去に作った俳句をまとめたもの。俳句をやっている(いた?)のは知っていたけれど、作品は読んだことがない。句集は1ページに2句だけどーんと大きな文字で印刷されている。これを買うのかどうなのか少し悩んだものの、味わいがあるかといえば大いにあるので買うことにした。

川上さん特有のユーモアと言葉選びのおもしろさが好きだ。たった1行でこんなに情景が広がり、記憶が立ち昇るのだから、さすがというところ。適当なページをパッと開いて、1句読んでしみじみかみしめて味わう。スルメのようだ。本棚に1冊あるとおいしい。


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