蜜白玉のひとりごと
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2003年12月31日(水) |
パウンドケーキを焼く |
保坂和志『カンバセイション・ピース』をやっと読み終える。文章が頭に入っていかず、どこまで行っても物語の外側に置かれているような感じを耐えながら読んだ。どうもしっくりこない。いやいや付き合わされているとでも言えばいいのか。ときどき笑えると思ったのも、どうやら主人公の友人の大峯が野球を見ながら飛ばす野次のところだけだったらしい。そのことに気がつくのに分厚い本の3分の2を読まなければならなかった。
大峯の野次は三十年前の草野球のように長い。長くてオチがなくて、最後に「ヘッヘーッ」がつくのだが、「ヘッヘーッ」と言っているのは本人も気がついてないかもしれない。(p54〜55)
私はこの「ヘッヘーッ」のところで笑っていたわけである。これだけ長い話を書いて、保坂和志は読者にどんな世界を見せたかったのか、今の私にはさっぱりわからない。いつかわかるときがくるのだろうか。これから先もこんな調子の作品が続くのだったらちょっと困る。初期の作品の方がもっと素直でいきいきとしていた。あれこれ難しく考えすぎてわけわかんなくなっちゃったのかな、なんて考えてもみる。デビュー作『プレーンソング』が思いのほか気に入っただけに、最新作にがっかりするのはつらい。せっかくお気に入りの作家がまた一人増えるかと思ったのに。
午前中はパウンドケーキを焼く。こうばしい、いい匂い。休みになったらとたんにお腹がすくようになり、おやつがないととても晩ごはんまでもたない。パウンドケーキは私のおやつ。
午後からは時間がたっぷりあったので本棚の整理をする。今回はとりあえず本を捨てることはしない。ブックオフに売ったりもしない。今まできちんと縦に並んでいた本を、今度は横積みにして棚のスペースいっぱいに詰め込むことにする。もちろん棚の奥と手前で2列なのは言うまでもない。奥に入りこんでしまっても私にとってはあまり問題はない。どこに何があるか、ちゃんと覚えているのだから。むしろ本が日に焼けなくていいくらいだ。こうすると見栄えこそ劣るけれど、文庫だったら今の倍近くの量を詰め込むことができる。詰め込み作業が終わって余裕のある本棚を見たらうれしくなった。まだまだいくらでも読める!これからどんな本がここに収まるのかと考えると無性にワクワクするのだ。
昨日今日は絶好の掃除日和。南と西の窓を全開にして部屋の掃除をする。空中のほこりが光に反射してよく見える。ほこりは空気の流れに乗って、窓からどんどん出て行く。少しくらい寒くてもはりきって動いているうちに身体が温まってくる。爽快な気分。
部屋全体がだいたい片付いたら、次は机の上。一時保管用のカゴの中を整理する。このカゴにとにかく何でも入れてしまう。メモ、チラシ、カードの明細書、美術展や映画のパンフレット、次から次から出てくる。もらいっぱなしで返事が書けていない手紙やハガキ(ごめんなさい)、文芸雑誌のコピー、職場の歓送迎会の写真、友達から一枚だけもらった猫の絵の便箋、何かの取扱説明書、基礎化粧品の試用見本、あれこれ出てくる。NHKラジオのポルトガル語のテキスト、六本木ヒルズのガイド、昭和記念公園のサイクリングマップ、なくしたと思っていたボールペン、・・・。
用事がすんだメモは捨てて、まだなものは手帳に書き写す。カードの明細書はまとめて机の引き出しにしまう。写真は小さなアルバムへ。見つけたボールペンはペンケースへ。短期集中のポルトガル語講座は2004年3月22日からなので忘れないように目のつくところへ。捨てられないもの、分類できないものは再びカゴの中へ。これで量は半分くらいになった。
溢れかえっている本棚にも手をつけたいけれど、ブックオフに売り渡すのはもうやめたので、どうしたらいいものか。増えつづける本を何とかしなければ。そう思いつつ、今年もたくさん本を買ってしまった。来年もこればかりはきっとどうしようもないのだろうな。
27日から休みに入っている。1月5日まで。なんと、10連休。早く休みにならないかとうずうずしていたが、いざ休みになるとはたと気がつく。
さて、一体何をして過ごそうか。
祖母の家は都内と横浜だから、どちらも日帰りでじゅうぶんな距離。1日ずつあれば足りる。特に旅行などの大きな予定もなく、こっそりアルバイトをするわけでもなく、ただ時間ばかりが有り余るほどある。このままだと、だらだらと過ごしてしまいそうだ。
朝はゆっくり起きてきて適当に朝ごはんを食べて、簡単に掃除して、どこにでかけるでもなくおうちでごろごろ。本を読んだり音楽を聴いたりテレビを見たり。お腹が空いたらお昼ごはん。眠くなったらお昼寝。そしてまたお腹が空いたら今度は晩ごはん。外に出るのはマロの散歩くらいで、出かけてもせいぜい最寄駅。日に日に狭くなる私の行動範囲。
ああ、それにしても、有意義な休日の過ごし方ってどんなものなんだろう。そう考えると、どんなふうにでも自分の好きなように過ごせばいいんじゃないか、なんて、また答えが出たような、それでいて考えなくてもわかるようなことしか思いつかない。
お金があればねえ、なんてぼそっと言ったら母に、お金があったらどうするの?と訊かれ、うーん、旅行かな。でも、今の私に大金を持たせても全部貯金するだろうな、と思い当たってなんだか落ちついた。お金があってもなくてもたぶん私は同じような休みの過ごし方をするだろう。
大掃除もまだ中途半端なわけだから、その続きをがんばって、残りの時間は、パウンドケーキでも焼こうかな。あとはいつも通り、本でも読みますか。
超冬型の気圧配置。気象衛星の画像を見れば、日本海はもちろん、太平洋側にも白いすじ状の雲がいくつもある。北西の季節風、シベリアの冷たい空気が流れ込んでくる。日本のあちらこちらで雪が降っているようだ。東京はきりっと晴れているが、外に出るとめちゃめちゃ寒い。
友人Rからクリスマスプレゼントが届く。かわいいカードと一緒に。プレゼントはなんと手作りの文庫カバー!生成りに赤のボーダーの柄で、外側にはボタンとひもが付いている。本を閉じた時にはひもをくるっと一周させて、本が開かないようにとめられる。これは素晴らしい。鞄の中で本がくちゃくちゃになってしまわないのだから。
さっそくお出かけに持っていく文庫本にプレゼントのカバーをつける。記念すべき一冊目は江國香織『ぼくの小鳥ちゃん』だ。こんな天気の日に、私は荒井良二さんの描く「小鳥ちゃん」を思い出す。
冬のある日、「小鳥ちゃん」はひょっこり「僕」のアパートの窓に降り立つ。不時着、とでもいうのか。その日から「僕」と「小鳥ちゃん」の生活がはじまる。わがままで生意気な小鳥ちゃんと、僕の生活。
あまりにも寒くておもてに出るのが億劫ならば、ミルクをたっぷり入れた温かいコーヒーでも飲みながら『ぼくの小鳥ちゃん』を読むことをおすすめする。読むなら絶対、寒い寒い冬の日がいい。まるですぐそこに「僕」と「小鳥ちゃん」が暮らすアパートの部屋が見えるような気がする、かもしれない。
朝から風が強い。赤や黄の落ち葉が舞い上がる。枯れた枝が揺れてはびゅんびゅん鳴る。止めてある自転車がドミノ倒しのように次から次へと大きな音をたてて倒れる。
今日の多摩川は強風のせいでさざ波どころか、たぷんたぷんと波打って、白い波頭までできている。先日のひとりごとを読んで以来、相方はちりめんじわのことを「さざ波じわ」と言う。間違って覚えたのか。それともわざと言っているのか。
さざ波じわ見せて。やだ。
ひさしぶりにオレンジ色のコートを出してきて着る。この頃は冬に着るオレンジや黄色が好きだ。黒やグレーなど暗い色が多い冬服の中で、オレンジや黄色はぱっと映える。見た目にもあたたかい(昔は赤が好きだった)。
コートにはまるい大きなボタンが3つ。たっぷりとしていて安心な感じがする。たしか高校2年生の時に買ったのだから、もう8年も前のものになる。形が古くなんとなくダサイ感じは否めない。でも今日はどうしてもオレンジ色が着たかったから、えいやっと着てしまった。ブーツとスカートで少しでも軽快に。
ビルのガラス窓に映る姿は悪くない。いや、悪くないと思っているのは自分だけかもしれない。まあいい。自分が気に入っていればそれでいいのだ。
強風の中、オレンジ色のコートを着て、ずんずん歩く。切りすぎた前髪が邪魔だ。
通勤電車が途中のN駅を出発してしばらくすると多摩川を渡る。電車の窓から眺める多摩川は季節や時間や天気によっていろいろに見える。河岸にいる人たちもさまざまだ。
昨日は岸に立っていたおじさんがこっちを向いて写真を撮っていた。おじさんは上向きにカメラを構えて通り過ぎる電車を追う。その姿は子どものようにまっすぐで熱心だった。レンズに光がキラッキラッと反射して、そのたびにそっちを向いている私はまぶしかった。今日はたいていの日と同じように、釣りをしている人がちらほらいるくらいで、特に変わった人はいなかった。
昨日も今日も多摩川はまるで海のように青々としていて、それはわりとめずらしいことで、電車から見る多摩川はいつもはもっと茶色っぽいというか緑色っぽいというか、あんまりきれいな色はしていないのだ。昨日今日のように目を見張る青色はやっぱりめずらしい。水面には吹く風でさざ波がたっていて、細かく見えるその線はちりめんじわのようにも見えた。
ちりめんじわ。
数年前、デパートの化粧品売場で美容部員さんにアイラインを描いてもらいながら、鼻筋のチリメンジワが目立ちますね、と言われ、その時はじめて自分の顔に「ちりめんじわ」と名のつくものが存在することを知った。顔中きらきらパウダーで光っているというよりもテカって見えるその美容部員さんは、私の顔に既にシワができはじめていること、早くケア「してあげなきゃ」いけないことを強調してお高い美容液をすすめてくれたが、当時学生だった私には買えるわけもなく(今だって買わないかもしれない)、私は、はあ、そういうものなんですね、とまるで他人事のように気のない返事をしてごまかした。
電車の窓から多摩川の水面を見つめ、ちりめんじわを思い出すのもなんというか色気のかけらもないけれど、見れば見るほどますます細かい線はちりめんじわのように見えてくる。
そうやってときどき窓の外の景色を見ながら『カンバセイション・ピース』を読む。保坂和志の本はこれで4冊目になる。この最新作はたぶん他のどの作品よりもまどろっこしいに違いない。黙っておとなしく読んでいるけれど、情景描写のくどさに途中で投げ出してしまいたい衝動にかられる。それでも半分くらいまで読んでこられたのは、ククッと笑わずにはいられない箇所がときどきあるからで、保坂和志が『書きあぐねている人のための小説入門』で読者を笑わせるのは本当に難しい、と書いていたのを思い出し、実際に笑っている私はそのことに感心して、まどろっこしくてもくどくても読み続けようと心に決めてまたその先を読んでいる。
相方と回転寿司へ。相方は回転寿司のことを「まわる寿司」と呼ぶ。夜の電話で、夕飯なに食べたの?と訊くと、今日はSさんとまわる寿司に行った、とかそういうふうに使う。
それはさておき。
吉祥寺ならココ、という相方お薦めの店へ行く。どれでも一皿120円(イクラとかウニとか値がはるものは一皿に一かんしかのっていない)。夜7時前に着くと、お店の前にはくねくねと行列が。普段はめったに並んだりしないものの、今日はこのお店に来るのが目的だったからおとなしく並ぶ。
足元からしんしんと冷える中、並んでいる人たちを観察したり、何を食べようか考えながら待つ。相方に、おすすめはある?と訊くと、まわっているものを食べればいい、とそっけない返事。だーかーらー、せっかくこのお店に来たんだから、これは食べなきゃっていうのはないの?とダメ押しでもう一度訊く。たまごはおいしいよ、と相方。なるほど。とりあえず玉子と大好きな穴子は食べよう。
30分ほど待って席に着く。ごっつい湯飲みにお茶を入れて、小皿にお醤油を入れて、割り箸を割って準備完了。目の前を通り過ぎる寿司を眺める。・・・なかなか手が出ない。これだ!という皿がまわってこないのだ。私が躊躇している間に、隣に座っている相方はもう食べはじめている。・・・私は一体何が食べたいんだっけ?
と、目の前をつやつやの甘エビが横切る。おお、これだ!と飛びつく。
こういう瞬間に、回転寿司は「出会い」を感じさせる。私は甘エビを今か今かと待っていたわけではない。その時たまたま甘エビが私の目の前を通過したのだ。偶然の出会いがもたらす高揚感。なんという幸運なものたちよ。
甘エビに続いて、アジ、トビッコ(おじさんに注文)、マグロづけ、カツオ、イクラ大盛り(おじさんに注文)、イワシ、しじみ汁(おにいさんに注文)、真鯛の8皿と1杯でお腹いっぱい。
お寿司を食べに行ってなんだけど、いちばんおいしかったのはしじみ汁だ。結局、穴子と玉子は今回は食べなかった。出会いとはそういうものである。出会いの不思議さは回転寿司にも見いだせるのだ。
しじみ汁でぽかぽかに温まった体で、夜の吉祥寺をぶらぶら歩く。天津甘栗と保坂和志の『カンバセイション・ピース』を買って家路につく。
後日談:これを読んだ相方が、蜜白玉これ間違ってるよ、イクラとかウニでも普通のはふたつだよ、と言うではないか。どうやら、イクラとかウニとか値のはるものでも普通はちゃんと一皿に二かんのっているのだそう。「イクラ大盛り」とか「ウニ大盛り」とかにすると一皿に一かんになる。以上、訂正というか補足説明でした。チャンチャン。
保坂和志『プレーンソング』(中公文庫)を読んでいたら、ビデオカメラが欲しくなった。
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ちょっと覚え書き。こまかいことはのちほど。
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さて、ビデオカメラが欲しいと思ったわけについて。でもその前に、保坂和志のことから。
保坂和志の小説を読むのは今回が初めてだ。「保坂和志」という名前は本屋で何度も見かけていたし、彼が猫の話(正確には、人間のほかに猫も出てくる話)を書いていることも知っていた。平積みにされている文庫を何度となく手に取ったのに、どういうわけだかいつもそれを買うまでには至らず、これまで一度も読むことはなかった。
11月下旬、江國香織『号泣する準備はできていた』、川上弘美『ニシノユキヒコの恋と冒険』と、次々に待望の新刊が出た。私は発売日よりも前から、いつ出るかいつ出るか、とほとんど毎日本屋に通った。そうしているうちに、新刊コーナーにあった保坂和志の『書きあぐねている人のための小説入門』という本がとても気になりだした。
あの、猫の話を書いている人の文章教室。本を手に取りぱらぱらとめくって、もくじにざっと目を通す。これはかなりおもしろいかもしれない。何しろ「書きあぐねている」だ。今までそんなタイトルの文章教室はなかった(はずだ)。かなりの確信を持ってそう思ったものの、その時は買わなかった(彼の本には、今すぐに買わなくてもいいだろう、と思わせる何かがある)。
気になりはじめて1週間くらいたった頃、やっと買った。それもルミネ商品券を使って。
『書きあぐねている人のための小説入門』には、どうやって小説を書くのかという具体的なテクニックみたいなものは一切書いてない。せいぜい「ワープロより手書きがいいでしょう」とか、「一度だけ使える小説のすごい終わり方」とか、そのくらいだ。この本を教科書や参考書のように横に置いてがんばっても、小説はたぶん書けない。
この本ははじめから終わりまでほとんど、「小説」という芸術(表現)をどのようにとらえるか、という哲学のような話が続く。ただそれだけだ。でもそれが、小説を書く人にとってはテクニックよりももっと大事なことなのだ、と著者は繰り返し言っている。
私は今まで、「書きあぐねる」どころか、小説と呼ばれるものは一度も書いたことがない。書いてみたいなあ、というぼんやりとした憧れのようなものはあることにはある(つい、こういう本を手に取ってしまったりするのもそのせいだろう)。私のような、「小説を書く」という運動をしたことがない人が読んでも、それでもこの本はとてもおもしろい。小説を読むことが好きな人、小説を読むことが日常化している人は、読んでみてほしい。今までとは違う角度から小説を見られるかもしれないし、小説との新しい付き合いがはじまるかもしれない。
話のあちらこちらで感銘を受けつつ『書きあぐねている・・・』を読み終わり、次に向かうのはどう考えても「保坂和志の小説」だ。小説についてあそこまで強い調子でものを言っていた、その人が書いた小説とはどのようなものだろうか。
1990年のデビュー作『プレーンソング』を今度はちゃんと(?)現金で買って読む。読みはじめは『書きあぐねている・・・』との答え合わせのような読み方しかできなかった。どうしても直前に読んだものに引っぱられてしまう。それでも、話が進んでいくうちにそのことは気にならなくなり、たいした事件も起こらない淡々とした日常に気持ちが吸い込まれていく。
私はそこでまんまと罠にはまったのだ。「たいした事件も起こらない淡々とした日常」こそ、私がいちばん好きな話で、保坂和志はまどろっこしい文体ながらも誠実に日常を切り取っている。保坂和志はそんな話の中に、日頃からカメラを持ち歩いて写真を撮る男の子と、同様にビデオカメラを持ち歩く男の子を登場させて、さらに彼らに日常を切り取らせている。
ビデオを撮っている(彼に言わせれば、映画を撮っている)男の子の視点がとてもとてもおもしろく、うっかり罠にはまった私は、自分も同じようにしてビデオを撮ったら楽しいだろうなあ、といとも簡単に思ってしまった。
ビデオカメラが欲しい、と思ったのは、そういうわけなのだ。
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