蜜白玉のひとりごと
もくじかこみらい


2003年08月15日(金) デイゴの花

雨戸を開けると昨夜からの雨が降り続ている。まるで秋の終わりのように肌寒い日。フローリングの床が素足に冷たい。なんだか心細くとてもさみしい気持ちになる。

正午、外のスピーカーがゴソゴソ音をたてる。アナウンスのあとにチャイムが鳴り、1分間黙祷をする。自分の部屋でひとり目を閉じ手を合わせる。目に浮かぶのは、沖縄に住んでいたころ学校の図書室で見た数々の悲惨な写真。田舎道の途中にあった、銃撃で穴だらけにされた古い家。防空壕になったというお墓。戦争で足や腕を失った人々。

私は戦争を体験した世代ではないけれど、沖縄で過ごした時間は私に戦争とは何かをしっかりと刻み付けてくれた。沖縄では折に触れて戦争が語られる。例えば慰霊の日には丸1日かけて特別授業が行われる。写真を見たり、戦争映画を見たり、お年寄のお話を聞いたり。小学生の私にはそれらはただ恐いものでしかなかったけれど、今となってはとても貴重な体験だったと思う。それに、あえて語らずとも、戦争の生々しさというのは風景のそこかしこに今も残っている。そうしたひとつひとつの風景の最後に思い出すのは、デイゴの花の赤い色。デイゴの花が赤いのは、地中にしみこんだ血の現れだと言われている。

雨はどんどん強くなり、昼過ぎには大雨洪水警報が出る。茶飲み友達としておばあちゃんの家に行く予定が、雨と雷のため危ないから来なくていいと電話があり、行かないことになる。結局1日何もすることがなくぼーっと過ごす。

夕方5時、雨はまだ降り止まない。明日はおじいちゃんの初七日。


2003年08月13日(水) 祈りの夏

今年は3月のお彼岸の頃にひいおばあちゃんが、8月のお盆の頃におじいちゃんが、それぞれ亡くなった。ごく最近まで、私は仏事というのを単に親戚がぞろぞろ集まる面倒くさいものとして、あまり心にとめていなかったけれど、今はそうでもない。

生や死に対してどんな理屈をつけるかは宗教によっていろいろだと思う。考え方も、その考えを行動に表わす方法も自由だ。そんな中、うちはたまたま浄土真宗で、お線香は寝かせて置くし、焼香は2回ということになっている。作法を知らないと恥ずかしい思いをすることもあるけれど、本当に大切なのはそんな作法よりも相手に思いをはせることだと強く感じる。

今回のお葬式に関して、故人とお寺の住職との間に考え方の相違があった。私たちはおじいちゃんの意思を尊重したいのに、住職は受け入れてくれない。おじいちゃんが亡くなったその日に、私たちは住職からかなりきついことを言われた。それを聞いて、こんなときに全く血も涙もない奴だと思った。親戚一同怒り狂ってついには、お墓を引き上げる!なんて話まで飛び出した。まあ、最終的にはなんとか折り合いがついたものの、お寺が形にこだわり過ぎて心が見えなくなっていることに、とてもがっかりした。本当は住職こそ、そういう俗なものを最も飛び越えていてほしい人なのに。

それでも、おじいちゃんのおかげでこうしていろいろ考えるきっかけになったし、少しは浄土真宗について学んで、私ひとりでもきちんと供養していこうと思っている。特別大げさなことはしない。祭壇のお花を枯らさないようにとか、おじいちゃんの好きな葡萄を持っていこうとか、そういうこと。

思いをはせる、祈りの夏。


2003年08月10日(日) じゃあね、おじいちゃん

午後3時48分、おじいちゃんが亡くなった。

明け方、病院から連絡が入り、急いで駆けつける。お医者様の話では午前中もつかどうかだという。バスどころかタクシーさえもなかなか来ない上に、こんな時に限って電車の乗り換えのタイミングも悪い。気ばかり焦る。1時間半かかってようやく病院へ到着する。

日曜日の病院はがらんとしていた。受付にはカーテンがかかっていて、ずらっと並んだソファには誰も座っていない。先に着いていた父に連れられ、エレベーターで11階の集中治療室へ向かう。ICU入口で靴を脱ぎ、消毒済みのスリッパに履き替え、白衣を着て、手を洗い消毒する。さらにドアを開けて看護士さんの後についていく。

カーテンの向こう、おじいちゃんの周りにはたくさんの機械があった。その中でベッドに横たわるおじいちゃんはひどく痩せて見えた。握ったおじいちゃんの左手はほんのりあたたかい。顔ばかり見ていては泣きそうなので、おじいちゃんの顔とモニターを交互に見つめる。人工呼吸器を取りつけられた姿はとにかく苦しそうで、ここまでする必要があるのだろうか、たくさんの病気を抱えてがんばってきたのだからもういいじゃないか、と思った。勝手かもしれないけれど、そう思った。子どもも孫もみんな間に合ったよ、おじいちゃん。あとはおじいちゃんの好きなときに逝っていいよ。心の中で声をかける。

ICUに入れるのは一度にふたりまでと決まっているので、私は外に出ることにする。今にも涙が出そうでろくな言葉もかけられず、最後に言ったのは、「じゃあね」。結局この時がおじいちゃんとのお別れだった。

これを書いている今も覚えているのは、モニターの左上、ICUの窓の外に見えた真っ青な空の色。そこだけが別世界のようにのんびりと明るい雰囲気だった。この日、台風一過の東京は快晴。気温35度。空調の効いた病院を出ると、油蝉の声がわんわんと響いていた。


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