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189 クルド人難民

先日、青山で座り込みを続けていたクルド人の2組の親子が、国連の指示により強制撤去されそうになり、焼身自殺しようとした、という事件が先ほどニュースで放送されていた。
ちょっとしたドキュメンタリーでこれまでの経緯を伝えていたんだけど、またしても怒りを感じずにはいられない。
難民を受け入れるということに簡単な答えはもちろんできない。でもやはり難民は人間であるという根本的なことは忘れているんじゃないか?いや、見ないようにしてるんじゃないか?
自分の国ってやつがない人々がいる。そんな人々が経済大国と言われる日本に難民受け入れの要請をしてくるということは、命を助けてくれといっているということ。日本で受け入れられなければ、第三国へ出国しなければならないわけだけど、日本で無理なわけで、日本よりも経済的に余裕のない国では余計に受け入れられない。
トルコ国籍となっている彼らがトルコに返されると、処刑を含む迫害の可能性がある。トルコにおける彼らの扱いはひどいもので、クルド人としての分化は封じ込められてしまっている。クルドの言葉を話すことすら禁止されているのだ。
どうも日本の難民政策・入管行政の対応は冷酷であるように思う。彼らクルド人の難民がどうとか、そういうことを念頭に置いた問題の解決ではなくて、「日本は難民を受け入れない」という前提を元に、ただ事務的に業務をこなし、その中の一つの仕事として彼らを追い出して入るようにしか思えない。
これは今までずっと思って言ってきたことだけど、あくまでも公務員である彼らの仕事の仕方というのは、常に業務的な姿勢を見せ、そのたびに日本という国をがっかりする存在として、露わに映し出す鏡となりえている。彼らがしている仕事の責任の重さというものを、もっと理解させるべき第三者としての機関でも設けたほうがいいんじゃないのか?あまりにも無情で、自分が誰に何のために、どういった意味をもって仕事をしているのかを理解していない、その姿に腹が立つ。
彼らクルド人が掲げたスローガンを紹介しよう。
・難民条約は人権です。人権を守れ!
・日本は難民を受け入れろ!国際法を守れ!
・私達は難民です、奴隷じゃありません!
・私達は正義が欲しいです。
・私達は苦しいです。助けて下さい!
・難民は犯罪者じゃない!
・私達は人間です、虫じゃありません!
・収容所にいるクルド人と難民を釈放してください!
・21世紀に奴隷の身分はイヤだ!
2004年09月30日(木)

188 ウォーキング

みなさんどれくらいの距離(もしくは時間)なら歩ける範囲?
俺はかなり歩くことが好きで、機会があれば2〜3時間は普通に歩いてしまう。
歩く機会というのは、終バスがないとき。過去幾度となくあったんだけど、うちは本当に不便な場所にある。最寄り駅ってやつがないんだ。一番近い駅で30分くらい歩く。しかもそこにはバスがとおってないので、バスでいける一番近い駅に歩いて行くと45分くらいかかる。
特に最寄り駅がないかわりといっちゃなんだけど、色々な路線にバス1本でいける。西武新宿線、西武池袋線、JR中央線。
そんなわけでいく場所によってバスでその3本の路線へ使い分けていくわけさ。
とりわけ多いのが中央線。学校が吉祥寺にあったってことが一番大きい理由なんだけど、俺の中では一番利用頻度が高かった。ただ、その中央線の駅からはバスで30分ぐらいかかる場所で、そこで終バスがないとなると、歩くと2時間ぐらいかかる。
そんな駅について、実は週末とかでバスが早めになくなっちゃって、途方に暮れるってことがしばしばなんだ。
その駅からうちまでの距離がどれほどのものかを知る地元の友達からすれば、そんな距離を歩くなんてありえない!と言われてしまうような距離なんだけど、歩くのが早いってのもあって2時間もあれば着ける。
そう、俺にとってそのくらいの距離であれば全然歩く範囲ってこと。
人によってはもっと歩くの平気って人もいるけど、やっぱりこれだけ交通手段が発達した世の中だから、なるべく歩かないで済ませたいという人が多いと思う。
そうして長い時間を歩くというのは、疲れるというデメリットこそあれ、なかなか有意義な時間なんだ。一人で音楽を聴きながら、いろいろ考え事をしながら時間を使える。バスにのったりすると本を読むけど、歩きながらだと読めないから、その分考え事の時間に使えるんだ。
前に吉祥寺のカラオケ屋さんでバイトしてて、1時くらいにあがって、交通手段だったチャリが盗まれたときは吉祥寺から歩いたよ。3〜4時間かかったかな?
あと過去一番歩いたのが、とある大型ディスカウントショップにチャリを買いにいったときで、武蔵大和あたりにあったのかな?近いと思いこんで、チャリを買うわけだからチャリでいくわけにもいかず、歩きでいったら、結局片道4〜5時間かかる距離だったっていう。しかも着いたときには特価品のチャリは売り切れてて、泣く泣くまた歩いて帰った。中学生だった俺は何を考えてたんだろう?さすがにそこまでいくと過去の自分に疑問を感じるね。
まぁ何が言いたいかって言うと、歩くのはいいことだよ!ってことだ!(シメ)
2004年09月24日(金)

187 身近にある戦争

昨日テレビでやっていたマイケル・ムーア監督作品『ボーリング・フォー・コロンバイン』を再度見て、改めて思ったことがある。
悲劇の現実は明らかに我々の想像を超えているということ。
こないだのチェチェンでの人質立て籠もり事件で特に痛烈に感じたことだ。
なぜだろう?これは俺だけだろうか?統計的にも違うのに、そう、俺は大勢が人質にとられても、実際にその人質が殺されるということに頭の中で結びついていなかった。映画やドラマや小説や、人の手によって創られた物語の中では、チェチェンで起きたような悲劇を描けたものはない。いや、あってもそれは悲劇過ぎて規制により公開されなかったのかもしれない・・・。

人質をとって立て籠もるといえば、多くの人がイメージするであろうシチュエーションは、銀行強盗が銀行に人質をとって立て籠もるというパターン。かなり多いと思う。そんなとき犯人は必ずこういう。
「ちょっとでもしゃべったり動いたりしたらぶっ殺すぞ!」と。
でも人質が実際にしゃべったり動いたりすると、
「それ以上やったらマジで殺すぞ!」
となる。余地がある。なぜかと言えば、銀行強盗も殺さないですめばそれにこしたことはないわけだ。殺したくはない。
それが一番強い俺の人質立て籠もりのイメージ。なんとも平和ボケしたイメージだと思う。
でも現実は違った。余地がない。動けば殺され、話せば殺され、10人単位で殺されていく。
コロンバイン事件も、チェチェンの事件も、共通して感じたのは、殺すことに躊躇がないってこと。高校で銃を乱射することも、逃げていく子供を後ろから銃で撃ち殺すことも、俺達の想像力の外の出来事だ。現実として想像しうることなのか?俺には想像できなかった。
最近は考えをあらためている。平和ボケは相変わらず消えないけど、戦争は俺が思っているよりも、もっとずっと身近にあるんだって、そう思ってる。
2004年09月17日(金)

186 9・11

あの惨劇から3年。
3年前、友達からのメールで事件を知り、テレビをつけて画面に映った映像をみて、とても現実の出来事とは思えなかった。まるで映画のワンシーンのようで、信じられなかった。
事件から時がたつにつれて、少しずつことの次第が明らかにされていき、戦争がはじまっていった。その流れに対して、俺はどこまで疑問をもっただろうか?戦争につながっていく過程を、何も思わずに見ていたわけはなく、時に妄想がいきすぎ、恐怖におそわれたこともあった。実際にビルにいた人々に自分を重ねることで、その恐怖を少しでも感じたり、亡くなった人の親族に自分を重ねることで、その悲しみを少しでも感じたり、戦争が起きることで日本も戦争にのり、まるで第二次世界大戦のように、殺伐とした未来を想像したり・・・。
でも、流れてくる情報に対してはあまり疑いをもっていなかったように思う。
「流れてくる情報」というのは、アメリカはアルカイダによりテロ攻撃を受けたのであり、アメリカは不意打ちをくらったのだ、ということだったり、テロに対する報復という形をとったその先のアメリカの行動は抜きにして、「9・11」に関してはアメリカが被害者、アルカイダが悪という構図だったり。
でも、前提のように思っていたことが、時がたつにつれ否定されはじめ、その情報を聞くと、今度はそっちが正しいように思えてくる。ブッシュとビン・ラディンは経済的に親密な関係にあり、ペンタゴンにつっこんだ旅客機に不審な点が多くみられることから、アメリカが自身で工作した演出だった可能性があり、戦争をおこしたいがための口実をつくるためのアメリカの陰謀であるという情報だ。
かと思えば、今度はその多くを主張し、国民に恐怖を植え付けているアメリカのメディアに対して警告を与えている映画監督・マイケル・ムーアが、実はブッシュと交流があり、ブッシュの許可のもと「華氏9・11」がつくられた、との情報まで出てくる。
ここまでくると、ムーアとブッシュとの関係を主張する人物の発言すら疑わしいもので、もはや信じられるものがない。現代となっては近いような国・アメリカ。でもやはり遠い国で、メディアを通して伝えられる映像やら言葉やら文字やらでしか真実をしることができない世の中で、裏に国家という大きな組織があり、どこまでも情報操作できるのだと知ったら、信じられるものなんてない。
一つだけ確かなことは、そんな国家間の利権争いによる陰謀のせいで、多くの命が犠牲となっている、という事実。「9・11」という事件の中で、唯一揺るぎない事実。そんな悲劇があり、犠牲者がいて、大切な人をなくした親族がいる。世界中が悲しみに暮れるなか、命一つの重さも知らずに、世界を支配しようとする陰謀があるという大きな可能性に、どうしようもない怒りと、恐怖と、じれったさが消えない。
2004年09月11日(土)

185 ちっぽけなプライド

小・中、そして高校の始めあたりまで、俺は無駄にプライドが高かった。
「プライドが高い」というのは、特に男にとっては一見かっこいいことのように聞こえる。実際にそう思っている人も多い。でもそんなことはないんだ。
なにかにつけて自分のプライドが優先されてしまうと、どうしても喧嘩腰になることになる。中学生のころはよく友達から「プライドがすごく高いよね」って言われ、そのときはそれが褒め言葉のように受け取っていた。今考えると、それは欠点を指摘されていたんだと思う。
細かい、小さなことに自分のプライドをかける、ということは、ある意味自己中とすらとれると思う。そのことに高校生の頃の俺が何がきっかけで気づいたのかは忘れたけど、プライドが高すぎるせいで周りとの諍いが絶えなかった自分に嫌気でもさしたんだろう。
守るべきプライドはちゃんとあると思う。どこまで譲っても絶対に譲れないプライドがある。逆に言えばそれさえ守れば、あとは必要のないプライドなんじゃないかな?そこをフォローできるのは、優しさであり、心のゆとりだと思う。
こうして心にゆとりができ、人に優しくなれることで人は大人になる。少年時代からひさしく会ってなかった友達にひさしぶりに会うと、だいたいが変わったなと思える。どこまでを子供というのかわからないけど、子供は周りにおける自分の立場を守るため、周りに対してプライドという壁をつくることで自分を守る。そんな壁をなくしても人と向き合えるようになっていくことで人は成長していくのかな。なんてね。

ちっぽけなプライドなんていらない。けどなかなかそう簡単にいかない。心にゆとりをもった優しい人間になりたいな。
2004年09月08日(水)

VOICE / マッキー

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