気ままな日記
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2007年09月29日(土) 褒め言葉

 育児休暇をとっている同僚が、赤ちゃんを連れて事務所に顔を見せた。意向申告書提出などの、事務手続きをするためである。
生後3か月もして首が座る頃になると、子供を職場に連れてくる職員は多い。乳飲み子を一時的に預ける先も、そう簡単には見つからない、という理由もあるだろうが、やはりなんといっても、
「見て見て! わたしの子よ。可愛いでしょう!!」とお披露目したいというのが一番の理由だろう。
 傍目に見て、「かわいい」と思えるのは、1歳を過ぎて人間らしい表情を備えてからという気がする。それまでは、むっちりとした腕がかわいい、とか泣きそうなしぐさがおもしろいとか、その程度の印象である。親が思うほどには、他人の目には、かわいらしいとはうつらないもの。
 そこで、苦労するのが褒め言葉。一番無難で、この時期縁起がいいセリフが、「わあ、大きいのねえ」。
「あら、かわいい」というお愛想の言葉も、言い終わってしまうと、あとが続かない。そういう時、その子が標準より明らかに体格がいいと、こちらも助かる。
「体重何キロあるの?」と、大人になったらとても失礼で尋ねることのできない質問も、ここでは健康のバロメーター。栄養が行き届いてるだの、重いでしょ〜、腰痛めないようにしてねだの、将来ビッグな子になるわよーだの、無責任な社交辞令も含めて、場が盛り上がる。

 ずいぶん前に、やはり生後3カ月ほどの赤ん坊を連れてきた同僚がいた。
特段体格もいいわけでもなく、顔立ちも普通。彼女にすごく似ているというわけでもない。目立った特徴としては、やたらに「よだれが多い」ということ。そういえばよだれってもう少しあとになってから出るものという経験があったので、褒め言葉に窮した結果でた言葉は、
「へえ、もうよだれが出てるんだ〜。早いねー」であった。


2007年09月28日(金) 取扱困難な性分

 スーパーなどの店にはいった時、店員さんに、もしかして万引きするのではないかと疑われているような気がすることを、「注察念慮」というのだそうだ。これは妄想の一種らしい。
 わたしがそれ。本当は誰かに注目されたいという、願望の裏返しなんだそうだ。そういえば、誰かと一緒に店にはいったときは、こういう妄想は起こらない。誰にも注意を払われていない状況の時に限って起きるところをみると、やはりその説はうなずける。
 それともうひとつ。料金後払いのレストランや喫茶店で、飲食した時には、「食い逃げするのではないかと」疑われているような気がすることがある。何度も訪れている店でさえそう。だから、最近増えてきたコーヒーのチェーン店は、前払いなので気が楽である。
 この妄想を消す方法はひとつ。敢えて店の人に、冷房の効き具合やレイアウトのあれこれなど、とにかく雑談を仕掛けて、すっかり顔なじみになるのが良いのだそうだ。
 でもこういう妄想がかった感じ方をする人は、自分から進んで、気楽に話しかけるのが苦手なたちなんじゃないかと、我が身を振り返ってそう思う。

 さて、ひさしぶりに何通か手紙を書く。
これがまた、ポストに投函するまでが一苦労である。便せんの間にゴミが挟まったままになっていないか、下書きの鉛筆の線は奇麗に消したか、宛名を間違えてないか、が次々に気になり始め、じっくり確認。やっと封に糊づけした途端、「様」をきちんと書いたか、が怪しくなり始め、せっかくの封筒を無駄にしてしまうことも……。
 晴れてポストに投函、という段にこぎつけたものの、手紙が入口付近で止まっては、あとから来た人に抜き取られる恐れがあるかも、などと思い、奥の奥まで手を突っ込んで、手紙を差し入れる。あまり奥まで突っ込んだために、ポストの入口にある銀色のぺらぺらしたふたに手が挟まって抜き差しならないこともある。
 まったくもって不自由な性分である。


2007年09月24日(月) ここ掘れわんわん

住宅情報の類が気になる今日この頃である。
駅の構内に1冊2冊置いてある。
息子が大学にはいって家を離れるとなると、わたしもそろそろ……。借家にせよ、自分の家、というものを急に意識し始めたのである。
もとよりそういう願望がなかったわけではない。
経済的には、ぜいたくしなければ可能。しかし、小さい子どもを抱えて独立するとなると、その世話は行き届かないし、などと虫のいいことを考えて、とりあえず封印、実家に寄生。その問題に向き合うことを、今まで先延ばしにしてきたのである。
 ひとり暮らしをしたがっている息子を引き連れて、というわけにいかないとなると、彼に仕送りをしながら自分も賃料や、またはローンを抱えることになる。
―2重苦。
現実の厳しさから目を背けるかのように、場所は神保町の古本屋街のあたりがいいなあ、レトロな喫茶店があるし、とかやはり図書館の近くがいいわ、などと、妄想に浸る。
 結局のところ、誰にも、こうしたら?と言うことはできない。
あれもこれものいいとこどりもできない。自分が何を優先させたいか、その一言に尽きる。

 と、そう思いながらYAHOOのニュースを見ていたら、整地中の土地から、5000万円が発見され、時効のあかつきには、その土地の販売会社と発見者の建設業の方が折半することになるという。
半分ずつでも、1LDKのマンションが十分買えるではないの。
―いいなあ。


2007年09月23日(日) 古本市

 息子の通う高校で文化祭があったので、ひそかに見に行く。
女の子と違って、この年頃の男子生徒は、親に学校に来られるのがとってもいやなのだそうで、お忍びの訪問となった。
 そうまでして行くか、と思ったものの、保育園から始まって高校まで、見に行けそうなイベントももう残りわずか、という未練がましい気持ちについ、負けたのである。
 そろいのTシャツに身を固めた高校生たちが、様々な趣向をこらして盛り上がっている。
 その一角。「ここにある本、すべてどうぞご自由にお持ち帰りください」という呼びこみが。
 「ただで持ってっていい」という言葉に弱いわたし。ついついその甘い言葉に誘われて、教室に足を踏み込んだが運のつき。自分では買わないだろうなあ〜という雑誌から、興味のある作家の本ではあるけれど、ちょっと高額で…というもの、果てはオレンジページまで。
 あれもこれもと目移りした挙句7冊をゲット。こうとわかっていたら、手提げを持ってきたのに。鞄は書籍の束で壊れんばかり。
 しかし、80円のクッキーを買っただけで、相当量の本をいただくことにちくりと罪悪感を感じたのか、本当に自由に持ってっていいのか、を何度も確認。呼び込みしてたお兄さんにも再度確認。ずっしりと持ちおもりのする荷物に、ひいこら言いながら帰宅。
 文化祭に行ったというよりも、古本市を漁って帰ってきたという感じ。しかも無料で。欲深+あさましい自分に向きあうひととき……。
たとえ10円でも20円でも、徴収してくれたほうが、すっきりしたかもしれない。


2007年09月20日(木) メガネかけた人

 職場に提出する調査票に張る写真を、人数分注文した。
CDにコピーして写真屋さんに出したのだが、どういうわけかファイルが開かないという電話が職場にかかってきた。
 店に行った時に、わたしの名前を教えておかなかったので、
「メガネをかけた女の人」ということで、電話がかかってきたらしい。
メガネをかけた女の人は、事務所の中、ざっと見渡しても、7人いる。電話交換の方は、多分わたしだということで、すぐさま回してくれた。

 名前がわからない時に、その人の身体的特徴を言うことは、ままある。わたしの叔母は背が高い。集合写真を撮ると、決まって
「そこの背が高い人、後ろにさがって」と言われると、ぼやいていた。身長150センチそこそこのわたしにはわからない悩みだ。
 あと、座っている位置で呼ばれるときもある。
「そこの壁際の人」というように。
メガネにせよ、背が高いにせよ、壁際にせよ、あんまりうれしくないご指名のされ方には違いない。


2007年09月18日(火) 今年もまた

 今年もまた『自己観察書』および、『意向申告書』を提出する季節がやってきた。
 人事異動の際の資料になるということで、はじめの頃は、本当に真剣に書いた。……と過去形になっているのは、どんなに気合いをいれこんで書いても、願ったりかなったりの職場に行けるかどうかは、全く保障の限りではない、そもそも願ったりかなったりの職場なんざ、存在しないということがわかってきたから。
 通勤時間は一応1時間半以内、という配慮はなされているようだが、1時間半もあれば、県の西端から左端までだって行けてしまう。そうとうの距離ありまっせ。
 近いところを希望した結果、異常に忙しい病院の事務に就かされたこともあり……。(確かに通勤時間は短かったけど)。
 やはりもうここは運を天に任すしかない。わたしたちは、将棋の駒に過ぎないのだ。そう割り切りつつ、昨年提出した分のコピーを見ながら、微妙に言い回しを変えて、さっさと書き上げたのだった。


2007年09月16日(日) 気の利いた?みやげ

 わたしたちの夏休みは、お盆休みのようにいつからいつまでと決まっているわけではない。各自、7月から9月までの間に5日間とることになっている。
 この期間、特に週明けともなると、おやつタイムのメニューが俄然賑わいを見せる。夏休み=旅行、もしくは帰省という図式は、今も昔も変わらない。そこで、どこそこへ行きました、休暇中はお世話さまでした、というお印を兼ねて、全国のお菓子がみんなの事務机に配られるというわけだ。
 近頃では、お菓子の名前そのものが『○○へ行ってきました』というものまである。これだと、いちいちどこに行って来たかを説明しなくても済む、というわけか。もっとも、このテのものがおいしかったためしはないのだが……。

 みやげと言って思い出すのは、伊勢名物「赤福」。あんこがあまり好きではないわたしでも、これはおいしいと思う。
 買ってくるほうも、「やっぱり伊勢といえば赤福。それっきゃないでしょ」と気を利かしているのだろう。
 しかし、あの薄桃色の箱を、出勤早々「これ配っておいて」と手渡されると、暗澹たる思いがする。あんこたっぷり詰まってますわよ、といわんばかりのずっしりと持ち重りのする箱とともに、やっかいな荷物を背負わされたような……。
 表の帯を解いて、紙のふたをあけると、そこには隣との境目もあいまいに、みっちりとくっつきあって並んだ赤福が。
 付属のへらでひとつひとつ、その形をくずさぬよう、なめらかにつけられた模様を乱さぬよう、分けるのは至難の業。ヘラの先で無理やりもちをはがし、あんこをねじ切り、それでもうまくいかなければ、誰も見てないのをいいことに指で強引につまんで分ける。
 さて、分けたはいいが、何に置く。ティッシュでは頼りない。皿に置くなんて、もってのほか。後誰が洗うんだということになるので、自分の首を絞めることになる。結局、直に置くのはなんだか汚いなあ、と思いつつメモ用紙の裏に。そのころには、さんざんこねくり回したあとなので、最初の整然と波を打つような模様は、見る影もない。
 これがまた忙しい週明けの月曜日の朝となると、せっかくの好意も自己満足としか受け取れなくなってくる。
 以前血圧が高くて体調を崩しがちだった隣席の同僚が、課長の買ってきた赤福を前に、「あらー」「やーん、くっついちゃった」と、青筋たてながら悪戦苦闘していたのを思い出す。
 やはりあのおみやげは、家庭向き。買ってくるなら自分で配るとか、最後まで責任もってくださいね。


2007年09月15日(土) 寄席もうで

 横浜にぎわい座の有名会を観に行く。昔、日テレの『笑点』を見に行ったことはあるが、寄席は初めてである。
毎月15日は1000円デー。お試し価格としてはちょうど手頃。場所は野毛、場外馬券場(ウインズ横浜などというおしゃれな名前になっているので、ファッションビルかと思った)を通り過ぎたところにある。お酒の飲み過ぎで肝臓をやられたか、はたまた外でのハードワークで日焼けしたのか、赤黒いお顔のおじさんが、ぼおっと立っていたりして少し怖い。

 土曜日とあって、ほぼ満員御礼。
 落語や奇術、漫才を取り混ぜておよそ2時間半。生身の人間が、目と鼻の先でしゃべっているというのが、映画やテレビ、パソコンに慣れた目には、やけに新鮮に思われる。食べる演技、飲む演技、間の取り方、客とのかけあい……。時々セリフをかんだりすると、こちらまでハラハラしてしまう。これもナマだからこそ。一方通行な感じではないのがいいところ。
開口一番に出てきた前座さんの、お灸の熱さに耐えかねたしぐさに至っては、本当に顔が真赤になっていて熱さがこちらに伝わってくるよう。
 お客さんに笑っていただかないと商売にならない、と余興にもらした噺家さんの本音が妙にせつなく、床に頭をこすりつけんばかりのお辞儀がなんだかとても印象に残った。


2007年09月13日(木) 儀礼的距離化

 社会学者上野千鶴子さん著『おひとりさまの老後』を読む。
シングル女性の増加や平均寿命世界一、という状況の中、最近は「おひとりさまもの」の読み物が人気なのだそうだ。
 その中に出てきた言葉がこれ、『儀礼的距離化』。
丁寧語を使って、「わたしはあなたとこの距離を詰めるつもりはありませんよ」というメッセージを送ることなのだそうだ。ラッシュアワーの電車の中のように物理的な距離が保てない時に、意識的に目をそらすなどもこれにはいるとのこと。
 職場の同僚や、病院での治療関係など、利害が対立したり感情的に緊密な関係になりやすい場合など、バランスを保つためにいいのだそうだ。それを考えると、抵抗感のあった「患者様」呼びもこれにあてはまるのかもしれない。
 さて、わたしは月に一度のペースで、小説の書き方なるものを教わりに教室に通っている。
そこでの授業は、受講生が各自提出した小説の合評+講師の講評形式で進められる。一生懸命に書いてきたものにあまりケチをつけても悪いし、そうかと言って、差し障りなく褒めるばかりというのも能がない。文章を期日までに提出するのはもちろん、人の書いたものを読むのも、感想を述べるのも、そうとうエネルギーがいる。
 受講生たちは、老若男女10人ぐらいだろうか。授業が終わると皆、おしゃべりしたり挨拶したりもせず、黙々と帰って行く。もちろん、夜遅い時間帯だからということもあるだろうが、これがお茶や踊りの講座だったらどうだろう。終わったあとも、講座の内容に関係のあることないこと、ちょっとはおしゃべりをし、ある人たちは帰りにお茶でも、ということになるのではないだろうか。
 素人の悲しさ、想像力には限界がある。小説といえど、全く根も葉もないようなことは書けない。どうしても実話に基づいた、あるいはそれに近いもの、ということになる。作り話だったとしても、自分の心のうちをオープンにして人前にさらす、ということに変わりない。
 その人の書いた文章を読むということは、相手の心の奥深くに立ち入るということである。それがお互いにわかっているので、意識的に距離を置こうとしているような、ここでも、「儀礼的距離化」なるものが働いているような気がするのである。


2007年09月06日(木) なんのための……

 台風9号が関東地方に接近中。ということで、今日は午後から「早退してよろしい」というお触れが出た。といっても、その場合は、自分の年休を使いなさいということ。せっかくなら休みをこんなことに使いたくないなあ、という気持ちと、定時まで居て電車がストップして帰れなくなるのは困るしという気持ちのハザマで葛藤。周りの様子とyahooの天気予報をにらみながらうじうじと悩む。
 午後1時。電話交換の女性がひとり帰る。午後3時、隣席の女性と運転手さんと、もうひとりの電話交換の女性が帰る。
 ひとり欠け、ふたり欠け……。ただでさえ静かな事務室内が、徐々に静かに。それと反比例するかのように、窓が風でがたがたと鳴る音が強まり始め、外を見ると樹木がゆっさゆっさと髪(?)振り乱して踊っている。
 こうなってくると、とたんに心細くなり、ついに根負け。課長に、「1時間早く帰らせてください」と申し出。はじめに「大丈夫です」などと言い放った手前、とても言いにくかったけれど、致し方ない。実際最後まで粘ったものの、交通機関がストップして、職場にお泊りということになったら、かえって周りに迷惑もかかるし、と自分に言い訳しつつ早退。
 せっかく早くひけたんだからと、スーパーによって買い物。なんのために早退したんだかちょっと怪しい。

 ところで、今日は午後から防災訓練が行われる予定だった。
しかし、この天候。事故があってはいけないからと中止に。
なんでも、「本番を想定していなかった」からということ。
確かに、悪天候の中、訓練を決行して怪我でもしたら元も子もないけれど、本番さながらというまたとない状況の中で行ってこそ、身がはいるというもののような気がするのだが。


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