気ままな日記
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トイレでクモを飼っている。もうひと月以上になるだろうか。 もちろん飼おうと思って飼い始めたわけではない。 ある日、しゃがんでいると、目の前に小さな巣を張ってじっとしている彼を発見した。ぴょんぴょん跳ねるクモならば、すぐさまティッシュでつまんで、ゴミ箱行きなのだが、目の前のクモの行動範囲は、巣の張られたせいぜい半径20センチ程に限られている。それで何の気なしに見逃したのだ。 不思議なもので、毎日眺めていると、愛着が湧いてくるものである。 一般的なその他の虫と違い、どこから現れるかわからないという不穏さがない。線だけで出来上がったような、スリムボディもなんとなく清潔そうである。 最初の頃より、体も若干大きくなったようだ。以前居た蚊がいなくなったので、そういうものを食べて生き延びているのだろう。 あの世に行って、地獄の血の池に落ちるようなことがあれば、もしかしてこのクモが助けに来てくれるかもしれません。 その時は、我も我もと、あとから這い登ってくる輩たちに向かって、間違っても、 「来るなー!糸が切れる」などと、叫ばないようにしたいものである。
今年も24時間テレビが始まった。ここ数年は、マラソンをして、励ましやら勇気やらを与えるスタイルが恒例のようである。 「愛は地球を救う」というキャッチフレーズとともに、この番組が始まったのは、わたしが中学生の頃。 当時は、恵まれない境遇を克服したり、どん底にいながらもくじけずに頑張っている人々、というのをこれでもかというほど見せられ、なんにもしない自分に、えもいわれぬ罪悪感のようなものを感じたものである。今ほどにあちらこちらに募金箱が設置されているわけでもなく、会場に出向くか、郵便振込みで募金をするか、協力するのにも、限られた手段しかなかったのだ。 さて、今はというと、なんでいちいち走ったりするの? だの、おそろいのTシャツ作るくらいのお金があったら募金に回せば? だの、揚げ足をとりたくなるのだが、なにはともあれ、お祭り騒ぎの末、募金が集まり、役に立つところに使っていただいているのなら、いいのかもしれないとも思う。 昨年、イトーヨーカドーに設置された黄色い箱に、初めて募金をしたときには、28年前のやましさに終止符を打ったような、やれやれといった気分になったことは確かである。
何年か前にここに書いた日記を読んでいて、思い出したことがある。 2006年を目処に、横須賀に未来型図書館ができるという計画は、あれから一体どうなったんだろう。地上32階建てで、5階から下はすべて図書館。磁気カードによる貸し出し制で、面倒な手続きがいらない。おまけにブックカフェ付き、ということだったが。今年はその2006年である。完成したという話は聞かない。それとも今、建設中なのだろうか。 それともうひとつ。アザラシのタマちゃん。西区民としての住民票まで取得した彼。あっちこっちの川で他のアザラシが出現するたびに、その川にちなんだ名前をつけられたようだが、元祖おおもとは、いまいずこ。
ちょっと外に出ただけで、煮えそう、焦げそう。 暑いというより「熱い」と書いたほうがしっくりとくる。 せっかくとった夏休みであるが、珈琲館でアイスコーヒーを飲んで、TUTAYAでビデオを借りて(今更ながらハリーポッタ−・そんなに人気があるんだったら一度は観ておこうと思っていたので)、とっとと帰宅。 この暑いさなか、どこかへ出かけようなどという気力も湧きあがってこない1日でした。
2006年08月15日(火) |
懐古趣味というわけではないけど |
最近、「昭和のヒット曲」といった類のテレビ番組を好んで観るようになった。大晦日になると、父親がなつメロを観ていた。なんで古い歌ばかり、と思っていたが、その気持ちがわかるような気もする。その曲の流行っていた頃の自分、というものを良くも悪くもしみじみと思い出す、あの感覚がいいのかも知れない。 昨夜、なんの気なしにNHK教育テレビにチャンネルを合わせてみた。普段全く縁のないチャンネルである。福祉の番組に続いて、手話ニュース、今日の料理、古武術、ミニチュアガーデニング、茶の湯、……。ひとつの番組の時間も短く、CMがないので、テンポ良く感じられる。新聞のテレビ番組欄をチェックしたわけではないので、次はなんの番組が始まるのだろうとなんだか楽しみでもある。時間帯が時間帯なだけに、ゆっくりとした趣味的な番組というのもいい。茶の湯の番組を観ていたら、昔お茶を習っていた時に覚えた作法が思い出されて、なるほどあれはそういう意味だったのかと新鮮な発見もあった。
今も、なつメロ番組を観ながら、これを書いている。こうした番組に惹かれるもうひとつの理由は、同じ世代の、つまり40歳台50歳台となったタレントが、ナマで出演することがあり、今も頑張っている彼らを観ることで、こちらも励まされるような気がすることかも知れない。
この季節、夕方5時6時でもまだ明るいので、気ぜわしくなくていい。 帰りが遅くなると、駅から自宅までは、気を張る道のりである。 街灯は一応ある。両脇は住宅が立ち並んでいるので、無人地帯というわけではない。しかしひとたびなにごとか起きて、叫んだところで、我が身かわいさ、通報はしてくれるかもしれないが、助けに飛び出してきてくれるとは思えない。 そこで、後ろからゆっくりと近づいてくる自動車の音、自転車をこぐ音、歩く足音などに、自然と自衛の精神が働く。 こういう時、自分の前をスタスタ歩いている人は安全そうに思えるから不思議である。その人に置いていかれないように、足を早めてしまうことさえある。何かあったら助けてくれるかもしれない、などと期待しているのだ。 そしてなぜか、後ろから歩いてくる人は危険な気がして警戒してしまう。 ふたりとも見知らぬ人、偶然うしろになったり前になったりしているだけなのに、おかしなものである。
職場の周りにあるキャベツ畑も、いつのまにか、スイカにとって代わるようになった。道端には、収穫したばかりの大きなスイカが山積みになっている。一抱えもあるほどの黄色いスイカや緑のスイカである。スーパーに行くと、家族の人数が減ったせいか、半分に割って売られているので、丸ごとの姿を拝む機会は久しぶりである。 これまで、美容院だの鍋料理だの、癒すという言葉だの、わたしの苦手なものを時々書いてきたけれど、実はスイカも苦手だったのでした。 種をほじくり出しながら食べるのが面倒くさい。この種、表面だけでなく、実の奥深くまではいりこんでいて、大ぶりにすくって食べると、含まれていた種をガリリとかみくだくことになり、吐き出すのも見苦しい。周りに飛び散る汁も気になる。事務机の上で食べるにはちょっと不相応。 フルーツとはいえ、所詮は瓜。わたしには、キュウリとスイカの味わいの違いがよくわからないのである。 なんでも幼児の頃、招かれて行った親戚の家で、スイカを出してくれたのだが、「甘くな〜い」とだだをこねたら、そこの家人が、慌てて砂糖を持ってきれくれたという。よその家ではおとなしく猫かぶりをするたちのわたしにしては、随分と図々しい態度をとったものである。 そのスイカの差し入れが職場には頻繁にある。冷蔵庫は丸ままのスイカで埋まっている。それがおやつタイムに切り分けられて事務所の真ん中に置かれる。所内いっぱいに広がるスイカの香り。 「ひとり2切れずつがノルマですよ〜」の掛け声。せっかく切ってくれたのだから、一切れぐらい食べてもよさそうなのだが、どういうわけか、やっぱり「今、仕事中だし〜」の雰囲気をかもし出しつつ、さりげなくかわしてしまうのである。
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