気ままな日記
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今日は寒かった。 このまま一気に冬にむかうのだろうか。 ほんの一週間前、こんな気候を予想することもできなかった。 雨模様だったので自転車に乗らず、駅まで歩いたら、途中、アサガオが格子状の柵にいい具合にからまっている家を見つけた。
ここのところ気持ちは少しささくれ気味。 ぽっかりと空いた空虚の穴を何で埋めようとするのか、じっくり観察するつもりでいたのに。 強がれば強がるほど、依存心って湧くものなのね。
心に浮かぶ毒舌、自己主張、意見、感想、どこからどこまでが自分の本心かわからない。 他人はなんとかやり過ごせても、自分の心の中のちぐはぐな矛盾や葛藤は、ちいとも納得していない。
「もう限界!」と白旗あげてとっとと退散することができたらどんなに楽かと思う今日このごろである。
「子供は大人の虚栄心を満たす道具ではないんだからね!」と、そういうつもりで言ってやったのに、全然通じない。 日本語は通じても、相手に意味が全然理解されていない会話はとても虚しい。
みんなそうだ。期待するのが間違ってる。 誰だって自分の価値観の中でしか判断しないのだから……。わたしだってそうだ。 何とか分からせようと、人の気持ちをどうにかしようとするのはいけない。 支配されないようにと他人をコントロールするのだって、支配していることには変わりない。
職場の帰りに美容院へ行く。初めてのお店である。 今までは、休日の朝、近所の馴染みの店に行っていたのだが、休みの日に、このためだけにわざわざファンデーションや口紅を塗りたくることがおっくうになってきたのである。 それと、顔なじみになってくると、負担に感じられるようになることがひとつある。それはスタッフとの会話である。相手がサービスのひとつとして投げかけてくる世間話に対して、わたしは、絶妙で気の利いた受け答えをしなくてはいけないのではないかと思っているふしがある。 一度話が盛り上がると、次回もこのテンションを期待されているのではないかと勝手に推測してしまうのだ。 たまにはシ〜ンと黙っていても、ごねごねうるさく注文つけたり文句言ったりするお客よりは、よっぽどたちが良いだろうとは思うのだが。 ドライヤー持つ手が大きく乱れるほど笑いをとると、そこはかとなく喜びを感じるのも事実なのだ。 今日担当してもらったのは、若くてかっこいい(←なんともありきたりな描写だけど)店長さんだったせいか否か、わたしもはしゃいでしまい、帰る頃にはとても疲れていた。美容院へ行くと気持ちよくて居眠りしてしまうお客さんも居るらしいが、とてもそんな心境になれない。 このお店もいつまで通えるかどうか……。
桐野夏生さんの書かれた短編小説のひとつ、「虫卵の配列」。 ひとりの劇作家に恋した女性が、町で偶然出会った女友達に自分の恋物語を語る。 彼女が彼に送ったファンレターの返事にはこう書かれていた。「手紙を待っています、僕の返事は舞台でします」と。 彼女が手紙に書いた一節が、演劇中のセリフに使われていたのだ。 こうした形で、2人の間で、会話以外のメッセージのやりとりが続いていき、そのうちに、彼女の存在が彼の劇風や家庭生活にまで影響を及ぼし始める―。 結局その話は、彼女の妄想に過ぎず、それどころか実際には彼女はその劇団のブラックリストに載るほど迷惑がられている存在だった。
良くも悪くもこういう思い込みや勘違いはままあることだ。 実際語られた言葉をきっかけに、あるいはネットの書き込み、あるいは態度やしぐさをきっかけに。 それが誤解や齟齬、とまどい、そしてさらなる妄想を生む。 あれはわたしに向けられたメッセージだったのだろうか? ただの思い違いだったら恥ずかしい。でももしも当たっていたら―?
妄想も、「当人にとっての現実」として、心の中に都合よく収まっていられるのが1番いい。所詮本当のことなど誰にもわからないのだから―
飲み友達2人と、珍しくアルコールなしの食事会をした。
「TOMATOさんてさあ、始めから、絶対に当たらないとわかっている的を選んで射ようとしてるよね」と、友達のひとりから言われた。 そうだね。確かにその通りだね。なぜってそのほうが傷つかないもの。 当て損じても危険を伴わない的―。もどかしく腹立たしくもあり、結局ひとり芝居で終わることが多いけど。 それを楽しんでいるのも事実……なんだ。
2004年08月07日(土) |
大きなお世話につき…… |
高齢化がすすんできた我がご近所。今の時期、帰省してきた孫の影響で、子供の人口密度がぐっと増す。
通勤の行き帰りによく出会う保健師さんとアルバイトさんの2人と、最近話しがはずむようになった。 先日、ふとしたきっかけで、3人とも、ひとりっこの息子を持つお母さんと判明。年頃はまちまちだけど。 半分冗談で、「ひとりっこの男の子を持つ母の友の会として、たまにランチしよう」ということになった。お互いの共通性から、親しみの糸口を見出そうとするのはありがちなことである。 でも、共通なのは外観だけでなく、世間さまからのメッセージに微妙に傷ついているということだ。 「ひとりだけ産むんだったら女の子がいい」という、”わたしのお人形(ペットともいう)”欲しさ説に……。 「お・ひ・と・り?」というさりげない質問に……。 「兄弟がいないとかわいそう」というウワサに……。 兄弟がいないと本当にかわいそうなんだろうか?なついていた兄弟が途中から居なくなることは確かにかわいそうなことかもしれないけれど、もともと居なかった場合はどうなんだろう。 親にしてみれば、彼らの死後、ひとり取り残されてかわいそう、ということでもあるらしいが、遺産をめぐってのトラブルも起きない分、わずらわしくない。 確かに居てくれてよかったという兄弟をお持ちの方もたくさんいるだろう。私自身ひとりっこなので、兄弟の良さと言うのは本当にはわかっておらず、何となく「ないよりあったほうがいい」ような、気はしていた。かわいそうだと言われ続けると、本当にそういうような気がしてくるから怖い。 もしかして2人目、3人目を産むために、自分の人生諦めた人の流したデマだろうか?……などと言うと、ひがんでるんじゃないの、と言われそうでこれまた癪のタネである。 ひとりっこであることがかわいそうなのではなく、そういう目で見られることこそが不快なのである。 かく言うわたしが、もし3人4人の子連れママだったらどうするだろう。自分の時間がとれずにイライラしていても、そんなことはおくびにも出さず、余裕の笑みなぞ浮かべて「おひとり??」なんて聞いたりするのだろうか。相当ヤな女だ。
「YAKUNIN(役人)からYを取ったら、AKUNIN(悪人)だね」と言って喜んでいらっしゃる方がいた。なぜYを取らなくてはいけないのかよくわからないけど、まずまずの発見である。
鏡に映る自分の顔が、自分であるような実感が持てないで過ごしてきた時期が長かった。最近ではちゃんと自分のように見える時が増えた来た。 価値観や、考え方の変化っていうのは、ゆるゆると徐々にやってくるように思っていたけれど、わたしの場合は、「ある日、ふたを開けてみたら変っていた」というのが実感である。毎日チェックしているわけではないのでそう思えるのかもしれない。 周りの価値観や環境が変化してくれたということもあるし、自分が年を重ねてあきらめた、というものもある。こだわっていたものが、良い意味でどうでもよくなったというものもある。 で、一方では、変らないものはやはり変らない。相変わらず。なんでかというと、実は変わりたいと思っていなかったから。どんなに不協和音を奏でようとも、自分でもてあまそうとも、自分にとって不自然なものにはなりたくないのかもしれない。
休日の朝寝の時間帯に、たまにやってくる金縛り。 たんすや電気、周りの景色はおぼろげに(近眼のため)見えている。 頭だけが、枕の底の底までずぶずぶと落ちていくような感覚。 手は何かを掴もうとして泳ぎ、声も何となく出ているような気がする。 ずんずんと沈んで沈みきり、力尽きたところで頭がはっきりする。 最初から最後まで、ああ、やって来たと自覚しているので恐怖心はない。 なぜか心地よくて好きなひとときである。
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