気ままな日記
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中山可穂著「サグラダ・ファミリア」を読む。 彼女の小説を読むのはこれでまだ3冊目だが、小説全体からなんともいえないせつなさが漂ってくる。 既成のセクシュアリテイにこだわらない性愛 形や血縁を超えた家族 マイノリテイであることからくるコンプレックス、哀しみ 理想を追いかけた絵空事でも妄想でもなく、地に足をしっかりつけた生活するものとしての感覚と実感 「あなたのままでいいよ」「あなたの感じるままでいいんだよ」と、どういう自分も肯定してうつしだしてくれる鏡としてのメッセージ・・・ 女であるとか、男であるとか、OLであるとか、母親であるとか、妻であるとか、それ以外に、今まで存在してはいたが、名前をつけられたことによって初めてそこに居るものとして居場所を与えられ、存在を肯定されるようになったものが増えてきた。例えばアダルトチルドレンとかワーカホリックとか。 自分を定義する言葉、自分を説明する言葉としてピッタリくる言葉がひとつやふたつではなくて、たくさん見つかるといい。 自分をうつしだす鏡としての言葉。
唯川恵さんの小説「病む月」を読む。
30年以上も前に、「ひみつのアッコちゃん」というアニメがはやった。 「てくまくまやこんてくまくまやこん、(いまだに覚えているあの呪文)○○さんになあれ」と主人公がコンパクトに向かって唱えると、なりたい誰かにたちまち変身できた。 彼女が鏡の中に見ていたのは、現実の自分の姿ではない。 自分がなりたい別の誰か、今ではなく未来、今居る場所ではなくて違うどこか・・・。
ずいぶん前にうけた心理検査で、 「鏡にうつった自分の姿が他人のように思えることがある」という項目があった。 回答は(いつもある)(ときどきある)(そういうことはない)の三つから選択する形式だったか、それともそう思える度合いをパーセントで答える形式のものだったか今はもう覚えていない。 ただ、私は、ほとんどいつもそう思えると答えたことは確かだ。 そしてそれは今もそうだ。 鏡は正確。顔の細部まで細かくうつしだすことはもちろん、今ここにこうして存在しているわたしを、容赦なく指摘する。 人生のおよそ半分を生き終ったわたしを遠慮なくうつしだす。 どんなに認めたくなくても否定しようとも、「あなたは今、そこにそうやって居る。ほかのどこでもなく、そこにそうやって立っているのよ、そしてこれからもずっとね。それがあなたなのよ」。 わかりきったこのことに心のどこかで抵抗する自分がいる。 「ここではない、どこか」「今ではない、いつか」「現実に目の前にいる人ではない、別の人」・・・そして今わたしが歩んでいる人生ではない別の人生。
わたしが鏡の中に見たいと思っているものは何? 見ることを否定しようとしているものは何?
目の前にうつった自分の姿と妥協できる日はくるだろうか。
午前中は、3ヶ月ぶりにプールへ行く。 ゴミ焼却の処理過程で発生する熱を利用した温水プールとお風呂。 先月できたばかりである。 透明な水と、清潔な施設、目の前に広がる東京湾と行き交う船・・・。 夏休み前の平日とあって、静かでゆっくりとした雰囲気が流れていた。
午後は、息子の中学校で3者面談。 中学校にはいって、このての呼び出しが多くなった。 わたしは、この担任の女性教師が、家庭訪問以来、どーも苦手。 なんとか息子の至らない点や問題点、治した方がいい点をほじくりだして、わたしを不安がらせ、「お母さん、こんなことでいいんですか!」と注意を喚起させようとしている。 でも、彼女の、息子への質問は、いつもとても詰問調。こんなふうに聞かれたり言われたりしたら、誰だって心を開く気はしないだろう。 しかしこんな場合、相手がたとえどんな先生であろうと、13歳の頃のわたしときたら、いい子に見えるようにはきはき愛想よく振舞ってしまい、少なくとも、同席の母をたじろがせたりはしなかった。 それを思うと、今日の息子の、教師へのやや反抗的な態度を、わたしは(親バカといわれようと)、ごくごくまともだと思うのだ(というかそう思いたいだけなのかもしれないが)。 かつての「いい子」は、「いい母」にはなれなかった。教師の微笑みの裏に隠された、あきれた表情を感じつつ、何も言えなかった自分へのふがいなさを抱え、持ち時間の半分の時間でそそくさとその場を引き上げたのだった。
先月終わりごろから始まった耐震工事を兼ねた家のリフォーム。 浴室や洗面台を新しくし、台所の設備は最新のものに、 傷んできた壁紙は綺麗に張替え、子供部屋はもう少し広く・・・。 新旧入り混じった継ぎはぎだらけの家 いくら上っ面だけを塗り替え張替えしても、1度くずれかけたものはもとにはもどせない、その下のほころびまでは隠せはしない。 あくまでも「家」という器にしがみつこうというのか。
ずいぶん前に観たビデオ。 ケビンスペーシーの「shipping news」。 血縁というしがらみ、古くから村中に伝わるその家のいまわしい過去 強固なその家も、自然の猛威の前には跡形もなく崩壊する そしてそのあとに予感させたのは、血縁によらない親密な人間関係の始まりだった。
先だっての「もてあます」に引き続き。 ずっとずっとこんな風に毎日毎日同じようなことを繰り返して生きていくことの不安。 とりたてて大きな問題が身のまわりにせまっているわけではない。 でも・・・。 何をやったらいいのか、何を書いたらいいのか、わからなくなる。 自分の、他人の、現実や限界を受け入れがたく思っている。 何をやっても、核心を避けて行動しているような気がする。
脇目も振らず必死にやってきた一ヶ月 何とかやれそう、まだまだ新しいことが一杯ありそうだけど、先月ほどのしんどさはもう、ないだろう・・・、とホッとひと息ついた、その心の隙間にしのびこんでくる、感情の嵐。 寂しさ、嫉妬、虚しさ、せつなさ、怒り・・・。 他人と居ると疲れる、それなのに誰かにずっとそばに居て欲しい。 大嫌いと大好きの間を行ったり来たり。 自分で自分の感情のおもりができなくなる。 こんなことしていていいんだろうか? 自分と向き合うことから逃げてない? 現実を受け入れることから逃げてない?
自転車こぎながら涙、スーパーで買い物しながら涙。 何やってんだか、わたし。 周り見てごらんよ、電車の中で泣いてるのは赤ちゃんだけだよ。
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