Experiences in UK
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2005年06月20日(月) 第97週 2005.6.13-20 政治ショーの一環としてのライヴ8、ライヴ8への冷ややかな見方

ようやくロンドンの気温が上がり始めました。週末には最高気温が30度を超える夏日となりました。大陸欧州では熱波で水不足が発生している国もあるようで、今年の夏は英国も暑くなるかもしれません。

(政治ショーの一環としてのライヴ8)
来月2日(土曜日)、ロンドンをはじめとした世界の主要都市において、Live8と称される大規模なチャリティ・コンサートが開催されます。オーガナイザーは、20年前にもエチオピア飢饉を救うためのチャリティ・コンサートLive Aidを企画した英国の元(?)ロッカー、ボブ・ゲルドフです。

今回のLive8は、Live Aidと類似した音楽イベントではあるものの、根本的なところで違いがあります。
まずコンサート開催の趣旨ですが、前回のように具体的な国の具体的な問題を解決するために開催されるわけではなく、アフリカの貧困問題に対する大衆への注意喚起が目的とされています。背景には、来月6〜8日にスコットランドのグレンイーグルズで開催されるG8サミットにおいて、英国政府がアフリカの貧困問題を議題の一つとして提示していることがあります。Live8は、そのような英国政府の姿勢を側面支援しようとするものです(Live8の8はG8諸国を指すらしい)。
以上のような趣旨のイベントであるため、今回はチャリティ募金を集めるなど資金集めは行われません。コンサート・チケットも基本的に無料ということです(スポンサー企業がついている)。イベントの目的は、あくまでも大衆の関心をアフリカの貧困問題に向けさせることにあります。

というわけで、前回のLive Aidが、(政治家には任せていられないから)一般大衆に甚大な影響力をもつロック・シンガーが音頭をとることによって世界の問題解決のために少しでも貢献しようという、少なからず反体制色も帯びた、草の根チャリティ的なイベントだったとすれば、今回のLive8は、G8サミットと緊密にリンクした政治プロセスの一環とも位置付けられ、両者はある意味で正反対の性格をもつイベントと言えましょう。
もちろん、どちらの方法が問題解決に向けた実効性が高いかはわかりません。が、Live8に関しては、ロッカーのやり口としてそれが適切か、という設問はあり得るでしょう。

今回のイベントをロック・コンサートとしてみた場合、個人的にはピンク・フロイドの再結成がビッグ・ニュースです。当地に来て初めて買ったCDとDVDがいずれもピンク・フロイドでもあったので。

(ライヴ8への冷ややかな見方)
さて、Live8というイベントを本来の趣旨から考えた場合、複雑な思いが胸にわだかまるのは私だけではないでしょう。
このようなライヴ・コンサートを開催することで、本当に人々がアフリカの問題に関心を向けるようになるのか。そもそも「アフリカの問題」って何なのか。それはどのような背景で引き起こされているものなのか。また、それは現代のすべての先進国が一致協力して何を置いても取り組むべき問題なのか。20年前のLive Aideのように、独自の活動で自らの主義・主張を自ら実行するのではなく、実際の政治の場へ圧力をかけるという今回のやり方が、果たして賢明なのかどうか。
私としては、いずれも非常に疑問です。

今回のボブ・ゲルドフの行動ないしはLive8に対する、当地メディア(芸能セクションを除く)の扱い方をみていると、一部のクォリティ・ペーパーが非常に冷めた見方の記事を掲載していたのが目を引きました。
私が気づいたところで、(常にそうですが)もっとも冷静で皮肉の効いた内容の記事を掲載していたのが、エコノミスト誌(6月4日付、”Good Rocking”)でした。ある調査会社のレポートを引用する形で、人々はチャリティ・イベントに熱狂する一方で、実際にはアフリカ問題の現実に対して冷めた考えをもっている(例えば、アフリカ問題の根幹は、腐敗した政権の存在など内政の問題にあり、先進国が債務削減を実施してもその効果は限定的と考えている)ことなどを紹介し、淡々とした筆致ではあるもののチャリティ・イベントの上滑りした部分を的確に指摘していました。

また、FT紙(6月11日付、”Africa cannot be healed overnight by hype and rock”)にも、安易な発想に立つチャリティ・イベントは問題の解決に役立たないばかりか、むしろ害悪をもたらすだけであるとの否定的な論説記事が掲載されていました。
今回のようなアフリカを一括りにした大雑把な問題提起は、何ら現実的で有効な解決策をもたらさないとし、かつLive Aidの時に1億ドル以上の資金が集まったといっても、それは政府や国際機関が行っている援助額の0.5%に過ぎないこと、さらにアフリカ最貧国の人々が本当に欲しているのは、物資よりも信頼できる政府の樹立であるということを指摘していました。

その他、一連のIndependent紙の記事(例えば、6月5日付、”Media: Papers love simple slogans. Geldof provides”)は、他と比較してホットな(感情的な)批判を展開していたように感じました。同記事では、昨今、ボブ・ゲルドフの行為が無批判に賞賛される風潮があり、それに悪乗りする一部メディアの安易な姿勢を痛烈に批判していました。

チャリティなどに慎重な日本人の一人として、「何もしないよりも何かした方がいいに決まっている」といった調子の問題提起には、私もついて行けない面があります。
安易な問題提起と解決策の提示は、アフリカ諸国が抱える複雑な問題に対して人々を思考停止に陥らせるだけではないかというのが個人的な考えです。ましてや、多くの課題を議論するべき国際政治の場に対して圧力を行使して、その安易な解決策を実現しようとする姿勢には、もはや低次元での独善、あるいはポプュリズムではないかという印象をぬぐうことができません。

立場・考え方の違いはともかく、一般世論が突如として「アフリカ問題」に目覚め、チャリティ・イベントで盛り上がっている時に、上記のような中身のある批判記事が出てくるのは、英国メディアの健全性を示すものといえましょう。


2005年06月13日(月) 第96週 2005.6.6-13 ハロッズと日の丸、ライオンズの遠征始まる

(ハロッズと日の丸)
ハロッズといえば、押しも押されもせぬ英国デパートの最高峰です。ロンドンでもっともお洒落な地域の一つであるナイツブリッジの中心に位置し、他を圧する店構えはこの地域のシンボルとなっており、つねに多くの観光客が記念撮影している場面に遭遇します。
実のところ、何をもって最高峰といい、なぜハロッズがそうなのかは必ずしもよく分かりませんが、「英国で最も権威のあるデパートはどこか?」と問われた場合、99%の英国人が「ハロッズ」と答えるでしょう。そういうことになっているのです。そして、きっとハロッズ自身もそう考えているでしょう。
英国屈指のデパートではありながら、現在のオーナーはエジプト人のアルファイド氏であり、その息子とダイアナ元妃がデート中に自動車事故で亡くなったことは、よく知られた事実です。

通りに面したハロッズの正面には、常時、何本かの大きな国旗が掲げられています。通常、一番端に英国のユニオン・ジャックが翻っており、イングランド、スコットランドなどの旗に混じって真ん中当たりに米国、日本の国旗が配置されています。観光名所でもあるハロッズにとって、アメリカ人や日本人にサービスをするのは当然なのでしょう。

そのハロッズの筋向かいの区域一体で、現在、大規模な建てかえ工事が行われています。もとあったビルがすべてとり壊され、フェンスで覆われた敷地内には、何台もの工事車両が入れられています。新しいショッピング・モールらしきものがつくられているのでしょうか。
道路に面したフェンスに工事後の近隣の完成予想図が描かれているのですが、その絵の中のハロッズには三つだけ国旗が描き込まれています。一番手前がユニオン・ジャックで、真ん中には日の丸、奥の小さな旗はカナダのようでした。
ユニオン・ジャックは分かるとして、それ以外になぜ日本とカナダの国旗が選ばれたのか(とりわけ一番目立つ位置に描かれた日の丸)、少し気になるところです。カナダは英連邦の代表として登場しているのでしょうか。日本が加わっているのは、地域のバランスを取ったのかもしれませんし、建てかえ工事に日本資本が絡んでいるのかもしれません。答えは不明ですが、ハロッズ前を通るたびに気になります。
ちなみに、工事現場のフェンスには、新しく建てられる物件を管理する不動産会社の大きな看板も掛かっているのですが、会社の名前はDubai Propertiesというそうです。またアラブ系資本らしき名前です。

(ライオンズの遠征始まる)
2005年版ブリティッシュ・アンド・アイリッシュ・ライオンズのNZ遠征が、今月初めから始まっています。ケガに泣き続けて、当初はメンバーからはずされていたジョニー・ウィルキンソンも、遠征出発間際にメンバーに名を連ねることが出来ました。
ライオンズとは、ラグビーにおけるウェールズ、アイルランド、イングランド、スコットランドの混成代表チームの通称で(2月14日、参照)、伝統的にラグビー競技が盛んな南半球に遠征して、強豪チームとしのぎを削る目的で数年に一度結成されるスペシャル・チームです。遠征は、オーストラリア、ニュージーランド、南アフリカ共和国のいずれかの国向けに行われ(今年はニュージーランド)、各地のクラブチームや地域代表、国代表などとの試合が組まれます。

南半球に遠征する英国・アイルランドの混成代表チームの起源については、諸説あるようです。ガーディアン紙は1891年をライオンズの始まりとしており、タイムズ紙は1888年のチームをライオンズの起源としていました。
また、混成代表チームに対してライオンズの通称が用いられるようになったのは、1924年の南アフリカ遠征時以来のことだそうです。メンバーが着用していたそろいのネクタイにライオンが描かれていたことから、プレス関係者がそのように名づけたとタイムズ紙(6月4日付)の週末別冊特集号に記載されていました。

(ライオンズの戦績)
1989年以降のライオンズは、正確に4年毎に結成されていますが、それ以前は不定期にチームが組成されていました。また、過去には1年間に2度の南半球遠征をすることもあったようです。
ガーディアン紙(6月4日付)が、過去のライオンズの戦績に関するデータをまとめて紹介していました。同紙によると、これまで遠征はのべ30回にのぼり、各地での戦績は(1回の遠征につき3〜4ゲーム組まれる国代表チームとのテストマッチに勝ち越した場合、その遠征においてライオンズが勝ったとみなす)、対南アフリカ共和国が4勝7敗1分け、対オーストラリアが6勝2敗、対ニュージーランドが1勝9敗となっていました。
ラグビー競技においては、通常ホーム/アウェイというのは勝負に大きく左右する要因となるので、ライオンズの南半球遠征は厳しい条件での闘いということにはなりますが、それにしてもニュージーランドに対しては圧倒的に分が悪いという結果になっています。

前回2001年はオーストラリアに遠征し、同代表とのテストマッチは1勝2敗と負け越しています。今回のライオンズは、強豪のなかの強豪ニュージーランド・オールブラックスに対して二度目の勝ち越しを収めることが出来るでしょうか。
ニュージーランド代表とのテストマッチは、6月25日(クライストチャーチ)、7月2日(ウェリントン)、同9日(オークランド)の三試合が予定されています。


2005年06月06日(月) 第94-95週 2005.5.23-6.6 英国でみる大リーグ、日本人の異質性

(国名=イングランド?)
先日、ウェッブ・サイトであるB&Bに予約を入れようとして、ウェッブ上のフォームに従って必要事項を記入していた時のこと。自宅住所の記入欄にCountryという項目があり、プルダウン・メニューから選択する形になっていました。
当地では、英国の呼称は大まかに二通りあります。一般的には「UK(United Kingdom)」ですが、「Britain」と表記するケースもあります(エコノミスト誌は頑なにBritain)。そこで、アルファベット順に並んでいる世界の国々の名前から、それらを探そうとしたのですが見つからず、「まだ呼称があったかな」と考えた時、リストの中から視界に入ったのが「England」という「国」名でした。その時点で初めて気づいたというのは、この国に二年近く住んでいる割にはぼけているのかもしれませんが、普通に考えて、JapanやUSAと同列にEnglandやWalesが出てくるのは不自然であることは言をまたないでしょう。

(英国で見る大リーグ)
日曜の深夜、民放テレビ局チャンネル5で大リーグ中継を流す番組があります。一般の英国人は野球に関する知識も興味もゼロなので、一部マニアと在英外国人向けの番組なのでしょう。
5月30日(月曜)がバンク・ホリデー(休日)だったので、はじめてこの番組を見てみました。カードが良かったことも見てみようと思った理由の一つです。ニューヨーク・ヤンキースとボストン・レッドソックスの試合でヤンキース・スタジアムからの生中継でした。
番組のMCはチャンネル5の英国人スポーツ・キャスター(らしき人)がつとめていますが、試合の実況はアメリカの番組をそのまま流すという形です。試合が始まる前とイニングの合間にスタジオの英国人二人がぺちゃくちゃお喋りをするというパターンの番組でした。

この日、ヤンキース松井は六番に降格され、しかもDHでの出場ということで、ちょっとがっかりしました。結果として凡フライ三つの三タコと見るべき点がなかったのも残念でした。シェフィールド(ヤ)とかオルティス(レ)の文字通りメジャー級のホームランを見ることができたのは良かったのですが。
ところで、それまでの四番打者・松井の最近の不振や六番への降格について、英国人キャスターはほとんど話題にせず、日本人としては違和感を禁じ得ませんでした。また、番組冒頭では、両チームの主な選手の最近の映像が流れるのですが、そこにも松井の姿は見られませんでした。
今季はほとんど四番を打ってきたものの、英国人野球マニアの間では、まだヤンキースのスター選手として認知されていないのでしょうか。ただ、さすがにイチローは大リーガーのスター選手として認知度が高いようで、キャスターの後ろのパネルにイチローの大きな写真がはめ込まれていました。

(日英の運転マナー)
日英の車での交通マナーにおける大きな違いの一つとして、「譲り合い」の精神があげられます。
英国人ドライバーは、日本人と比べて、非常によく道を譲ります。具体的には、片側一車線の道路で道路の左側にスーパーがあり、対向車線の車が右折してスーパーに入ろうとウィンカーを出している場合、かなりの確率でこちら側の車は一旦停止してパッシングライトで合図しながら、対向車を右折させます。日本だと、信号などで車の流れが滞らない限り、なかなか入れてもらえないのが一般的ではないでしょうか。また、だからでしょうか、そもそも日本では交差点以外の場所で右折しようとすることも少ないように思います。

これは、なにも日本人が英国人と比べて心が狭いから、というわけではないでしょう。
では、英国人がなぜ譲るのか。私の推測では以下の理由が考えられます。第一に、自分がちょっと譲るだけで対向車線の渋滞が一発で解消されるのだから、ここで譲るのはきわめて合理的だという合理主義に基づく考え方が身に付いている。第二に、自分も隣のレーンをまたいでの右折はよくするから譲ってやろうという互恵主義的な発想。第三に、他人に親切を施すことで自らの自尊心を満足させさることを好む英国人の国民性。
三番目の点は、とりわけ印象論的な話ですが、昨年末の津波募金やライブ・エイド(今年はライブ8)などのチャリティ活動における英国民の盛り上がり方や日常的に接する英国人の様をみていると、英国人のこのような国民性を感じずにはおれません。このような英国人の傾向に対して偽善的という批判は簡単ですが、私にはそれだけではない日本人のメンタリティとの本質的な差異もあるのではないかと思える部分があります。

(親切行為にみられる日英の違い)
先日、近所の国道を車で走行していたところ、どうやら事故直後とみられる場面に遭遇しました。状況はよく分かりませんでしたが、当事者とみられる一〜二台の車の近くの路上にけがをした人が横たわり、数人が介抱していました。けが人の状態はさほどひどくない様子でしたが、警官や救急車はまだ到着していませんでした。
事故現場の隣のレーンを徐行しながら横目で見ると、事故の規模の割には沢山の車が現場前後に停車していました。どうやら事故現場に遭遇した人が、手助けのために自主的に車を停めていたようでした。一人の男性は、二次被害を防ぐために、周囲の交通整理をかってでていました。

日本人の場合、それなりに大きな事故で明らかに助けに行く必要があるケースでない限り、車を停めてまで他人の手助けをする人は少ないような気がします。我々日本人は、例えそれが善行であっても、周囲が十分に納得する理由がない限り、自分だけの考えで行動に移すことに対して逡巡するメンタリティがあるように思います。日本人も英国人も親切心の程度に大差ないと思いますが、それを積極的に行動に移すか否かは国民性の違いに根ざしているのではないでしょうか。
根本にあるのは、個人主義に対する温度差とその浸透度合いではないかと思います。親切行為に限らず、右に習え主義が行動パターンの根幹にあることを認めざるを得ない日本人とあくまでも個人の判断をベースにした行動原理が基本の英国人との差異です。

(日本人の異質性)
上記は日本人(私)の目から見た日英の文化比較の一端ですが、先日、ガーディアン紙に英国人の目から見た日英文化比較を論じた記事が掲載されていました(20日付、”East is east -get used to it”)。この記事においても、日英の違いの根本にあるのは、国民のエートス(個人主義か集団主義か)の違いであると論じられていました。

同記事では、(西欧と比べた場合に)日本独特なものとして観察される社会現象の例えとして、先だってのJR西日本の鉄道事故の際に同社トップが辞任することで責任を取ろうとしたことや、90年代以降に経済低迷が続いたにもかかわらず失業率の上昇が限定的にとどまった点、日本の歩行者が頑なに信号を守る点などがあげられていました(最後の点は、「西欧全般と言うよりも英国と比べた場合だけどね」として紹介されていましたが)。これらは、個人の判断よりも、集団として判断や規律の遵守が重んじられる日本社会に独特の傾向を示す証左として紹介されていました。
論者は、明治維新以降の日本は、物質的な面では積極的に西欧化を進めてきて成功した一方、社会の在り方などの面では頑なに伝統を遵守しており、昨今のグローバル化の流れにも影響されていないとしています。我々日本人しては、「精神的な面でも、西欧的な価値観がかなり浸潤してきている」と言いたいところですが、阿部謹也氏が指摘するように、やはり日本には「世間」を何よりも重んずる傾向が今も残っていることを否定できないでしょう。

ガーディアン紙論説は、このような日本の独自性について、批判するわけでも賞賛するわけでもなく、長所と短所を列挙したうえで、事実として淡々と紹介している記事でした(インプリケーションとしては、英国人などによる西欧中心主義的な思考パターンへの批判がある)。また、これは日本に限った話ではなく、中国や韓国などについても大なり小なり当てはまるだろうとも付言しています。

このような日本に対する見方は、一昔前の日米貿易摩擦はなやかなりし時代であれば、「日本異質論」として日本では不快感をもって受け止められていた意見でしょう。しかし、改めて冷静に論じられると、やはり我々の社会の独自性を認めざるをえないのかなあと思います(少なくとも西欧人からはそのようにみられていることを)。
現に、日本人のみならず様々な外国人と接する機会が多い知り合いの英国人にこの記事への感想を聞いたところ、やはりこのような主張に同意するとのことでした。善し悪しは別にして、日本人の行動パターンをみていて得られる印象は、個人よりも集団を重視することだそうです。西欧人に刷り込まれているステレオタイプな日本人観なのでは、と重ねて尋ねても、「自分の体験上からも、日本人は他のアジア人と比べても個人主義(個人の自由を認める/主張する)の度合いが薄い印象」とのことでした。

日本で「個人の自由」を強調しようとすると、すぐに放埒という連想がなされるきらいがありますが、英国における「個人の自由」を重んじる考え方とは、なにか次元の異なる議論であるような気がします。さらに言うと、英国人とこのような話をしていると、彼らの言うフリーダムは米国人のそれとも違うのだ、と英国人が言いたそうに感じる場面があります。
残念ながら、この辺りのことを徹底的に英国人と議論する英語力を持ち合わせておらず、自分で考えてもうまく言い当てることができないのですが・・・。


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