女の世紀を旅する
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2011年05月15日(日) がんばれ!野田聖子/50歳出産で育児・難病と闘う

●野田聖子/覚悟の50歳出産/育児・難病と闘う

対談相手:佐々木かをり(株式会社イー・ウーマン代表取締役)
http://ewoman.jp/winwin



佐々木 久しぶり!お花、持って来たのよ。今日は真輝君の3カ月の誕生日でしょう?
野田 そうなの。ありがとう。これを飾ろう。すごいステキ。
佐々木 赤ちゃんって、生まれたころは、今日で1カ月の誕生日、2カ月の誕生日って、感謝しながらの毎日でしょう。
野田 今日は、検診とかもあったし。
佐々木 そうか。3カ月検診。どうですか?
野田 ご周知のとおり、うちの子は普通ではなく生まれたので、人より1カ月半早く生まれて、なおかつ、ずっと病気だから、いわゆる育児本の成長育成とは大きく外れちゃって。看護師長さん、昔の婦長さんに、「育児書は読まない、見ない、その子の個性で生きていきますから」って言われて。最初は育児書を見て、落ち込んだの。母子手帳の裏にも書くものがあるでしょ。マジメに書いてたら、どんどん離れていくから、滅入るなって。
佐々木 あ、母子手帳の後ろの身長体重の成長記録をつけていくグラフですね。
野田 そう。どんどん平均値から息子が離れていくのがつらくて。そうしたら、そういうふうに言われて。とにかく前に進めばいいやって。体重も身長も。ようやく3200グラム。
佐々木 すごいじゃない!
野田 今、完全母乳なの。
佐々木 私も、1人目は6カ月間、完全母乳でした。
野田 よくできたね。
佐々木 どうやっていたんだろうって思うわね。搾乳機も使ったし。
野田 昔は手動でしょ?
佐々木 そう。今は違うの?
野田 おかげさまで今は電動なの、うるさいけど。
佐々木 そうなのね。私は赤ちゃんを会社に連れて行っていた時期もあるし、その後は、会社で搾って、冷凍して、家に持って帰ってました。
野田 私も同じ。あまりに病気持ちさんだから、小さいことでもうれしくなってくる
佐々木 最初の頃は、1日14回とかあげてたの。10cc とか30cc とか少しずつ。でも体重が少しでも増えていればいいんですよってお医者さんが言ったので、6カ月間。
野田 すごくない?私は残念ながら子どもがいないので、搾るばかりだけど、それでも1日5回、できれば6回搾乳するんだけど、くたくたになっちゃって。
佐々木 全部栄養を吸い取られる感じだからね。でも素晴らしいね、完全母乳なんて。それに3200グラムとなれば、もうずいぶんしっかりしてきているでしょう。
野田 生まれたときが34週目。もう少しで35週いうところで取り上げてもらったんだけど、そのときは2154グラムだから、約1キロ増えた。
佐々木 すごいと思う。
野田 うちの子は口から飲めないので。
佐々木 どうやって飲むの?
野田 十二指腸に管を入れて、そこから点滴のように、1時間で19cc入れてるのかな。1日で400ccちょっと。私が搾って出るのは300cc前後なんだよね。だから完全に需給バランスが狂っていて。
今までは、彼が手術とかをすると飲めない日数があるから、その間に稼ぐというか、ストックして。でも今はそのストックがどんどん在庫整理されていて、今月で逆転されちゃう。
佐々木 嬉しい逆転。直接母乳をあげるということは、まだ全然できない?
野田 まだできない。うちの子の場合はいろいろな疾患を抱えていたうち、食道閉鎖症というのがあって、食道が胃と離れていたもんだから、これが結構、厄介で。つないでもリークしていて、つないだところから漏れてしまう。そうすると、ミルクが外に漏れて肺にいったら危ないということで、まだ口からは1度も飲んでいなくて。それでも太っていく。
佐々木 うれしいね。
野田 あまりに病気持ちさんだから、小さいことでもうれしくなってくるよね。
佐々木 たぶん生まれた後も、たくさんのアテンションが欲しかったんだよ。
野田 神様の方で、いつも威張ってるから、少し困らせてやれと、私に。それでうちの息子が「分かりました」と。
佐々木 そうね。
野田 四六時中ずっと心配しているんだけど、時折いいことがあると、過去の悲しみがすうっと流れていくじゃない。面白い経験をさせてもらっているなと。
佐々木 すでに真輝くんは、4回手術をした?
野田 今までね。生まれたときに胃ろうといって、食道閉鎖症のため口から飲めないので、その手術。2回目は臍帯ヘルニアといって、おなかの肝臓が飛び出ていたので、それを中に押し込む手術。
佐々木 肝臓は、今は大丈夫?
野田 今は大丈夫。それで3回目が胃と食道をつなげる手術。4回目は肝臓を入れたときに、肝臓が大きすぎて、おなかの皮がつながらなかったのね。だから当て布をしていたわけ。ぬいぐるみみたいなんだけど。それを取って、彼自身の筋肉とおなかをつなぎ合わせる手術。4度やって、5度目が心臓の暫定手術というか、心臓のバイパス。うちの子は心臓の疾患が一番多くて。穴が開いていて。
佐々木 うちの子も、穴が開いてるのよ。
野田 開けたまま?
佐々木 うん。
野田 大丈夫なんだ?
佐々木 上の子は生まれたときに、3日目ぐらいかな。病院で先生が突然、「心臓に穴が開いてますよ」って言うの。私、そんな病気、全然知らないから、「心臓に穴が開いてます」って言われた瞬間に、私は「あと5日で死にます」と聞こえて、自分のベッドに戻って、カーテンを閉めて、何時間も泣いた。
野田 私の友達もパニくったもん。
佐々木 後で聞くと何でもないんだけど。
野田 100人に1人ぐらいは開いてるんでしょ?
佐々木 そうらしいです。わが子は、心室中隔欠損。
野田 同じです。
佐々木 本当?今、16歳の女の子で、今も開いているけれど、男子の野球部に女の子として初めて入って、男の子と一緒にヘッドスライディングをやって、猛練習したり、駅伝走ったり、遠泳したり、激しい運動も全然平気。
野田 すごいね。塞がらなくても大丈夫だったの?
佐々木 塞がってないですよ。ずっと、半年に1度、検診はしていたけれど、それも今は1年に一度。今は4ミリぐらい開いてるのね。医学って進歩するでしょ。だから私、しなくてよい手術なら、先送りしようと考えたのね。16年前に手術しなくていいなら、後ろに伸ばした方が医学も技術も進歩すると思ったから。必要ないなら、将来に伸ばしたほうがいいかな、と。
小児医療ってすごいなって
野田 そのとおり。私の子どもも、かつては治らなかったと思うんだけど、今の医療はすごい。それに今できないことは先送りでいいと思うし。うちの子は、穴が開いているのと、肺動脈がないというのか、1本どこかに置いてきちゃって、それがないから、血液の循環が難しくて。最終的にはもう少し大きくなったら、肺動脈の人工血管という素晴らしいものがあるから、それに置き換えようと。

でもこの4カ月、息子の病気を通じて、初めて医療を学んだというか。私は元気だったし、周りの家族も元気な人ばかりで、医療というのは頭で分かっていても、現場を知らなかったから。特に小児医療ってすごいなって。
佐々木 今は胎児医療もあるしね。
野田 だからうちも胎児のときに疾患が分かっていたので、「胎児のときに治療ができませんか?」って。「それはできません。でも生まれてからすぐにできるから」と先生に言われて。人それぞれなんだろうけど、私の場合は、超音波エコーのとき、15週ぐらいで、心臓が悪いこと、肝臓が飛び出ていることが分かっていた。これは大変なことだけど、先生が「大変だけど、やれないことはない」と。
もし先生にお手上げだって言われたら、しょうがないと思ったんだろうけど、そういうケースは2万人に1人とかと言われて。でもそういう人がいても治っているんだなって思ったから、割と、くよくよせずにいられた。
佐々木 羊水検査をしなかったって、本に書いてあったんだけど、私もそうでした。私は、1人目は35歳で出産だから。
野田 今の35歳とは違うじゃない。16年前の35歳だから。
佐々木 そうよね、それ、聖子ちゃんしか言えない!
野田 それって、やっぱりいろいろ言われる。
佐々木 そうね。そもそもワーキングウーマンで出産、というのも、珍しかった。
野田 丸高って言われてたんじゃない?
佐々木 十分な丸高だし、働いていて、仕事をしながら、子どもを生むというのも珍しかった。でも2センチぐらいの赤ちゃんがおなかに見えて、ドキンドキン心臓の音が聞こえたときに、私は「いいです」と。腕がなくても、脚がなくても、3本生えててもいいですと言って。羊水検査をして、逆に、そこで、「どうしますか?」って言われても、別に生み育てる以外の選択肢は私にはないから、羊水検査はしません、と。
野田 うん。私は奇形のことが分かっていた次の段階での羊水検査。ドクターに「何で羊水検査をするんですか?羊水検査をすれば、子どもが助かりやすくなるんですか?」って聞いたの。そしたらそれは関係ないって。要するに、染色体を調べると。22週までに堕ろす前提の人が、基本的にやる。もちろん私はその気はないので。
佐々木 私もそうだった。
野田 子どもが苦しんだら、かわいそうだなって思ったけど、病院で最善の努力をしてもらえば、生まれてこないよりは、生まれてきた方がいいんじゃないかなと思った。
佐々木 賛成。それにしても、頑張ったね。
野田 母子ともどもクタクタで。
佐々木 本を読ませていただきました、2冊。『生まれた命にありがとう』と『この国で産むということ』。
野田 ありがとうございました。根津先生とのね。かをりちゃんもまだ産めるんだよ。私は一番最悪のパターンの妊娠、出産だったけど、うれしいから。私ぐらいひどいのはあまりないと思う。難産のフルコースみたいになっちゃって。母子手帳を見ると、ダァーッて病名が書いてあって、子どもも散々書いてあって、こんなに汚い母子手帳はあまりないだろうなって。
佐々木 でも立派だと思う。
野田 でも私は50歳で産んだから、ゴチャゴチャになったのではなくて、たまたま私がそうだったけど、50歳で安産の人はいっぱいいるから。
佐々木 そうだね。それもそうだと思う。本にも書いてあったけど、こういうケースだからだろう、年齢だからだろうと、ステレオタイプに入れてほしくないということね。
野田 そう、個々なのね、妊娠、出産は。私よりももっと若い人たちが早産しちゃったりというケースもあるし。
佐々木 そうね。いろんな妊娠、出産がある。私は、一人目の妊娠は全く気づかず、ある日気持ちが悪くなって、湿疹みたいなのができたので、こんなに毎日気持ち悪いなんて、どこかがおかしいと思って、人間ドッグを予約したら、1カ月待ちだった。その間に妊娠だと分かったんです。
野田 それも結構、おかしいね。これだけ仕事がバリバリできるのに。
佐々木 それに聖子ちゃんとは全然違って、私出産4、5時間前まで仕事をしていたの。海外出張も行ったし、臨月でも講演してた
野田 それが理想だったのよね。ハッピーマタニティーライフ。
佐々木 ハッピーかどうかわからないけど。でも最近は、妊娠して、すぐに何カ月も寝込んじゃうとか、出血を繰り返すとか、早産してしまうとか、流産してしまうとか、そういう人が周囲にも多くなった感じがする。
野田 結局ね、原因とか全く分からないのね。年齢もバラバラだし、症状もバラバラ。私の切迫早産もそうだし。
佐々木 たぶん、この国を変えてほしいからだよ。
野田 そうだね。
佐々木 私はそう思う。この国のいろいろな法律を変えて欲しいから、たくさんの体験をしてもらっているのではないかと。
野田 本当にね、チャイルドファーストと、公明党は少子化対策としてよく使っていて、自民党はあまり使ってくれないけど。私は、毎日、病院に行くたびに一番リスキーな子どもたちに会ってくるじゃない。それは早産だったり、成長が遅れているとか。昔はいろいろ大変だったろうけれど。でも医療のおかげで、今は元気に育つ子が多い。こういう最先端の医療を今まで知らなかったことを政治家として恥じるし、何よりも現場を知らなかった。少子化対策として国は小児科や、小児医療の分野に、もっとお金も充足すべきなのに現状はそうではない。
佐々木 そもそも子どもを産みたいとは、若いときはあまり思ってなかった?
野田 ずっと思ってた。というか、産み、育てるのが当たり前という発想。
佐々木 いつか産めばいいやと思っていたら、ということ?
野田 結局、気が小さいから、周りの人に、「結婚どころじゃないだろう、こんな仕事をやっていて」って。普通のOLと同じですよ。「こんなときに結婚?」「こんなときに子ども?」と言われ続けてきた1人。それに抗えなかった。
子どもが欲しい、子どもが欲しいと思いながら、川の流れに身を任せて。普通の人のように。じくじたる思いでやってきて、ようやく結婚できたのが40歳だったというのが私。周りを困らせてまで、結婚しようという意欲がなかったのかな。はっきり言えば、そこまで好きな人がいなかったというのもあるんだろうけど。
佐々木 日本のバリュー、物差しを変えていかないと、変わっていかないものがあるような気がするのね。長い時間働いて、土日も出勤するのが熱心な仕事の仕方だとか、そのときは結婚がダメで、子どももダメだったり。あるいは子どものために6時に家に帰るなんて、ふざけるなとか、ビジネスがうまくいってないのに何が子どもだ、とか。そういうマインドが、政治の世界でも同じだったわけでしょ?
野田 同じ。
佐々木 それがそもそも変わっていかないと。
野田 今言った、日本の物差しって、ネクタイを締めて、スーツを着て、少し加齢臭が漂うような、頑なで古臭いものなのよ。私の職場はそれしかない(笑)。
佐々木 よく飛び込んだね。
野田 分からなかったからじゃない。私の祖父が政治家で、結構いい人だったから。そんなにあくどくなくて(笑)。有名にもならなかったけど、悪い人じゃなかったから、政治はいい仕事だと思ってた。祖父からは、政治家は法律を作る人だと聞いていたから、本当に学校で教わる三権分立の1つの立法府で法律を作って、世の中をよくするって小さいころに聞かされていたから、こんな生臭い人たちだとは思ってなかった。
佐々木 大学のときは島ちゃんだったでしょ?
野田 そう。島ちゃん。
佐々木 だから、政治家として出て来た時、顔を見ると、知っている気もするんだけど、でも名前を見ると、野田聖子。そういう名前の子って、いなかったなあ。人違いかなって、最初の頃思ってた。後で学習をしたら、野田姓を残したいという強い思いをいろいろなところで語ってるじゃない。
野田 そうそう。
佐々木 初めは島ちゃんだったから、何で野田姓にこだわるのかと思ったら、おじいさまが野田姓でいらっしゃる。


2011年05月05日(木) 「日本株買い」の復活

「日本株買い」の復活


2011年 5月 3日 15:28 JST

長引く経済停滞に加えて大震災と原発事故の打撃を受けた日本株に対して、世界のミューチュアル・ファンドのファンドマネジャーの多くは新たな価値を見出し3月11日の震災後に日本株を買い増している。

 日経平均株価は震災直後の2日間で16%急落したが、その後5日間でおよそ12%反発。最近では、被災した福島原発からの放射能漏れが続くにもかかわらず、日経平均は9850円付近で推移している。




●地震と津波によって日本の存在が再認識された

 ファンドマネジャーの中には、世界の投資家にとって震災が転機になったと考える人もいる。投資家のセンチメント、資金移動、日本の長期経済見通し、 日本株の値ごろ感はすべて、日本が再び国際資金の投資先として選好される市場の1つになる可能性を示唆しているという。株価の急反発は、その幕開けを告げ ているのかもしれない。


 マシューズ・ジャパン・ファンドとマシューズ・アジア・パシフィック・ファンドを運用するポートフォリオマネジャーの石田泰三氏は、「市場が日本を 見る目が大きく変わった」と指摘する。震災のニュースがメディアで大きく取り上げられていることで、「日本が国として再認識されるきっかけになった」と言 う。


●資金の流入

 震災後に約1億ドルの資金がマシューズ・ジャパン・ファンドに集まったと石田氏は話す。ティー・ロウ・プライス・グループによると、外国人投資家は3月末まで12週間連続で日本株を買い越した。


 3.3億ドルの運用資産を有するマシューズ・ジャパン・ファンドは、震災前から日本株の買い増しを始めていた。日本株の割安感に加えて、今後円安が進み、世界需要が増加することが日系輸出企業にプラスになるとの見込みから、石田氏は2010年10月に同ファンドの日本株組み入れ比率を30%から 40%に引き上げた。


 震災と、被害を受けた東京電力の福島原発の事故による停電と放射能漏れは、日本経済に大きな打撃を与えたが、過去の例からすると早期復旧が可能と思われる。


 何しろ日本は、第二次世界大戦で焼け野原になった後わずかな期間で世界第2の経済大国になり、1995年の阪神・淡路大震災後の素早い復興でも世界を驚かした国である。


 今回の震災による3万人弱の死者・行方不明者は戻らないが、地震で破壊された茨城県の高速道路がわずか6日後に復旧するなど、生存者はすでに復興への決意を示している。


 野村證券は、震災の影響を反映して2011年のGDP成長率予想を0.4%から0%に引き下げたが、復興需要による押し上げ効果を見込んで2012 年の成長率予想は2%から2.2%に引き上げた。野村のアナリストは、工場の操業再開や生産拠点の移転などによるサプライチェーン問題の解消に伴って GDPは拡大し、復興需要で経済成長はさらに加速すると見込む。


●過小評価されている日本株

 震災直後の株価は正当化される以上に下落したという見方から、日本株を買いに走った外国人投資家もいる。

 多くのポートフォリオマネジャーは、震災直後の市場において、被害を受けていない銘柄までも見境なく日本株が売り飛ばされるという、典型的な「パニック売り」がみられたと言う。


 オークマーク・インターナショナルなどの運用を手掛けるデービッド・へロー氏は、今こそが長期投資家にとって「短期的な焦燥感に乗じる好機」であると話す。長期的に日本株が過小評価されてきたことが、さらなる資金流入につながると見込んでいる。


 へロー氏のファンドは、3月1日時点のドル建て資産総額では23%を日本に投資していたが、震災後の買い増しで保有する日本株が10%増加。同氏 は、飽和した先進国の企業は将来性がないと考える投資家もいるが、企業価値は、「会社がどこにあるかではなく、どこでキャッシュフローを稼ぎ出しているか に基づいて見極めないといけない」と言う。


 へロー氏や他のファンドマネジャーは、海外市場が売り上げの大部分を占めるにもかかわらずに十把一からげに「日本株」としてみられている企業の例として、キヤノン、トヨタ自動車、ソニーなどを挙げる。これらの銘柄は低迷する国内経済と結び付けて考えられるため、業績成長が株価に反映されにくい。


 ティー・ロウ・プライス・ジャパンのポートフォリオマネジャー、キャンベル・ガン氏は同社ウェブサイトに掲載したインタビューで、「バリュエーショ ンで見ると、日本株は震災前からかなり割安だった」と述べている。さらに、震災後の株価急落でその傾向が強まったため、「市場が落ち着きを取り戻せば、今 後1~2年は日本株が他市場をアウトパフォームする可能性がある」と話す。

 日本株は相対的に海外の株式よりも割安だ。マシューズ・インターナショナルの石田氏によると、震災前の日経225採用銘柄は平均してPER14倍、PBR1倍で取引されていた。



●日本株のMSCI EAFE(米国を除く先進国市場)指数にしめる比率

 比較として、S&P500構成企業は3月31日時点でPER約16倍、2010年末の平均PBRは2.2倍だった。

 日本株は1980年代に海外の株式をアウトパフォームしたが、1990年代に入って成長率に対して割高感が強まったため、投資家は日本株を売り払ったと言われている。ピーク時には、日本株は平均してPER35倍、PBR2倍で取引されていた。

 2000年代には、日本の輸出企業が1980年代のバブル期に利益成長をけん引したアメリカ市場に加えてアジアの新興国でも事業展開を始めたことで成長率を取り戻したが、株式市場はおおむね低迷。日本は中国やインドなど急成長を遂げる国々の影に隠れることになった。


 日本市場の停滞は、(ヨーロッパ、オーストラリア、極東)指数の組み入れ率にも明らかである。1988年に指数の65%を占めていた日本株は、2010年末には 2000年代初頭と同水準の22%まで落ち込んだ。世界中の株式を運用するファンドマネジャー達は、指数が示すよりも日本株の保有を減らすことで、ファン ドのパフォーマンスを上げることも多かった。


●日本に目を向ける


 そうなると、日本市場をこれだけ長く無視していた外国人投資家が、今なぜ日本株を買い始めるのか、という疑問が湧いて来る。

 マシューズ・インターナショナルの石田氏は、震災が世界経済にとっての日本の重要さを再発見する機会になったのが理由だと話す。工場が被災したことで、自動車部品から半導体製造装置まであらゆる物が国際的に不足した。

 石田氏は「今でも多くの製品が日本で生産されていることが明らかになった」と述べ、震災後の供給不足で、多くの人が「生産拠点」としての日本の役割に気付かされたと言う。

 モーニングスターの投資信託アナリスト、ロブ・ウェリー氏は、震災が、一部ファンドマネジャーが待っていた日本市場への突破口になったと指摘する。

 「ファンドマネジャーは皆、日本で買いたい銘柄のリストを持っている」と話すウェリー氏は、「今までは値ごろ感がなかったため、買い時を待っていた」と言う。「その買い時がこのような大惨事によってもたらされるとは誰も予想しなかった」と付け加えた。

 (筆者のロブ・カラン氏はテキサス州デントン在住のライターで、ダウ・ジョーンズ・ニューズワイヤーズとウォール・ストリート・ジャーナルのコラムニスト)

記者: Rob Curran


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