女の世紀を旅する
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2007年09月23日(日) 永六輔 『親と子』



永六輔 『親と子』





著者(永六輔)は,本書(岩波新書)の「まえがき」で,「20世紀にはじけてしまったのは,経済や政治,科学だけではない。『親孝行』もはじけてしまい,21世紀は,『親と子がどのように向かい合うのか』を探さなければならない」と書いている。親子の断絶,家庭の崩壊といったことがしきりにいわれる。

最近の子供たちはケータイやゲーム機やパソコンのなかに浸り,人との生身の関係を嫌い,自分のカラに閉じこもってしまいがちだ。野性的なたくましい生命力と人とのつきあいを失ってしまった現代日本社会の病んだ現実のなかで,子供を「まともな人間」として育てていくことがきわめて重要な課題となっている。甘やかされて育った子が厳しい社会に出たらどうなるか。

そもそも社会自体が病んでいるのだから,教育や躾(しつけ)の舵取りが相当に難しい。どうしてよいか,途方にくれている親も多いだろう。あなたの家では,親子の会話はしっくりいっているだろうか。親子が互いを理解し合っているだろうか。この本には,親と子の関係を考えるのにヒントとなる知恵がぎっしりつまっている。





●親子はきちんと向かい合おう,本気で勝負しましょうよ。

「親子というのは,親子でなきゃいけません,親子は友達じゃないんですから」
★親子の関係を,夫婦のようにヨコにして考えるのが,ニュー・ファミリーであり,友達のようにつきあう親子はうらやましがれた。そこには,親と子の両方で,これまでの〈親孝行〉のような,タテの構造を否定するあたらしい関係がある。
 そこから,〈子供の世話にはならない〉という意識が生まれるのだが,なかなかそうはいかないという現実に引き戻されるのである。


「わたしたちって……親と子でなきゃ,うまくいくんだよね」
★他人どうしだと,年齢差をのりこえてうまくいくのが,親と子を意識すると,とたんにギクシャクしてしまうことがある。他人どうしが憎みあうよりも,さらに憎悪することもある。それが親と子なのだ。


「父親が死んでも仕方がないところがあるけどね,母親が死ぬのは許せません」
★戦場で,「天皇陛下万歳」と言って死んだ話しは聞かない。もっとも多いのが,「お母さん」「おふくろ」「母ちゃん」,つまり母親を呼びながら息絶えたという話。これは日本だけでなく,外国にも「ママ」と叫んで死ぬ兵隊の話が残っている。


「10人の子供を育てた親はいくらでもいる。一人の親を最後まで世話する子供はめったにいない」
★10人とまでいかなくても,子供をたくさん育てると,その母の苦労する姿が子供たちの目に焼きつけられる。お母さんに楽をさせたいと思えば,孝行はあたりまえになる。

●「家のなかで示す教え」
宗教というと,イスラーム教とか,キリスト教とか,仏教とか,すぐ浮かびますね。でもその前に,宗教という字をよく見てください。「宗」はウカンムリのなかに示すと書きます。ウカンムリとは家のことです。で,「教」は教えですね。つまり,「家のなかで示す教え」,それが宗教なのです。

 その宗教がみなさんのお家のなかにあるかどうか。たとえば,ごはんを食べる前に,かならず「いただきます」と言う。食べ終わったら,かならず「ごちそうさま」と言う。そういうことが,家の中できちんとできているかどうか。
 もし,できていないとすると,いかにご信心が厚くても,その家に宗教があるとは言えません。家のなかで示す教えがないのですから。

 たとえば,いまの子供たちは受験勉強で大変です。それで,お盆がきて,「お盆だから,おばあちゃんのお墓まいりに行こう」「おじいちゃんのお墓まいりに行こう」という話が出たときに,受験生の子供に,「おまえは受験があるのだからうちで勉強しろ」と言って,一人だけおいて行っちゃうことがあったりします。これじゃダメなのです。
 受験生がいるのだったら,「おじいちゃんにがんばるって約束しに行こう,さあ,いっしょに行こう」といって連れていって,いっしょにお墓参りをさせる。それで,おじいちゃんに「受験が受かりますように,おじいちゃん,見ててください」と祈る。
 そういうふうにあるべきなんです。
 つまり,そこには家がある。おじいちゃんがいて,親がいて,子供がいたり,孫がいたりして,そのなかで伝えていく教えがある。

躾(しつけ)という言葉は,「身」に「美しい」と書く。学校できちんとした教育がおこなわれているか,ということと同時に,家のなかでもきちんとした躾がおこなわれているか,ということが大切なのです。

 仏教にかぎらず,キリスト教でもイスラーム教でも,どんな宗教でも,命というものを大事にしましょう,と教えています。そして,親孝行しましょう,近所の人に迷惑をかけないようにしましょうと,礼儀作法なども含めて,家のなかで教えていく。
 これが宗教なんです。
 だからこそ,そういうことを教えてくれる,年老いた人が大切なんですね。
                    (永六輔『親と子』岩波新書)


2007年09月12日(水) 日中戦争の証言: 戦場の狂気

日中戦争の証言:戦場の狂気






日中戦争(1937〜45年)は日本人にとって忌まわしい,出来れば触れたくない戦争である。したがって,日本社会にこれほど知られていない戦争もない。知っているのは,せいぜい上海事変,盧溝橋事件,南京虐殺,重慶爆撃など個々の名前だけである。しかし,日中の全面戦争が太平洋戦争ほど知られていないのは,その戦争での日本兵の残虐さに日本人自身が良心の呵責をおぼえているからではないか。大人たちも知らないから,ましてや若者たちも無知のままだ。

 1000万人を越えるとされる中国人の死者の多さに慄然とされる。中国戦線に送られた日本兵たちがなぜ放火,強姦,虐殺などの残忍な加害を加えたのか,赤紙1枚で狂気の世界に投げ込まれた日本兵たちにとっても,この戦争は異常であり,正気を保つことが困難であった。元日本兵の体験談を通して戦争の実相を知っておくことは大切なことに違いない。



※ 以下の記事は『中国侵略』(読売新聞大阪社会部編.昭和58年刊行)からの抜粋である。なかなか知られていない狂気の戦場のことが具体的に言及されており,貴重な証言が数多く収められている。


 戦争の体験談を語ったのは大阪府寝屋市の林亨さん。戦死・戦病死者十万余を出した日本陸軍史上最大の作戦,昭和19年の「湘桂作戦」に参加した嵐百十六師団の元機関銃兵である。原稿を書いたのは読売新聞記者の塩雅晴氏。



●常徳作戦

 記者の塩雅晴が,林亨さんの自宅を訪ねたのは,〈戦争〉取材班のスタッフ会議から間もない昭和57年十月下旬のことだった。
「ぼくが中国に行かされて一年ちょっと,上等兵になったばかりのときやった。常徳作戦というのがあってなあ。ぼくにとっては初めての本格的な戦闘やったけど,あのときからかもしれんなあ,気がおかしくなりだしたんは…」

 常徳作戦というのは,昭和18年11月,日本軍が洞庭湖の西にある湖南省常徳を攻撃した戦闘である。 

「あのときは,常徳の城内にたてこもった中国軍が頑強に抵抗して,ものすごい激戦やった。そびえ立つ,という感じがするほど高い城壁に向かって次々に友軍が突撃して行くんやけど,バタバタ倒れてしまう。前方で“突撃不能,突撃不能”という声がして,大隊長も死んでしまうしなあ。けど,敵弾がピュンピュン飛んできても,不思議に恐ろしいとは思わなんだ。ぼくは九二式重機関銃を夢中で撃っとった」

 林さんたちの機関銃陣地と中国軍が立てこもる城壁との間の距離は200メートルほど。夜間の戦闘だったが,城壁の下には,突撃して行った日本兵が何十人と倒れているのがわかった。そんな激戦があった明け方のことだった。

「空が白んできてね,城壁の方を見ると,なんか人形みたいなもんがいっぱいつり下げられている。はじめはようわからへん。それがな,だんだん明るうなってくるとな,日本兵なんや。十人,二十人……。前の晩,城壁近くまで突撃して行って負傷した兵隊たちなんや。手足をしばられて,さかさづりにされとった。夜のうちに中国側に捕虜にされたんやな。まだ,みんな生きとった。そのうちに中国兵が城壁の下で火をたき始めよった。さかさづりにした日本兵を煙責めにしようちゅうわけや。これ見よがしにやりやがる。下からパァーッと煙が上がって,戦友たちが苦しげにもだえとるがな。それがよう見えるんや,こっちから」

 だが日本軍にはなすすべがなかった。明るいときに突撃していけば,中国側のかっこうの標的になるだけだった。林さんはたまりかねて,目をそらしたときだった。「撃てっ,機関銃で撃てっ」という声が飛んできた。

「さかさづりになって煙責めにされとる日本兵を撃ち殺せ,という命令やった。もだえ苦しんだあげく,中国軍に殺されるなら,楽に死なせてやれ,というわけや。その命令を聞いたとたん,ぼくは機関銃の引き金を引いとった。
もうメチャクチャに撃った……。」

 城壁にさかさづりにされていた日本兵たちの体は,味方の銃弾を受けるたびに飛びはねるように動いていたが,銃撃がやむとともにピクリともしなくなった。城壁の下からは,まだ煙が吹き上げていた。
 常徳作戦が始まって1カ月後,頑強に抵抗していた中国軍が降伏し,日本軍は城内に入った。戦友たちを自らの手で射殺せざるをえなかった林さんは,そこでまた,信じられないような光景を目のあたりにする。
 1カ月にわたった常徳攻防戦の後,城内に入った日本軍はすぐ,中国兵の掃討にあたった。中国では,大きな城郭の中がひとつの町になっていることが多く,軍事施設のほかに一般の民家が立ち並んでいた。中国兵はそんな民家に隠れていることが多かった。林さんら何人かの日本兵が一軒の家に入ったときだった。

「大きな家でね,あちこちの部屋を調べて回ったら,ようけおったがな,負傷して逃げ込んどった中国兵が。たいていはもう死んでしもうてたけど,まだ生きてるのが2人ばかりおった。2人とも足を負傷して動けんようになってて,こっちが銃を突きつけても,横になったままじっと見上げとるだけやった。ぼくらを指揮しとった古参兵と二,三人の兵隊が,中国兵の腕をつかんで家の外へ引っ張りだした。中国兵は抵抗もせんと,土間を引きずられとった」

その家は油屋で,入り口に脇に油の入った樽がいくつか置いてあった。表へ出たら古参兵らは,二人の中国兵を地べたに転がすと,その樽をもってきた。そして倒れたままの中国兵の体に油をかけ始めた。

「ぼくは,古参兵が油をかけるのを,キョトーンとして見とった。そしたらな,古参兵は油をかけ終えるなり,火をつけよったんや。パァッと炎が上がって,中国兵はたちまち火ダルマになってしもうた。ぼくは足がすくんでしもうて動けんのよ。ブルブル震えとるだけやった」

 炎に包まれた二人の中国兵は,奇妙な悲鳴をあげて地べたを転げ回って火を消そうとしていたが,そのうちの一人が火ダルマのまま立ち上がった。

「パァーッと立ち上がった中国兵がな,ぼくの方に向かってくるんや。両手をあげて,ぼくに抱きつこうとしよる。あとで思うと,道連れにしようとしたんやな,ぼくを。炎で顔が真っ赤に焼けとって,ものすごい形相やった」

林さんは自分の顔がひきつるのがわかった。

「逃げた。もう,必死で逃げた。ワァー,ワァーという悲鳴をあげとったみたいや。必死で走ってね,まだ追いかけてきとるんやろか,と振り返った。もう何十メートルか離れてたけど,その中国兵は両手を上げたまま,力尽てガクッとひざを折るように地べたに座り込んだ。その直後,中国兵は口から真っ赤な血を吐き出したかと思うと,バタッと地べたに倒れて,そのまま動かんようになった。」


●少尉が惨殺されたことへの殺戮的報復

 機関銃兵,林亨さんの所属していた嵐百十六師団は常徳作戦が終わった後,いったん後方の警備地域に戻ったのだが,それから半年もたたない昭和19年5月,湘桂作戦が始まった。嵐師団は湖南の地を南下,食糧,弾薬の補給もない中で47日間にわたって日中両軍の死闘が続いた衡陽攻略戦に加わった。そして,地獄といわれた衡陽戦をくぐりぬけた林さんらの機関銃分隊は19年11月,一個中隊百数十人の歩兵とともに,衡陽の北西数十キロの台元寺という村に駐屯することとなった。このとき,林さんの階級は兵長。激戦をへて戦場生活にも慣れ,周囲からも一目おかれる古参兵になっていた。

「台元寺のあたりは豊かな農村やった。それまで戦場になってあかったから,住民もようけ住んどって,ブタでもなんでもいっぱいおったよ。ぼくらは,そこで食糧の確保と付近の道路の警備をするのが任務で,はじめのうちは平穏なもんやった」

 しかし,まもなく中国側のゲリラが再三,出没するようになり,その襲撃に台元寺の日本軍は悩まされた。そんなとき,一人の少尉がゲリラに惨殺されるという事件が起きた。それは林さんたちが台元寺に駐屯して,1カ月ほどたったときのことだった。日本軍がゲリラの掃討戦を行ったさい,その少尉は将校斥候に出かけたのだが,台元寺の北方の山あいで行方不明になってしまった。飛んで帰った伝令の知らせで,林さんたち機関銃分隊を含む本隊がかけつけ,戸数二,三十戸の小さな集落を捜索した。

「ゲリラと農民が一緒になって少尉を殺したのに違いない,ということになって,その村に踏み込んだんやけど,案の定やった。最初,何人かの農民を尋問しても,ひとこともしゃべらん,これは後で聞いたんやけど,白状させるために,二,三人を銃殺した,という話しや。それで,やっと一人が白状しよった。日本の兵隊を殺して畑に埋めた,言うてな。まだ若い男でね,その農民に案内させて畑まで行ったんや」

 若い農民が指さした畑を,林さんたちは一斉に掘った。あまり深く埋められておらず,少尉の遺体はすぐ出てきた。

「斥候の途中で足に敵弾を受けて動けんようになったところを虐殺されたらしい。なぶり殺しやね。そりゃ,みじめなかっこうやった。すぐには少尉とわからなんだ。身ぐるみはがされて素っ裸なんや。残っているのは擬装網だけ。それで後ろ手に縛られてとった。それだけやないんや,目玉は両方ともくり抜かれとるし,手も,足も,指は全部,第一関節から先を切り取られてしもうてた。あれは,拷問にかけられたんに違いない。一本,一本ね,指を切られていったんや。その姿を見たとたん,体じゅうの血が噴きだしそうになった。カーッとなってね。もう,わけがわからんようになってしもうた。そばにおった兵隊が,畑に案内してきた農民をいきなり,銃剣で刺しよった。
バタンと倒れたところを,またメッタ突きにしてな」

 林さんたちは噴きあげてくるものを,抑えきれなくなっていた。「やってしまえ!」だれかが叫んだ。「あの村のやつら,皆殺しにしてしまおう。家も全部焼き払え」。指揮官の命令があったのかどうか,林さんはよく覚えていない。百人余の日本兵は,500メートルほど離れたところにある集落に走った。

 ゲリラに襲われた少尉の惨殺体を発見したときのことを話していた林亨さんが,ふっと自嘲するような口調になった。
「中国側にやられたから,日本兵が逆上してムチャクャやろうとした,というても,本当は順序が反対なんやろな。もとはといえば,日本が勝手に中国に攻め込んで暴れ回ってたからこそ,中国の方も抵抗して,少尉が惨殺されるようなことになったんやから。だけどな,それは,戦争が終わって40年近くたった今やからこそ,言えることなんや,目の前で戦友が虐殺されてみィ。そらァ,頭に血がのぼるで」

「ぼくらが集落の方へ引き返したらな,農民たちはもう逃げだしとった。なんか大声でわめきながら,田んぼのあぜ道を必死に逃げ取った。5,60人ぐらいやったかな,稲刈りはとうに済んで,水を張っただけになっとた田んぼのあぜ道を走っとるんや,男はほとんどおらんかった。赤ん坊を抱いた母親,その袖につかまっとる子供,ヨタヨタしとる年寄り……。ぼくら,そのあぜ道を見下ろす小高い丘の上に九二式重機関銃を据えた。二,三百メートル離れてたかな,あぜ道からは。九二式はもともと性能がええんやけど,とくに,そのくらいの距離のときが,よう命中するんや」

山並みに傾きかけた陽が,逃げていく農民たちの姿を浮かびあがらせている。
「撃てっ,片っぱしから撃ち殺せっ」。林さんたち機関銃兵に向かって声が飛んだ。重機関銃の猛烈な銃声が響いた。

「あぜ道を逃げる農民たちの列の先頭をねらったんや,まず。撃つと同時に,先頭の二,三人がパァーと宙に舞い上がって,田んぼに倒れこんだ。びっくりしたんやろな,みんな。列が乱れていったん黒いかたまりになったかと思うと,田んぼの水の中をクモの子を散らすみたいに逃げ出した。そこをまた,ねらい撃つ。パッ,パッ,と水しぶきが上がるのと同時に,また二,三人が吹っ飛んで倒れた」

そのときだった。重機関銃の弾丸を受けて吹き飛ぶ小さな子供の姿が,林さんの目に入った。

「女の子やったんやろな,赤い服を着ていた。それを見たとたんなあ,急に機関銃が撃てんようになった。なんぼなんでも,こんな子供まで……。なんか,ハッと我に帰ったような気がした。まだ,撃てっ撃てっ,いうて声が飛んできていたけど,それからは,ねらいをはずして撃ったんや」

しかし,女,子供や年寄りたちは,気が狂ったように逃げまどっていた。


カルメンチャキ |MAIL

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