女の世紀を旅する
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2007年06月03日(日) |
ペルシア戦争史 :テルモピュライ(テルモピレー)の戦い |
ペルシア戦争史 :テルモピュライ(テルモピレー)の戦い
映画「300」が上映されているが,これはレオニダス王が率いる300人のスパルタ兵がテルモピュライ(テルモピレー)で100万(実際は21万)のクセルクセス王の率いるペルシア軍と戦い,玉砕した戦史にもとづいている。この映画はマンガコミックに連載されたものにもとづいており,どこまで歴史を忠実に再現しているかわからないが,テルモピュライの戦いを描いているので注目してみた。
一昨年,オリバー・ストーン監督の映画「アレクサンダー」が評判をよんだが,実はアレクサンダー(アレクサンドロス)大王の東方遠征(前334年)は,ペルシア戦争の仕返しにあり,その結果,アケメネス朝ペルシアが滅亡(前330年)することとなった。
●スパルタの強さは過酷な「スパルタ教育」にある
古代ギリシアのポリス(都市国家)・スパルタでは、子供は国の財産として珍重されていた。同国の子供は12歳になると厳しい軍事訓練を課せられ、その過程で体に障害を生じた子供等を殺害していき、残ったものだけを市民として育てたのがスパルタ教育。アテナイ(アテネ)の、自由で芸術や哲学や弁論を尊重した教育の対極にある。
スパルタの実際の教育についての資料は、プルタルコス『英雄伝』(対比列伝)のリュクルゴス(Lycurgus)の伝記にある。彼による教育改革が、いわゆるスパルタ教育の始りとされる。
そこではまず、親は自分の子供を自由に育てる権利を持っていなかった。「子供は都市国家スパルタのもの」とされ、生まれた子供はすぐに長老の元に連れて行かれた。そこで「健康でしっかりした子」と判定されれば、育てる事が許される。病身でひ弱な子供は「生きていても国の為にならない」として、ターユゲトンのもとにあるアポテタイの淵に投げ捨てられた。
また、7歳になった子供たちは軍隊の駐屯地に集められ、いくつかの組に分けられ、同じ規律の下、生活と学習も一緒に行われた。そこでの規律は「命令服従すること」「試練に耐え、闘ったら必ず勝つこと」などで、頭は丸刈りにされ、下着姿に裸足で訓練を行った。12歳になると、下着はなくなり全裸となり、沐浴(体を洗うこと)も禁止された。
また、意図的に十分な食事を与えず、大人の食事や畑の作物を盗ませるようにした。これは、盗みによって兵士の能力としての大胆さや狡猾さを身に付けさせるためであったとされる。また、祭りではみな裸で踊らされた。
教育は成人するまで続き、町でも駐屯地にいるのと同じ生活を求められ、公人として国に仕えているという自覚を常に求められた。20歳になると部下を持ち、戦争の時は指揮し、家では彼らを召使いにした。 教育の結果の一つとして、成人後に結婚するとなれば、強い子供を産めそうな女を男が取り合うこともあったといわれる。
●戦争: ペルシア戦争(前492〜前479年):アケメネス朝ペルシアとギリシアとの戦い
第一回ギリシア遠征(前492年 ダレイオス1世):アトス岬で嵐にあい,ペルシア海軍撤退。
第二回ギリシア遠征(前490年):マラトンの戦いで1万のアテネ重装歩兵軍が2万のペルシア陸軍を破る。
第三回ギリシア遠征(前480〜前479年 クセルクセス王):スパルタ王レオニダスが率いる300人の寡兵が推定20万のペルシア軍の進撃をテルモピュライ(海沿いの隘路の地形)で3日間食い止めたが,全員玉砕。しかし,テミストクレス率いるアテネ海軍がペルシア海軍をサラミス海戦(前480年) で圧勝し,さらにプラタイアの戦い(前479年)でアテネ・スパルタ連合軍がペルシア陸軍を撃破した 結果,ギリシア側の勝利が確定した。
●年月日: 紀元前480年8月 場所: ギリシアのテルモピュライ 結果: アケメネス朝ペルシア軍によりギリシア軍が敗退
指揮官 スパルタ王レオニダス ペルシア王クセルクセス1世 戦力 5,200人 210,000人 損害 1,000以上 20,000以上
テルモピュライの戦い(Battle of Thermopylae)は、ペルシア戦争さなかの紀元前480年、テルモピュライで、スパルタを中心とするギリシア軍とアケメネス朝ペルシアの遠征軍の間で行われた戦闘。ヘロドトスの『歴史』(第7巻)に記述されている。
海戦(アルテミシオンの海戦)ではギリシア艦隊がペルシア遠征軍に善戦したが、テルモピュライではペルシアの圧倒的な戦力の前に敗退した。しかし、スパルタ軍は全滅するまで戦い、ペルシア軍を3日間にわたって食い止めた。
●背景
ペルシア遠征軍の侵攻を知ったギリシア側は、イストモスにおいて会議を開き、ペルシア艦隊をアルテミシオンで、クセルクセス本隊をテルモピュライで迎え撃つことを決議した。テルモピュライ・アルテミシオンの防衛線は、アッティカ以北を防衛するための戦略的に極めて重要な意味を持つ地点だった。ギリシア側はスパルタ王レオニダス率いる先遣隊を派遣し、マケドニアのテルマ(現テッサロニキ)から南下する総兵力21万を超える大部隊を迎え撃つことになった。
テルマを出立したペルシア陸戦隊は、テルモピュライ近郊のトラキスに陣をはったが、その兵力規模の大きさにギリシア側は全軍が恐怖に陥った。ペロポネソスから派遣された兵は、イストモスを防衛すべきとして撤退を主張したが、これにポキスとロクリスが強硬に反対したため、レオニダスはテルモピュライでの決戦を決意、ギリシア諸都市に使者を送って支援を要請した。
クセルクセスはギリシアの動きを察知していたが、ギリシア部隊がまともに戦闘をおこなうとは信じられず、ギリシア部隊が撤退するのを4日間待った。しかし、5日目になってもギリシア軍が撤退する気配を見せなかったため、クセルクセスはメディア軍に攻撃を命じた。
●両軍の戦力
★ギリシア陸戦部隊 スパルタ重装歩兵: 300 テゲア兵: 500 マンティネイア兵: 500 オルコメノス兵: 120 アルカディア各都市の兵: 1000 コリントス兵: 400 プレイウス兵: 200 ミュケナイ兵: 80 テスピアイ兵: 700 テバイ兵: 400 ポキス兵: 1000 合計 5,200
★ペルシア陸戦部隊 歩兵: 170,000 騎兵: 8,000 その他: 2,000 ヨーロッパより参加の歩兵: 30,000 合計 210,000
以上はヘロドトスの述べる数字である。ペルシア遠征軍の陸上部隊の実数については多くの学説が提唱されており、6万から21万まで様々な推定がされている。
●戦いの経過 テルモピュライは、テッサリアから中央ギリシアに抜ける幹線道路だったが、峻険な山と海に挟まれた街道は、最も狭い所で15メートル程度の幅しかなく、ペルシア陸軍は大軍を優位に展開することが出来なかった。ペルシア側の先陣を切った軽装歩兵メディア軍は、1万もの多大な被害を出しながらも終日に渡って戦ったが、ギリシア部隊を敗走させることができなかった。
ファランクス隊形で迎え撃つスパルタ重装歩兵を先陣とするギリシア軍の猛攻を目の当たりにしたクセルクセスは、2日目にはヒュダルネス率いる不死部隊を投入したが、街道にもうけられた城壁を利用して防衛するギリシア軍を突破できなかった。現状を打開できなかったクセルクセスは苦慮したが、山中を抜けて海岸線を迂回するアノパイア間道の存在を知り(一説にはギリシャ人からの密告によって知りえたとも言われる)、これを利用することを命じた。ペルシアの不死部隊は土地の住民を買収し、夜間、この山道に入った。この道を防衛していたポキスの軍勢1,000は、ペルシア軍に遭遇するとこれに対峙すべく山頂に登って防衛を固めたが、スパルタ軍ではないと悟ったペルシア軍はこれを無視して間道を駆け降りた。翌朝、不死部隊はギリシア軍の背面に展開した。 (一説に拠ると、夜道を登り来る不死部隊を見たポキスの軍勢は自国襲撃と思い守備隊全員が臨戦のため帰国したとも言われる)
3日目の未明にアノパイア道を突破されたことを知ったレオニダスは会議を開いたが、徹底交戦か撤退かで意見は割れた。結局、撤退を主張するギリシア軍は各自防衛戦から撤退し、スパルタ重装歩兵の300人とテバイ(テーベ)、テスピアイ兵1000人の合計1300人は、共にテルモピュライに残った。
夜明けを待って、レオニダスは全軍に出撃を命令した。それまでは、街道の城壁での防衛を主としていたが、この日は道幅の広い場所まで進撃した。彼らは槍が折れると剣で、剣が折れると素手や歯を使い、全軍が玉砕するまで戦った。ヘロドトスによれば、この戦いによるペルシア軍の戦死者は2万人とされる。
奮戦も空しく玉砕したスパルタ王レオニダスの死体をめぐって、ペルシャ軍とスパルタ重装歩兵軍との戦いは、ペルシャ軍を撃退すること前後4回、ディエヌケスが遂に王の遺体の奪回に成功し、道幅の狭いところまで遺体を移したものの、前後から襲い掛かる圧倒的ペルシャ軍の前に玉砕した。
●戦いの影響
この戦いでレオニダスとスパルタ兵は英雄として讃えられ、テルモピュライにはスパルタ軍を記念して碑が置かれた。碑文はシモニデスが草稿したもので、 ヘロドトスによれば、「旅人よ、行きて伝えよ、ラケダイモンの人々に。我等かのことばに従いてここに死すと」(ラケダイモンはスパルタのこと)と唱われている。現在はコロノスにこの言葉を刻んだ石碑が設けられている。
スパルタとともにテルモピュライに残ったテバイ兵は、彼らが全滅するに及んでペルシア側に投降し、ペルシア遠征軍に組み込まれた。この戦いに敗退したギリシアは、防衛線を大きく後退させ、 デルポイ(デルフォイ)、アテナイ(アテネ)、メガラが占領された。しかし,アテネ海軍がサラミス海戦でペルシア海軍を破ったことで,ギリシア側が俄然優位となり,翌年のプラタイアの戦いでアテネ・スパルタ連合軍が勝利した結果,ギリシア側の勝利が確定した。
後年,マゲドニア王アレクサンドロス大王がギリシア軍を率いて東方遠征(前334年)を敢行し,前331年のアルベラ(ガウガメラ)の戦いでペルシア軍を破り,翌年,王都ペルセポリスを占領してアケメネス朝を滅ぼしたが,この東方遠征は先のペルシア戦争の復讐戦ということになる。
●ギリシア軍の強さはファランクス(重装歩兵密集隊形)にある
紀元前7世紀中期から、コリントスとアルゴスで採用されはじめ、スパルタによって戦術が確立された。アテナイで密集陣が形成されたのは、紀元前6世紀初期である。
参政権を持つ市民によって組織された重装歩兵が、左腕に円形の大盾を装備し、露出した右半身を右隣の兵士の盾に隠して通例8列縦深程度、特に打撃力を必要とする場合はその倍の横隊を構成した。戦闘経験の少ない若い兵を中央部に配置し、古兵を最前列と最後列に配したが、右半身が露出することから、特に最右翼列に精強兵が配置された。同等な横幅をもつ敵と対峙して前進する際、これらの兵士は盾のない右側面を敵に囲まれまいとして右へ右へと斜行し、隊列全体がそれにつれて右にずれる傾向があった。攻撃の際は横隊が崩れない様に笛の音に合わせて歩調をとりながら前進した。マラトンの戦いで、アテネを中心とするポリス連合軍は例外的に、ペルシア軍の矢の雨による損害を減らすために走って攻撃したといわれる。
戦闘に入ると100人前後の集団が密集して陣を固め、盾の上から槍を突き出して攻撃した。前の者が倒れると後方の者が進み出て交代し、また、後方の者が槍の角度を変更することで敵の矢や投げ槍を払い除けることも可能で、戦闘状況に柔軟に対応できる隊形でもあった。逆に部隊全体の機動性は全く無く、開けたような場所で無いと真価を発揮しない。また、正面以外からの攻撃には脆い。
基本的にファランクスは両軍の激突によって攻撃力を保持していたため、一旦乱戦になると転回機動は難しく、機動力を使った戦術としては用をなさなかった。時代が下ると、会戦において数的劣勢にあった側はファランクスに改良を加え、戦力を補完した。テーバイの将軍エパメイノンダスが創設した斜型密集隊形はクルッセ=ファランクス(斜線陣)と呼ばれ、レウクトラの戦い(前371年)で、勇名を轟かせたスパルタ軍を数で劣勢にあったにも関わらず打ち破り,一時ギリシアの指導権をにぎった。この戦いに敗れ,スパルタは没落し,テーバイが強くなるが,それもつかのまで,ギリシア北部のマケドニアが勢力を伸ばし,フィリッポス2世が南下し,前338年のカイロネイアの戦いでテーバイ・アテナイ連合軍を破り,ギリシアの覇権を握った。しかし,彼は暗殺され,息子アレクサンドロス大王が即位し,アケメネス朝征服の東方遠征を敢行することになる。
●マケドニアのファランクス
古代マケドニア軍は、通常、縦横6列程度であった密集方陣を改変し、6mの長槍(サリッサ)を持った重装歩兵による16列×16列の方陣を1シンクタグマとし、さらに8列×8列のシンクタグマによる方陣を1ファランクスとした。マケドニアのファランクスの重装備歩兵は、盾を腕ではなく胸に装備させることにより、機動性を若干向上させた。また、両手で長槍を支えることができるようになったのも効果が大きい。
3年間テーバイで人質生活を送ったフィりッポス2世は、テーバイの名将エパメイノンダスから改良型ファランクスの戦い方を盗み、マケドニアのファランクスを生み出した。マケドニアのファランクスでは、本隊の歩兵右側を重装歩兵とし、左側を軽装歩兵とした。右翼には突撃に勝るヘタイロイ騎兵、左翼にはテッサリア人騎兵を配置し、前衛は弓が主装備の歩兵と軽騎兵が担当した。左翼で防御している間に、右翼での敵戦列破壊を行うマケドニアのファランクスは、側面からの攻撃に弱い従来のファランクスを圧倒した。
このマケドニアのファランクスはフィリッポス2世の子、アレクサンドロス3世に受け継がれた。当時無敵を誇ったこの戦闘教義は、彼をアレクサンドロス「大王」として、世界に覇を唱えさせるに至る。
2007.05.30 ●世界・ふしぎ発見!<テルモピレーの戦い・300人の奇跡>オンエア! 本作をより楽しんでいただくため「世界・ふしぎ発見!」にて、古代ギリシャと大国ペルシャの間で繰り広げられたテルモピレーの戦いにスポットを当てた、<テルモピレー・300人の奇跡>が6月2日(土)21時よりオンエア! ミステリーハンター・阿部まりなさんが、ギリシャ南部・ペロポネソス半島に今も残るスパルタの地を訪ね、スパルタ軍の強さに迫ります。
番組名:TBSテレビ「世界・ふしぎ発見!」 放送日:6月2日(土) 21:00〜21:54
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