女の世紀を旅する
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2006年07月30日(日) |
2006年前半期 著名人〈おくやみ〉 5〜7月 |
2006年前半期 著名人〈おくやみ〉
●7月1日 橋本龍太郎元首相が多臓器不全、敗血症性ショックのため死去
橋本龍太郎(はしもと・りゅうたろう)元首相が06年7月1日、多臓器不全、敗血症性ショックのため、東京・新宿の国立国際医療センターで死去した。68歳。先月4日、腸管虚血と診断され、腸の大部分を切除する手術を受け入院していた。早くから「自民党のプリンス」と呼ばれ、首相に上り詰めたが、経済政策の失言による参院選惨敗で退任。最後は日本歯科医師連盟(日歯連)からの1億円闇献金事件で政界を引退した。波乱の政治家人生だった。
6月4日、腸への血流量が低下する「腸管虚血」と診断され、翌5日に腸の大部分を切除する手術を受けた橋本氏は、手術後、1度も意識を回復することなく、息を引き取った。 二男の岳(がく)衆院議員(32)によると、手術前「おれが講演をやらなきゃ」と話したのが最後の言葉だった。遺体は病理解剖された。弟の橋本大二郎高知県知事は「兄は医療や厚生行政に長く携わった。日本の医療に貢献するメッセージを残してくれた」。「私人としての(家族との)暮らしが少なく、最後は自分の手で送ってあげたい」という久美子夫人ら家族の意向で葬儀、告別式は近親者だけで行う。 「自民党のプリンス」として頭角を現し、蔵相や幹事長など要職を歴任した橋本氏は、甘いマスクに流し目で女性から「龍さま」と慕われた。剣道着姿の「龍ちゃん人形」や「龍ちゃんプリクラ」も設置される人気だったが、節目では女性や人事、金の問題につまずいた。
89年、総裁選出馬を期待されたが、宇野政権の幹事長として大敗した参院選の責任と、女性問題が重なって見送った。 96年1月、首相の座に就いたが、97年、内閣の最重要課題だった行革担当のトップ総務庁長官に、ロッキード事件で有罪が確定した佐藤孝行氏を起用。世論の集中砲火を浴びて10日余りで更迭した。中国政府の女性通訳との関係も報じられ、女性が情報部員とされたため「国家機密にかかわる問題」と、野党が衆院予算委員会で追及する事態になった。
98年の参院選前には恒久減税の実施に言及しながら、選挙戦で「言っていない」と迷走。株価は下落し、自民党は惨敗。引責辞任に追い込まれた。 表舞台への復活を懸けて01年の総裁選に出馬したが、小泉純一郎首相に大差で敗北。04年には日歯連からの1億円献金隠し疑惑が発覚し、派閥会長を辞任した。政治倫理審査会では「(記憶はないが)事実なのだろうと思う」と弁明し、与野党から強く批判された。地盤を岳氏に譲り、昨年8月、追われるように政界を去った。「どうも純ちゃん(小泉首相)との一戦以降、負け戦が続いているな」と自嘲(じちょう)気味に漏らしていたという。
※ 橋本氏訃報に小泉首相悲痛…
カナダ、米国訪問を終えた小泉純一郎首相(64)は1日午後5時53分、政府専用機で羽田空港に到着すると、その足で東京・南麻布の橋本元首相宅に向かい、弔問した。米国では故エルビス・プレスリー邸を訪ね「夢がかなった」と大はしゃぎだった首相だが、同じ慶大出身で2度総裁選を戦った橋本氏の訃報(ふほう)に一転、悲痛な表情。「悲しみの念を禁じ得ない」との談話を発表しただけで、報道各社のインタビューには応じなかった。 プレスリー邸での首相は、遺品のサングラスをかけ、ギターを持つ手を高く振り上げるプレスリーお得意のポーズを披露。娘のリサ・マリーさんの肩に手を回しつつ「強く抱き締めたい」と英語で歌の一節を語りかけるパフォーマンスをみせ、案内役のブッシュ米大統領(59)を「首相がプレスリーを愛していることは知っていたが、ここまでとは思わなかった」と驚かせた。 米3大ネットワークも驚いたもようで「首相らしからぬ(パフォーマンス)」(NBCテレビ)「これは本当に起きたこと?」(CBSテレビ)と視聴者の多い夕方のニュースでそろって報道する異例の扱い。一夜明けた米紙ワシントン・ポストもサングラス姿の首相の写真を1面で大きく掲載し「大統領にとって恐らく最も記憶に残る楽しい外国要人との旅行だったろう」と伝えた。 しかし、帰りの機中で伝えられたのは橋本氏の訃報だった。初の総裁選挑戦となった95年は大敗したが、01年には「自民党をぶっ壊す」と叫んで圧勝した。自民党を支配してきた経世会と派閥政治を標的とすることで、人気と権力を保ち続けてきた首相は、因縁ともいえる橋本氏が9月の自らの退陣を前に逝ってしまったことに険しい表情のまま。報道各社のインタビューには応じず「21世紀のわが国のあるべき姿を展望し、中央省庁再編や介護保険制度の創設、金融システム安定化などに尽力した。優れた指導者の訃報に接し、悲しみの念を禁じ得ない。心から哀悼の意を表します」との談話を発表しただけだった。
※ TV発言が退陣のきっかけ…田原総一朗氏/悼む 橋本さんが亡くなったと聞き、今、忸怩(じくじ)たる思いでいます。もう1度、食事でもしながらゆっくり話をしたかった。互いに好きだった論争をしたかったのに。 98年7月5日放送のテレビ朝日「サンデープロジェクト」で、私は橋本さんと相対しました。その2日前、橋本さんは当時の世論に応えるように恒久減税の実施を口にしていました。しかし、番組で私が「財源は?」と問うと、「恒久減税という言葉は使っていない。税制改革の論議を進めていく」とはぐらかした。さらに問い詰めると、絶句した。テレビカメラは残酷でその汗びっしょりの苦しそうな表情をとらえていました。翌日、新聞はこのやりとりをトップで報道。「恒久減税は口約束で実現しないのでは」という疑念が世の中に広がったのです。 この発言のブレが原因で自民党は参議院選挙に敗北し、橋本さんは退陣に追い込まれました。番組放送後、政治家や官僚が電話してきて「橋本さんがかわいそうだ」と言われました。 思えば橋本さんは気の毒な人でした。小泉さんよりも先に、財政再建を打ち出し、消費税を3%から5%に上げた。素晴らしい行動力だったが、北海道拓殖銀行がつぶれ、金融パニックと不況が襲ってきた。大蔵省は知らんぷり。それゆえに恒久減税待望の世論が起きた。財源がないのに…。選挙のために、それに応えようとした橋本さんは本当に苦しかったはず。ご冥福をお祈りいたします。(ジャーナリスト)
※ 校舎をロープで登り下り…作家安部譲二氏/悼む 同級生だったのは、昭和25年のことだよ。そのころの橋本と一緒に写っている写真をいくら探してもないんだよ。なぜか。いつもあいつがカメラマンをしてたからなんだ。終戦直後の中学生。あいつしかカメラなんて持ってなかったんだ。でも、いつも現像して写真をみんなにくれたんだよ。 麻布中学時代、あいつは山登りばかりしていて、皆にあきれられていたほどだった。校舎の屋上からロープをおろして、よじ登ったり下りたりしてたんだよ。普通じゃないよ。僕が「登山なんて勝ち負けのないことやって、何が面白いの?」と聞くと、橋本は言ったものさ。「頂上まで行くと、下で雲が動くんだ」。今、サッカー見てても、選手が審判にすぐ「痛い」とアピールするけどさ、橋本は登山みたいな、そんなアピールとかレフェリーとかがない世界に引かれたんだと思う。 橋本はおれの斜め後ろの席だった。あいつはおれの答案用紙を全部写して、それで進級したんだから。それで総理にまでなるんだからすごいよな(笑い)。(談)
●5月30日 カンヌ最高賞2度受賞した映画監督の今村昌平さん死去
日本人監督としてただ1人、カンヌ国際映画祭のパルムドール(最高賞)を2度受賞した今村昌平(いまむら・しょうへい)さんが06年5月30日午後3時49分、転移性肝腫瘍(しゅよう)のため、都内の病院で死去した。79歳。人間の業や欲望を重厚かつユーモラスなタッチで描き、「黒い雨」「復讐するは我にあり」など多くの名作を発表。日本で初の映画専門学校を設立するなど後進育成にも尽力した。カンヌでは「楢山節考」「うなぎ」が最高賞を獲得。日本映画の力を世界に知らしめた巨匠がまた1人、静かに逝った。
世界的巨匠は家族に見守られながら静かに息を引き取った。都内の自宅前で取材に応じた二男のひろ介さん(43)は「最期は痛みもなく、眠るように亡くなりました」と語った。
今村監督は昨年6月、下行結腸がんの手術を受けた。3カ月後に肝臓転移が発見された。長年、糖尿病を患っていたこともあり、体調は悪化するばかりで入退院を繰り返した。今年4月11日に風邪をこじらせて緊急入院。食事も取れない状況になり、1週間前から意識不明に陥った。呼吸も苦しそうだった。それでも最期は穏やかな表情を浮かべていたという。51年間連れ添った妻・昭子さん(72)は亡きがらに「お疲れさまでした」と声を掛けた。
大学時代からの親友も訃報(ふほう)を聞いて病院に駆けつけた。俳優の北村和夫は「1週間前に見舞いに来たばかり。今は何も話したくない」と唇をかみしめたまま絶句。小沢昭一は「安らかな顔でした」と話すのが精いっぱいだった。
最後まで映画製作に対する執念が衰えることはなかった。戦争中の新宿の遊郭に生まれ育った少年を描く「新宿桜幻想」の映画化を進めていた。脚本は10年前に書き上げた。撮影もわずかだが始めていたが、資金が集まらずに中断した。それでも脚本の手直しなど、闘病生活に入る直前まで配給会社と打ち合わせを重ねた。「うなぎ」に似た雰囲気の新作も構想していた。
長男で映画監督の天願大介さん(46)は「がんと知った時から覚悟はしていたと思う。満足いく人生だったと思う」と話していた。
※ 今村監督という人 人は「鬼のイマヘイ」と呼んだ。文字通り、映画に心血のすべてを注いできたからだ。カンヌ映画祭で2度の最高賞は世界で5人だけだが、実生活は借金に苦しめられ、名声とはほど遠かった。原因は製作資金集め。一時は億単位まで達し、2年前でも「今も千万単位」と明かしていた。自宅も1度差し押さえられた。昭子さんが「サザエさん」などアニメの彩色の仕事で家計を支えた時期もあった。それでも映画をつくり続けたのは「人間のこっけいさ、偉大さ、純粋さ、醜さを追い続けたい」という信念があったからだ。
原点は戦後の闇市。多感な青春期に「人間が本音をさらけ出し生きている解放区に見えた」と感じ、黒沢明監督「酔いどれ天使」の三船敏郎さんの人間くさい演技に魅了された。人間の業や欲望に対する視点は初期の「果しなき欲望」「豚と軍艦」などで存分に発揮され、重喜劇と評価された。その後も一貫して根源的な生や性をテーマにし、「復讐するは我にあり」など次々に傑作を生み出した。撮影も、納得するまで粘り、決して妥協しなかった。
生きざまは晩年まで揺るがなかった。01年のカンヌ映画祭で、フランス紙から「人間くさい助べえじじい」と評されたことを何より喜んだ。日本映画学校では「人間の面白さ、薄汚さをよく観察しろ」と指導。債権者会議に呼び出され、ペコペコ頭を下げる自分の姿を「映画にしたら面白い」と考えてもいた。
長男の天願監督は「あの欲望の強さは、僕らの世代にはないもの。映画はもうからないということを学んだ。だから自分も幻想を持たずにつくり続ける」と話した。「人間」にとりつかれた「映画の鬼」は、次世代に受け継がれていく。
※ 関係者悲しみの声 三国連太郎(83) エネルギッシュで、粘り強くて、自分を見つめて生き抜いた人でした。彼を超えるような監督はもう出てこないんじゃないでしょうか。「神々の深き欲望」では、石垣島で何カ月も一緒に暮らしました。「復讐するは我にあり」では、納得するまで撮り直すしつこさにあきれたことも。でも、それもすべて、ものづくりへの誠実さの表れだったと思います。けんかもしたけれど、日本の宝だと僕は思っていました。
緒形拳(68) 4月27日にご子息から電話があり、病院に駆け付けました。監督は眠っていましたが、「オガタ」と目を開けて気が付かれたのですが、また眠りました。私にとって、監督といえば今村監督です。いつもにぎやかな現場で、しかし、ビシーッとしていて、あー男の仕事場だと思っていると、作品は見事にたくましい女の話でした。「よーい、スタート」という声にハリがあって、色気があって、格好良かったです。楢山節考の撮影初日に「何も撮るものがないので、ババア捨てたラストから撮る」「ラスト? どんな顔してたら良いのですか?」と聞くと「僕も分からないので、ボーッとしててくれ」と答えられた。つながってみたら、そのシーンがイチバン良かったのです。監督の力わざです。
柄本明(57) 10日ごろに役所広司と見舞いに行き、奥さまから余命が短いことは聞かされていました。その日も、話しかけるとこっちを見詰め返してくれ、すごいカリスマを感じました。カンゾー先生は、三国連太郎さんが負傷降板されて僕が主役になったんです。現場では、監督のあまりの気迫に怖くなったのを覚えています。目が強くて、何でも見抜かれている感じもしました。これで20世紀巨匠の時代が終わった感じもします。あとは次の世代が、その遺産をどう引き継ぐかでしょうね。
役所広司(50) 先月、カンヌ映画祭に出発する前に監督とお会いし、その報告と「うなぎ」の時のカンヌの思い出を話しました。今回のカンヌでも「今村監督の映画はないのか?」という質問をたくさん受け、今村映画の根強いファンが多いことを実感しました。監督の海外の記者に対する堂々とした受け答えは、そばにいて頼もしかった。独創的で力強い今村映画を見られないのは、寂しい限りです。監督の現場を経験できたことは、俳優として大きな財産です。たくさんのことを学びました。残念です。もっともっと今村さんの映画を見たかった。監督は日本映画の宝物です。
坂本スミ子(69) 「楢山節考」のロケは、雪の降るのを待ち、近くの田んぼでできた米をもちにしたりと、自然の中で行われました。人間が昔の野性の時代に戻って、墨絵のような世界に住んでいた感じ。将来に大きなテーマを残してくれました。今村さんは、おりん役の私を見初めてくれたようなところがありました。(役作りのために)前歯を抜いてボロボロの服を着た私に、とても優しい監督でした。
市原悦子(70) (都内でテレビ番組収録中)雨と雷で一時休んでいたところ、スタッフに日本映画学校を出た人がいて、今村先生の話をしていたんです。そこで、マネジャーから亡くなったと聞いてビックリしました。先生は物づくりのすがすがしさを持っていらっしゃる方。役者が裸にされて、きれいに、本来の姿になれる人。これから何かを撮るとうわさを聞いたら、すぐに出させて欲しいと言おうと思っていました。残念です。
映画評論家白井佳夫さん(74) 戦後に新しい日本映画をつくろうと、信じられないぐらい頑張った巨匠だった。「撮影所のセットなんて使うからうそになる」に始まって、自然な芝居のためにピンマイクをいち早く使ったり、使い古されたアングルを嫌い、カメラの位置を「後から来る助手が最初に荷物を置いたところにする」と言いだしたり。気に入らないものは撮らず、映画への執念は壮絶だった。こんな人はもう2度と現れないだろう。
映画監督の新城卓氏(62) 師匠として目標にしてきました。初めてお仕事させていただいたのは、監督が脚本を担当した「東シナ海」で、助監督見習いをしました。その後「復讐するは我にあり」でチーフ助監督を命じられ、天命だと思いました。自分が監督した「沖縄の少年」では、脚本やラッシュを見てもらったりして、アドバイスを受けました。亡くなっても、お前には負けないと天国でおっしゃっているのではないかと。新作「俺は、君のためにこそ死ににいく」をお見せできなくて残念です。
※ 映画評論家佐藤忠男氏が今村監督悼む 優れた人材を育て日本映画界に送り込みたい−。そんな情熱で今村監督が75年に設立した専門学校が、日本映画学校(川崎市)だった。億単位の負債を抱えるなど存続危機もあったが、04年まで校長、理事長を歴任し教育に力を注いだ。病床でも学校の話ばかりして心配していたという。96年に校長を引き継ぎ、志を託された映画評論家佐藤忠男さん(75)が、巨匠を振り返った。
今村昌平の映画は戦後の焼け跡闇市に立った感慨から出発している。負けるものか、タフになろう、という気持ちである。実際、今村監督は外見も行動も作品も実にタフだったが、肉体的にもタフであろうとして少々大食だったことが健康には良くなかったかもしれないと、いまさらながら惜しまれる。
作品の表現のタフさは、それが今村作品ならではの魅力だったが、一面ではしばらく外国人を戸惑わせた。あまりにもあけすけだったからである。初期の代表作である「豚と軍艦」と「赤い殺意」には、どちらもレイプの被害を受けた女主人公が、なぜかそのあと猛然にタフになって、男たちの欲望など、け散らすような力を発揮するようになるというエピソードがある。
いい例えではないかもしれないが、戦後の日本の占領は、アメリカによって日本文化がレイプされたようなものだったと言えるかもしれない。そんな戦後の経験がこういうかたちをとって、今村昌平の映画では表現されたのだと私は思う。
今村作品というと、性的な表現のあけすけさが評判になることが多かったが、それは単なる好色とは違う。いわば民族的な重い体験の形を変えた表現なのである。だからやたらと重厚なのだ。
今村昌平の業績で忘れてはならないのは、後進の育成のために今の日本映画学校をつくり、30年にわたって苦労して教育をやってきたことだ。今では卒業生たちは日本映画の製作現場のほとんどあらゆるところにいる。彼らが立派に今村昌平の志を受け継いでゆくだろう。
※ 「日本映画の伝説」フランス文化相が声明 フランスのドヌデュードバーブル文化・通信相は30日、「今村氏は日本映画の生きる伝説だった。死を深く悲しむ」との声明を発表した。今村氏を「60年代に生まれた日本版ヌーベルバーグの父の1人」と位置付け「その作品はいずれも真の芸術に迫っていた」と強調。「カンヌの一部だった」と悼んだ。カンヌ映画祭のジル・ジャコブ会長は「世界の映画の巨匠」とたたえ「つらい」と漏らしたという。
【今村昌平(いまむら・しょうへい)】 1926年(大15)9月15日、東京都生まれ。早大時代に黒沢明監督「酔いどれ天使」を見て映画監督を志す。51年に松竹入社。小津安二郎、野村芳太郎らの助監督を務め、54年に日活に移籍。58年監督デビュー作「盗まれた欲情」でブルーリボン新人賞を受賞。71年からテレビの演出も手がけたが、79年、9年ぶりの映画復帰作「復讐するは我にあり」がヒットし、ブルーリボン賞作品賞などを獲得した。02年には米同時多発テロを題材にした短編「セプテンバー11」も発表。55年に撮影所勤務の昭子夫人と結婚。長男は91年に監督デビュー。
2006年07月26日(水) |
2006年前半期 著名人〈おくやみ〉 3〜5月 |
2006年前半期 著名人〈おくやみ〉3〜5月
●5月29日 岡田眞澄さん(俳優)が食道がんのため死去
二枚目俳優岡田眞澄(おかだ・ますみ)さんが06年5月29日午前4時5分、食道がんのため都内の病院で亡くなった。72歳だった。岡田さんは昨年6月に食道がんで入院し、摘出手術を受けて8月に退院。9月に仕事復帰したが、直後にリンパ節への転移が判明。家族との時間を過ごしたいとの思いから自宅療養しながら今年3月まで仕事を続け、その後再入院した。今日30日に親族だけの密葬を行い、お別れの会を6月2日午前10時から港区南青山2の33の20の青山葬儀所で行う。喪主は妻恵子(けいこ)さん。
俳優生活53年の長い歴史に幕を閉じた。恵子夫人(44)、まな娘の朋峰(ともみ)ちゃん(7)ら家族や親族にみとられながら、岡田さんは静かに息を引き取った。
1年に及ぶ闘病生活だった。昨年6月中旬に食道がんと判明し、すぐに都内の病院に入院。約9時間、計79針も縫う摘出手術を受けた。がんを公表したのは手術から1か月後の7月23日で、岡田さんはファクスで「病名に一瞬ドキリとしましたが、発見が早かったことで落ち着いて治療に専念することにいたしました」とコメントした。8月中旬に退院し、9月には68年から司会を務める「ミス・インターナショナル世界大会」のレセプションで復帰。体重は10キロも減ったが「選挙じゃないけれど、当選発表のような気持ち」と手術成功を振り返った。
しかし、直後にリンパ節に転移したことが分かった。そのため、出演予定だった今年1月のミュージカル「グランドホテル」を降板したが、入院することなく、家族や友人との時間を過ごしたいと普段通りの生活を送りながら自宅療養をしていた。日本テレビ系「午後は○○おもいッきりテレビ」は最後となった2月24日まで復帰後も数回出演したが、関係者は「やせていたけれど、スタジオでは元気に声も出ていた」と話す。気丈に3月中旬までテレビ出演を続け、その後再入院した。
岡田さんは画家岡田稔氏とデンマーク人の母親の間にフランスで生まれた。戦後まもなく、実兄の故E・H・エリックさんの芸能界入りをきっかけに、東宝ニューフェイスに合格。ダンディな二枚目俳優として活躍した。特にやさしく出場者をエスコートする「ミス−」の司会はライフワークとし、今年9月も務める予定だったという。
岡田さんは女優藤田みどり(59=94年離婚)との間に俳優岡田真善ら3人の子供をもうけ、再婚した恵子夫人との間に朋峰ちゃんが誕生した時は「愛はバイアグラを超えた」と手放しの喜びようで「成人するまで頑張りたい」と話したが、その願いはかなわなかった。岡田さんの遺志で親族だけの密葬を30日に行い、6月2日に青山葬儀所で「お別れの会」が行われる。
※ 関係者悲しみの声 俳優小林旭(67) 自分がスターと呼ばれる前から共演していました。映画「完全な遊戯」(58年)で共演したのが最も印象に残っています。同窓生のような仲間が亡くなるのは、とても悲しいです。
俳優津川雅彦 映画「狂った果実」で共演したのが最初で、背が高いファンファン(岡田さんの愛称)の肩にぶら下がって懐いていました。スタイリッシュで格好良くて、本物のプレーボーイ。駄じゃれが大好きで、一緒にいて楽しかったですね。ハーフということで苦労も多かったでしょうが、決して表には出さなかった。もうあの駄じゃれが聞けないかと思うと残念です。
キャスターみのもんた(61) 「おもいッきりテレビ」がスタートしてから20年近くの付き合い。食道がんの手術後も話すのがつらそうだった。おしゃれでダンディーで語学に堪能で女性にモテて、戦後日本の男のおしゃれ、美学そのものの人。「お座敷でのんだことがない」というので赤坂の料亭にお連れしたら楽しそうに喜んでくれてね。僕に「健康のため」ってジムを紹介してくれたのも岡田さんだった。ショックだけど、岡田さんのダンディーさを参考にしていきたいと心から思う。
「サルヂエ」で共演した藤井隆(34) 毎回大きな手で握手しながら、優しい言葉をかけてくださいました。「またいつか」と言ってくださったのに、ご一緒させていただけないのが残念です。ご冥福をお祈りいたします。
岡田さんはデビュー当初から「ファンファン」と呼ばれた。これはフランスの俳優ジェラール・フィリップが52年の映画「花咲ける騎士道」で演じた役名から「ファンファン・フィリップ」と呼ばれたことに由来する。53年、東宝ニューフェースとしてデビューした岡田さんは、伝説的美男俳優にあやかり周囲から「ファンファン」と呼ばれるようになった。88年から放送されたフジテレビ「とんねるずのみなさまのおかげです」の人気コーナー「仮面ノリダー」では、世界征服をたくらむファンファン大佐を演じて若い層からも人気を集めた。岡田さんの風ぼうと明るい性格にふさわしい愛称だった。
【岡田眞澄(おかだ・ますみ)】 1933年(昭8)10月22日、フランス生まれ。父は日本人画家でデンマーク人女性との間に生まれる。39年に日本移住。52年に日劇ミュージックホールで初舞台。翌年に東宝ニューフェース、54年に日活入り。映画「太陽の季節」「狂った果実」「幕末太陽伝」や舞台「リア王」「エリザベス」などに出演。プレーボーイとして知られ、60年にパントマイムのヨネヤマ・ママコと2年間の契約結婚を発表し、翌年に破局。72年に女優藤田みどりと再婚するが、3男をもうけて94年に離婚。95年には26歳年下の恵子さんと電撃結婚し、98年に長女が誕生。63歳での快挙に「愛はバイアグラを越えた」と名言を残した。兄はタレントの故E・H・エリックさん。タレント岡田美里はめい。
●5月25日 米原万里さん(作家)が卵巣がんのため死去
ロシア語通訳の体験をつづった軽妙なエッセーなどで知られる作家の米原万里(よねはら・まり)さんが06年25日午後1時12分、卵巣がんのため神奈川県内の自宅で死去した。56歳。 米原さんは05年7月に出版した「パンツの面目ふんどしの沽券」(筑摩書房)の後書きで「わたしの体内に卵巣癌が発覚し、除去したものの、1年4カ月で再発した。悪性度の高い癌であるとのこと」と告白。今年、週刊文春に連載していた「私の読書日記」で「癌治療本を我が身を以て検証」と題して、さまざまな療法の実践体験記を紹介。独特のユーモアを交え「効く人もいるのだろうが、私には逆効果だった」などと、闘病生活を描いた。葬儀は27、28日に近親者のみで済ませた。後日、友人葬を開く予定。
【米原万里(よねはら・まり)】 東京都出身。日本共産党衆院議員だった父・故米原昶氏の仕事の関係で少女時代を旧チェコスロバキアのプラハで過ごした。帰国後、東京外語大、東大大学院で学んだ後、ロシア語通訳として国際会議や要人の同時通訳として活躍。90年にはロシアのエリツィン大統領(当時)来日時の通訳を務めた。 エッセー「不実な美女か貞淑な醜女か」で95年読売文学賞を受賞。プラハ時代の級友の消息を追った「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」(大宅壮一ノンフィクション賞)、長編小説「オリガ・モリソヴナの反語法」(ドゥマゴ文学賞)などで広範な読者を得た。テレビのコメンテーターとしても活躍。ロシア語通訳協会会長などを務めた。
●5月18日 俳優の田村高廣さん急死
映画、ドラマ、舞台に活躍したベテラン俳優田村高廣さんが亡くなったことが06年5月17日、分かった。77歳だった。田村さんは往年の時代劇スター阪東妻三郎を父に持ち、弟の俳優正和(62)亮(59)とともに「田村3兄弟」として親しまれた。この日、都内で通夜が営まれたが、「葬儀後に死亡を公表してほしい」との遺志もあって、身内や関係者だけが列席。静かにしのんでいた。
突然の死だった。4月初めにクランクインした映画「プルコギ」にも出演し、元気な姿をみせた。同下旬に出演シーンを撮り終えていたが直後に行われた製作発表は欠席していた。
この日、都内の葬儀場で通夜が営まれたが、親族は一切、取材を受けなかった。死因などは明らかにされていないが、関係者によると、田村さんは「葬儀が終わった後に、死んだことを公表してほしい」との遺志を伝えていたという。身内とごく親しい関係者らだけで、ひっそりと営まれた。
田村さんはもともと俳優になるつもりはなかった。同大を卒業し貿易会社でサラリーマン生活を送っていたが、53年に当時の大スターだった父阪東妻三郎が急逝。周囲に勧められるままに24歳で俳優デビューした。木下恵介監督の映画「女の園」を皮切りに、勝新太郎とのコンビで人気だった「兵隊やくざ」、鑑真役で中国ロケを敢行した「天平の甍」、海外で多数の賞を受賞した「泥の河」に出演。演技派の俳優として高い評価を受けた。
ドラマもNHK大河ドラマ「赤穂浪士」「太閤記」「花神」などで重厚な演技をみせ、05年にはNHK朝の連続ドラマ「ファイト」にも出演。舞台も父譲りの「無法松の一生」などに主演した。何回か「2代目阪東妻三郎」襲名の話が持ち上がったが、田村さんは「演技の質が違うし、コピーにはなりたくない」と固辞し続けた。
4人兄弟で、2番目の弟正和、末っ子の亮は俳優として活躍した。90年には日本テレビ「勝海舟」に3兄弟で共演し話題を呼んだ。96年に腰に激痛が走る「すべり症」で入院したこともあったが、酒を控えるなど健康面には気を使っていたという。「不器用で守備範囲の狭い俳優」と自認していたが、91年に紫綬褒章、99年には勲4等旭日小綬章を受章している。
【田村高廣(たむら・たかひろ)】 本名同じ。1928年(昭和3年)8月31日、京都生まれ。大学卒業後、サラリーマン生活を送るが、53年に父の阪東妻三郎が急死。木下恵介監督に勧められ、54年に映画「女の園」でデビュー。繊細な二枚目として人気を得て、56年阪妻追善記念の「京洛五人男」で初時代劇。65年大映「兵隊やくざ」でブルーリボン助演男優賞を受賞。同年NHK大河ドラマ「太閤記」などテレビ出演も多数。67年芸術座「華岡青洲の妻」で初舞台。91年紫綬褒章、99年勲4等旭日小綬章を受章。
●4月12日 黒木和雄氏(映画監督)が脳梗塞のため死去
青春映画の名作「祭りの準備」や戦争を題材にした「父と暮せば」などで知られる映画監督の黒木和雄(くろき・かずお)さんが12日午後3時43分、脳梗塞(こうそく)のため東京都板橋区の病院で死去した。75歳。
7日には、都内の松竹本社で新作「紙屋悦子の青春」(8月12日公開)の試写に立ち合い、元気な姿を見せていた。同席した関係者も「体調が悪い様子は全くなかった」という。体調不良を訴えたのは数日後。妻の暢子さんに付き添われ、病院で検査を受けた。軽い脳梗塞と診断され、そのまま入院。12日になって容体が急変したという。近日中に新作予告編のチェックの予定も入っていた。
ドキュメンタリー出身らしく、人間の内面に迫る描写力が高い評価を受けた。70年代に発表した「竜馬暗殺」「祭りの準備」は青春群像劇の傑作といわれた。旧制中学時代に同級生の多くを空襲で失った。80年代に入って「戦争を体験した最後の世代として記憶に残す」として、戦争を題材にした作品を積極的に製作。長崎の原爆投下前日の市民の姿を描いた「TOMORROW/明日」、終戦前後を描いた「美しい夏キリシマ」、原爆投下後の広島を描いた「父と暮せば」はいずれも高い評価を受け「戦争レクイエム3部作」と呼ばれた。思想性と映像美を兼ね備えた作品は、映画賞も数多く受賞した。
遺作「紙屋悦子の青春」も終戦間近の鹿児島を舞台に、死に直面した若者がテーマ。1月下旬に完成し、公開を待つばかりだった。次回作も戦争や股旅(またたび)ものを検討していた。自宅は非公表。葬儀・告別式は未定。連絡先は東京都台東区駒形2の2の6、パル企画。
※ 大きな宝物 「父と暮せば」でヒロインを演じた宮沢りえ(33) 監督の熱さ、優しさ、強さがいっぱいつまった映画「父と暮せば」は、私にとって大きな宝物です。今でも、ヨーイ、スタート! と監督の元気なお声が心に響いてやみません。悔しいけど、どうぞ、ゆっくり、のんびり、休んでください。
※ 兄の様な存在 黒木作品に数多く主演した原田芳雄(66)は「突然で受け止めきれません。何と言っていいか…」と言葉を詰まらせた。最近も電話で話したばかりで「具合が悪いなんて想像もしてませんでした」という。出会いは「竜馬暗殺」。「映画をやっていく決心がついた作品。黒木監督は今も俳優を続けていられる原点なんです」。撮影現場については「こちらが暴走してもきちんと戻してくれる。包容力があって解き放たれた気持ちになる。兄のような存在でもありました。妥協はしない。信念の強い方でした」と振り返っていた。
【黒木和雄(くろき・かずお)】 1930年(昭和5年)11月10日、宮崎県生まれ。同志社大卒業後の54年に岩波映画製作所演出部入社。57年監督デビュー。「海壁」「わが愛北海道」などを発表後、62年フリーに。66年「とべない沈黙」で劇映画デビュー。長崎の原爆投下の前日を描いた88年「TOMORROW/明日」でイタリア・サレルノ映画祭最優秀監督賞、日刊スポーツ映画大賞監督賞などを受賞。03年「美しい夏キリシマ」04年「父と暮せば」も日刊スポーツ映画大賞監督賞を受賞。56年に大学の同級生だった暢子さんと結婚。1女。
●3月22日 宮川泰さん(作曲家)が虚血性心不全のため死去
ザ・ピーナッツの「恋のバカンス」や人気アニメ「宇宙戦艦ヤマト」のテーマ曲などを手掛けた作曲家の宮川泰(みやがわ・ひろし)さんが21日、虚血性心不全のため都内の自宅で亡くなった。75歳。午前10時を過ぎても起きてこなかったため、妻禮子さん(73)が様子を見に行ったところ冷たくなっていたという。多くの名曲のほか、NHK紅白歌合戦の最後に「蛍の光」の指揮者を務めるなど、国民に親しまれた名音楽家がまた1人逝った。
長男で作曲家の彬良さん(45)によると、宮川さんは前日20日の夕方、1人で近所に買い物に出て缶チューハイを10本買ってくるなど、変わった様子はなかったという。普段通り深夜0時に就寝したが、午前1時ごろ急死したとみられる。
持病もなかった。好きだった酒を控えるようになり、散歩など適度な運動もするなど、健康には気を使っていたという。また、NHK「歌謡コンサート」のアドバイザーの仕事が先月で終了。レギュラーの仕事がなくなり、好きだった絵を描いたり、のんびり過ごしていたという。彬良さんは「苦しんだ様子もなく安らかな顔でした。大往生だったのでは」と話した。
さまざまな側面から音楽の楽しさを伝えた人だった。ザ・ピーナッツの育ての親として知られ、「恋のバカンス」(63年)などの歌謡曲をはじめ「宇宙戦艦ヤマト」(74年)などの映画音楽、テレビやラジオ番組のテーマ曲まで、幅広いジャンルに楽曲を提供した。
「相手を楽しませたくなるクセがある」という性格から生み出された、独特の派手な指揮法でも知られた。93年から藤山一郎さんの後を継ぎ、NHK紅白歌合戦のフィナーレを飾る「蛍の光」の指揮者を務め、昨年末も元気にタクトを振っていた。また「落語家か漫才師になりたかった」というほどの軽妙なトークで、「シャボン玉ホリデー」や「おもいッきりテレビ」などの番組にも出演した。
彬良さんは大ヒット曲「マツケンサンバ2」を手掛けるなど、宮川さんの“後輩”でもある。「作曲家としては、エベレストのような高いところにいる存在。でも、素顔はギャグが受けないと落ち込んじゃうような人だった」としのんだ。
今月下旬には演奏会出演も予定していた。「メロディーのきれいな息の長い曲を」をモットーに最期まで音楽の第一線を走り続けた生涯だった。
【宮川泰(みやがわ・ひろし)】 1931年(昭和6年)3月18日、北海道留萌市生まれ。大阪学芸大音楽科を中退後、上京。「平岡精二クインテット」のメンバーとして活躍後「渡辺晋とシックスジョーンズ」に参加。独立後はピアニスト、編曲家、作曲家として活躍。「恋のバカンス」で日本レコード大賞編曲賞、「ウナ・セラ・ディ東京」で同賞作曲賞を獲得。1男1女。
2006年07月25日(火) |
2006年前半期 著名人〈おくやみ〉1〜3月 |
2006年前半期 著名人〈おくやみ〉1〜3月
◎花に嵐のたとえもあるよ,サヨナラだけが人生さ (井伏鱒二)
●3月2日 久世光彦さん(元TBS演出家)が虚血性心不全のため死去
人気ドラマ「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などの演出や作家としても活躍した久世光彦(くぜ・てるひこ)さんが06年3月2日午前7時32分、虚血性心不全のため東京都世田谷区の自宅で亡くなった。70歳だった。1日までは普段通りに仕事をしていたが、この日朝、家族が自宅で倒れているのを発見した。
急死だった。久世さんは1日まで元気に仕事をしていた。2月22日には「寺内貫太郎一家」のDVD発売イベントに出席。1日も、来週から撮影が始まる予定の新ドラマの関係者と夕方から午後8時ごろまで食事しながら打ち合わせを行った。その後、帰宅したが、関係者は「普段と変わらず元気な様子でした」という。
しかし、翌2日朝、夫人の朋子さん(48)が自宅内で倒れている久世さんを発見した。救急車で近くの昭和大学病院に運ばれたが、すでに亡くなっていた。久世さんは酒は飲まないが、ヘビースモーカーだった。軽い糖尿病を患い、数年前には副交感神経関係の手術を受けたが、ほかに大きな病気はなかった。
ドラマのヒットメーカーだった。脚本家の故向田邦子さんと組んでTBSドラマ「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」などを演出。銭湯を舞台にした「時間?」では茶の間に裸の女性を登場させ、スキャンダルを起こした俳優を起用するなどの奇策で話題づくりも巧みだった。高視聴率をマークして名物プロデューサーと呼ばれ、樹木希林、天地真理、浅田美代子、岸本加世子らを育てた。ドラマだけでなく、映画「夢一族・ザ・らいばる」を監督し、中村勘三郎主演の舞台「浅草パラダイス」なども演出した。
スキャンダルで騒がれたこともあった。79年当時、久世さんには妻子がいたが、「ムー一族」に出演中だった現夫人の朋子さんとの不倫を樹木希林が暴露。朋子さんが妊娠していたこともあって、久世さんはTBSを退社。その後、テレビ番組制作会社「カノックス」を設立した。
一方、名文家としても知られた。「一九三四年冬?乱歩」が山本周五郎賞を受賞。俳優森繁久弥の言葉をもとにしたコラム「大遺言書」を週刊新潮に連載中だった。新潮社によると、2月28日に来週号の原稿を受け取っていたが、その後については未定だという。
沢田研二夫妻らが弔問 久世氏の遺体は、この日午後4時半に遺族とともに東京・世田谷区内の自宅に戻り安置された。夜になり雨の降る中、沢田研二、田中裕子夫妻、樹木希林、本木雅弘、左とん平らが弔問に訪れた。左は「本人はまだ死んだことに気付いていないと思うよ…」と沈痛な表情だった。
浅田美代子絶叫「やだーっ」 「時間ですよ」でデビューし、「寺内貫太郎一家」にも出演した女優浅田美代子(50)は2日夜、都内で会見し、「信じられない」を繰り返した。16歳から一緒に仕事をしてきただけに「父よりも厳しくて優しい人。怒ってくれる人がいなくなっちゃう」。会見を終えて退室すると、こらえ切れず「やだーっ」と叫んだ。
訃報の衝撃考慮、森繁には伝えず 2日、週刊新潮で久世氏聞き取りによる「大遺言書」を連載中の森繁久弥(92)に訃報(ふほう)は伝えられなかった。久世さんのデビュー作「七人の孫」以来40年の付き合いで、「大遺言書」も久世さんなくしては実現しなかった。後輩俳優が亡くなる中で、森繁が頼りにしたのは久世さんだっただけに、関係者も「あまりにショックが大きいので、様子を見て知らせようと思うのですが」と頭を抱えた。
※ 関係者悲しみの声 「時間ですよ」に主演した森光子(85) 1月30日には、私の文化勲章受章のパーティへお祝いにお越しくださいましたのに…。とてもお元気なご様子でしたので、本当に信じられません。「時間ですよ」をはじめとしまして、テレビドラマや舞台でたくさんのお仕事をご一緒させていただきましたし、お仕事の垣根を越えて、お親しくさせていただきました。その思い出はつきることはございません。今年も、お仕事のお約束をさせていただいている最中で…。ただぼう然といたしております。心よりごめい福をお祈り申し上げます。
「寺内貫太郎一家」の小林亜星氏(73) 先日も会見で会って憎まれ口をたたかれたばかりで、こんなことになるとは思わなかった。山の手の秀才のくせに、悪ぶっている、ませた東京少年がそのまま大きくなった人だった。テレもあったのかな。仕事にはまじめで厳しく、いい加減なことはしなかった。憎まれ口や乱暴なことを言っても、人間心理の微妙なところが分かっていて、人の心を掌握するのは巧みだった。ドラマの世界では巨匠だったけれど、純文学でもすばらしいものを書いていた。僕にとってあこがれとせん望の対象でした。
「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」に出演していた女優樹木希林(63) 10代のころからの付き合いで、ケンカもしましたね。もう家族の一員みたいな感覚でした。夜中に仕事をする方で、すごいたばこの量ですから心配もしました。言っても聞かないし、家族のようだから、かえってケンカになっちゃうしね。最近は「疲れた」というのが口ぐせで、階段上がったりする時も「手すりがあって良かった」なんて言うんですよ。(DVDのイベントでは)相変わらずすごいたばこで近くに寄れなかったですねえ。人の生き死ににはあまり驚かない方ですが、びっくりしました。
久世さん最後の演出ドラマ「夏目家の食卓」でヒロインを演じた宮沢りえ(32) もっともっと叱(しか)ってもらって、もっともっとほめてもらいたかった。演じることの本当のつらさと面白さを教えてくれたのは久世さんだったと思います。まだまだいっぱい一緒の空気吸いたかったです。監督、いっぱい、いっぱい、ありがとうございました。
舞台「浅草パラダイス」に出演した女優・藤山直美(47) これからもっと『ダメ出し』をしていただこうと思っていましたのに…。どうぞ天国でごゆっくりとお休みください。
「寺内?」に出演した西城秀樹(50) 10代でドラマのいろはを一からたたき込まれ、私にとっては人生の師であり、男として尊敬できる掛け替えのない人でした。本当に残念でなりません。
久世さんがペンネーム市川睦月として作詞した「無言坂」で93年日本レコード大賞を受賞した香西かおり(42) 私の節目節目に素晴らしい作品を頂きました。「香西かおり」の歌の世界をつくってくれた恩人です。新しい作品を歌えないのが、本当に心残りです。
「時間ですよ平成元年」に出演したSMAP中居正広(33) 17年前に初めて出演したドラマで演出していただきました。その当時は、久世さんが望むお芝居はできませんでした。近いうちに、お仕事をやらせていただく予定でした。成長した自分を見ていただきたかったのに、非常に残念でなりません。
【久世光彦(くぜ・てるひこ)】 本名同じ。1935年(昭和10年)4月19日、東京・阿佐ケ谷生まれ。東大文学部美学美術史学科卒業後、60年にTBS入社。79年の退社後は沢田研二主演「源氏物語」、ビートたけし主演「刑事ヨロシク」などを手がけ、最後のドラマは05年「夏目家の食卓」。98年に紫綬褒章を受章。
●1月6日 加藤芳郎さん(漫画家)が呼吸不全のため死去
「まっぴら君」などで知られる人気漫画家の加藤芳郎(かとう・よしろう)さんが06年1月6日に呼吸不全のため都内の病院で死去していたことが16日、分かった。80歳だった。葬儀・告別式は近親者で済ませた。喪主は妻の敏江(としえ)さん。
加藤さんは、胃がんのため、昨年1月から入退院を繰り返していた。昨年末に風邪をこじらせて呼吸困難のため入院。その後体調が回復することはなかった。
庶民の暮らしをユーモラスに描く作品で人気を集めた。復員後に都職員として勤務のかたわら漫画を描き始めた。47年(昭和22年)に漫画家として独立。54年「オンボロ人生」で人気を獲得した。同年から毎日新聞夕刊で「まっぴら君」の連載を開始。風刺の効いたユーモアとペーソスを持ち味にしながら、特定の登場人物を決めず、世相や社会を真っ向から斬(き)る異色のスタイルが話題を集めた。連載は、01年まで47年間続き、1万3600回を超える新聞連載漫画の最長記録を達成した。健康に不安を抱えたこともあって「まっぴら君」の連載終了をもって現役を引退していた。
タレントとしても活躍した。68年から91年まで放送されたNHKのクイズ番組「連想ゲーム」に出演。男女解答者が紅白チームに分かれて得点を競い合う構成で、加藤さんは白組キャプテンも務めた。ヒントを出す際の軽妙な語り口でお茶の間の人気を集めた。75年から84年まで放送された日本テレビ「テレビ3面記事 ウィークエンダー」では司会を務めた。
※ 関係者悲しみの声 女優坪内ミキ子(65) 解答者のために違反ヒントを出しても、上品な言い方だから皆が笑えた。印象に残るのは「人間を誰でも好きにならなきゃいけない」という一言。長年、レギュラーやゲストなど多くの出演者と接してきたから言えたのでしょうね。寂しいです。
漫画家小島功氏(77) 漫画の描き方を教えてもらったりして16歳の時からずっと付き合ってきたので、突然の知らせに驚いている。彼が出征するときに激励会を開いたが、送られる側の加藤さんが逆に1人で騒いでわれわれを元気づけてくれた。話も面白くて、とても楽しい人だった。漫画に関しては天才肌で、人情味のある画風の中に社会批評も効いていた。
【加藤芳郎】 1925年(昭和14年)6月25日、東京生まれ。41年に東京防衛局勤務。44年に川端画学校中退後、兵役に。終戦後の46年に東京都建設局に復職。54年「まっぴら君」を毎日新聞夕刊で連載開始、02年に終了。86年に紫綬褒章受章したほか。文芸春秋漫画賞、菊池寛賞。日本漫画家協会賞「文部大臣賞」などを受賞。日本漫画家協会の64年創立時からのメンバーで、92年から4年間会長を務めた。
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