女の世紀を旅する
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2005年11月26日(土) 姉歯建築設計事務所のマンション耐震偽装事件

< マンション耐震強度偽装 >    2005/11/26




地震大国・日本で,マンション耐震強度が偽装されていた事件は全国的な衝撃を与えた。マンション居住者数百万人にとって,自分のところのマンションの耐震性は大丈夫なのか,疑心暗鬼にさせられる事件で,今後全国のマンションの耐震調査が進めば,鉄筋の量を減らした手抜き建築が発覚する恐れがあり,こうした悪徳業者の存在は氷山の一角なのかもしれず,その波紋の広がりは大きい。






以下にニュース関連記事を記しておきたい。


 首都圏のマンションなどの設計に用いる構造計算書を偽造していた千葉県市川市の姉歯(あねは)秀次1級建築士(48)に対する聴聞会が11月24日、国土交通省で開かれた。姉歯建築士は、動機について、マンション開発会社や施工会社の実名を挙げ、コスト削減を求める圧力があったと具体的に説明した。業者側は建築士への指示を否定しているものの、業者が耐震性の不足を知っていた疑いが生じ、問題は新たな局面を迎えた。






●新たに4ホテルが営業休止 長野、静岡、愛知3県で
2005年11月26日01時06分

 首都圏のマンションなどの強度の書類を偽造していた千葉県市川市の姉歯建築設計事務所が設計にかかわった長野、静岡、愛知県のホテル計4軒が25日、新たに営業を休止した。このうち長野2軒、静岡1軒の計3軒は書類が偽造されている疑いがある。この問題で休止したホテルは1都5県の計13軒になった。

 愛知県岡崎市の岡崎第一ホテルを経営するヒサコー観光は25日、同ホテルのイースト館の営業をとりやめた。

 「姉歯事務所とのかかわりがわかった以上、営業するのは無責任と感じました」。近藤久子社長は話した。東京の設計会社が設計したが、書類を再点検したところ姉歯事務所の建築士の署名が見つかったという。

 長野県内のホテル2軒は、専門家の再計算で「震度5強で一部損傷、震度6で倒壊の危険」があるとされた。ともに県が建築確認をしており、運営するホテルオオハシの中島憲治社長は「県の建築確認で安全宣言をもらったはずなのに……」と話した。

 くれたけイン浜名湖(126室)は1階の柱の鉄筋量が基準の半分以下しかなく、大地震でつぶれる恐れがあることが判明。予約していた客には系列のホテルを利用するよう依頼した。

 東京都羽村市の「プラザイン羽村」も書類を再点検した検査業者から「疑念がある」と連絡があり、24日に自主的に営業休止を決めた。耐震強度は建築基準法の基準は上回っているものの、同法の1.25倍の強度を求めている都の基準を下回っていたという。

 千葉県の調べでは姉歯事務所が設計に関与したホテルは全国に40カ所以上あるとみられ、再点検が進んでいる。

 静岡県沼津市で建設中のビジネスホテルでも姉歯事務所が設計に関与していたことがわかり、25日、建設中止が発表された。福岡県は25日、同県苅田町内にほぼ完成しているビジネスホテルについても、「必要な耐震強度の70〜90%しかなく、構造計算書を偽造された可能性が否定できない」と発表した。

 一連の問題では、京王プレッソイン茅場町(東京都中央区)が18日に営業休止したのを皮切りに、首都圏や東海地方のホテルで営業休止が相次いでいる。




●国交省、マンション開発3社トップ聴取 耐震強度偽装で
2005年11月25日22時32分

 千葉県市川市の建築設計事務所がマンションなどの耐震強度に関する書類を偽造していた問題で、国土交通省は25日、耐震性の不足が明らかになったマンションの開発会社3社の社長らから事情聴取した結果を明らかにした。3社は、入居者の退去や所有者への補償について買い取りや改修の意向を説明する一方、書類を偽造した姉歯秀次1級建築士との関係については、いずれも「直接の接触はなかった」と述べた。

 聴取に応じたのは、ヒューザー(東京都千代田区)の小嶋進社長とシノケン(福岡市)の辻正隆常務、サン中央ホーム(千葉県船橋市)の工藤祐政社長。

 国交省によると、ヒューザーは完成済み分譲マンション7棟のうち、川崎市の「グランドステージ川崎大師」と神奈川県藤沢市の「グランドステージ藤沢」2棟を建て替えるか買い取り、残る5棟は免震工事などの改修をする意向を示した。ただし、すべて公的支援が必要とし、所有者の住宅ローン債権の9割を銀行が放棄し、残り1割を同社が買い取る案も示した。

 サン中央ホームも公的支援を求め、「支援がないと解体は難しい」と述べたという。







●「鉄筋減らせと圧力」 聴聞会で姉歯氏説明 業者は否定
2005年11月25日03時04分



 関係者によると、姉歯建築士が、圧力をかけられたとして名前を挙げたのは、施工会社の木村建設(熊本県八代市)と開発・施工会社のヒューザー(東京都千代田区)とシノケン(福岡市)の3社。

 聴聞会は、処分を決める前の弁明を聞くための手続きで、この日は非公開で約1時間開かれた。国交省によると、同省の担当者が書類偽造の有無を尋ねたのに対し、姉歯建築士は、完成と未完成を合わせた21棟の計算書の偽造を認めた。それ以外の建物に関しては「記憶にない」と答えた。

 動機については、大口の依頼主だった3社の名を挙げて、「建設コストを下げる設計をするよう指示された」とした。国交省は「姉歯建築士の了解がない」としてこの業者名を明らかにしていない。

 建築確認の審査を民間の検査機関イーホームズ(東京都新宿区)に頼んだことについて、姉歯建築士は、「厳しいところと甘いところがあるので、イーホームズにした」と述べ同社の審査の甘さを指摘した。

 「仕事優先で、考えが至らなかった。資格を持つ専門家として申し訳ないことをした」と話す一方、賠償責任や刑事責任への言及はなかった。

 免許取り消し処分については、争う意向を示さなかったといい、国交省は、12月7日に開かれる中央建築士審査会の同意を得た上で免許を取り消す。
 「鉄筋の量を減らせ。できなければ他に発注すると言われました」。構造計算書を偽造した姉歯秀次1級建築士は国土交通省であった聴聞会で、偽造につながるコスト削減を指示されたとして建築主・施工業者3社の名と「圧力」の中身を具体的に語った。

 聴聞会は非公開で開かれた。国交省の説明によると、建築指導課の課長補佐が「少なくとも21件の建築物について、構造計算プログラムの一部の偽装を行っていた」と書面を読み上げると、姉歯建築士は「相違ないです」と答えた。

 大口取引先から鉄筋の量を減らすように指示を受けたとされる際のやりとりに話が及ぶとこう話したという。「『安全性に問題が生じる』と答えましたが、『できなければ他の業者に代える』と言われました。生活ができなくなるので受け入れました」

 3社のうち1社については指示したという個人の名前まで挙げた。「コストを下げろというプレッシャーを感じていました」とも語った。

 建築確認した民間の検査機関に偽造した構造計算書を初めて提出した時のことも話した。「提出期限が迫り、後で正しい計算書に差し替えるつもりでしたが、審査を通ってしまい、びっくりしました」「今思えば、あのときやめるべきでした」



 この日、熊本市で記者会見した木村建設(熊本県八代市)の木村盛好社長は「鉄筋の量を減らせ」と大口取引先が指示したという疑いについて「全くありません」と否定し、コストダウンに向けた圧力もかけたことはないと話した。姉歯建築士とは会ったこともないという。

 ヒューザー(東京都千代田区)の小嶋進社長は24日夜、「あり得ないこと。自分がお金を払ってインチキマンションを造れなんて言う発注者がどこにいるんですか」と述べ、姉歯建築士への「指示」を全面否定した。

 シノケン(福岡市)は篠原英明社長が22日に福岡市で記者会見し、「構造計算は当社の知らないところで姉歯(事務所)がしていた。当社は木村建設が『できました』と持ってきた図面に判をついただけ」と話し、不正への関与を否定した。





●耐震偽装で3社が対応策 建て替えや返還・解体
2005年11月23日22時10分


 耐震強度が偽装されたマンションの購入者や入居者にどう対応するか、完成済み13棟の建築主3社の方針が固まってきた。ヒューザー(東京都千代田区)は建て替えて引き続き入居してもらう考えだ。シノケン(福岡市)は契約を解除して購入代金を返済し、建物を解体する。賃貸物件だったサン中央ホーム(千葉県船橋市)は転居を求めている。住民たちとの交渉は建築主側のペースで進み、住民たちの選択の幅は狭い。

 13棟のうち7棟(計約230世帯)はヒューザーの分譲マンションだった。小嶋進社長は22日、国土交通省で記者会見し、現地で建て替えたいと話した。「建て替えの経費は約50億円だが、全世帯に代金を返せば約150億円かかってしまい、我々は無力になる」というのが理由だ。一部は補修で対応することも検討している。

 信用調査会社によると、ヒューザーの売上高は05年3月期で約121億円。小嶋社長は公的資金を貸し付けてほしいという意向を強調した。

 新築住宅の売り主には10年間の「瑕疵(かし)担保責任」があり、主要部分に欠陥があった場合、購入者は補修・建て替えか代金の返還を求める権利がある。代金返還には応じることができないとするヒューザーの方針に住民の反応は複雑だ。

 東京都江東区のグランドステージ住吉に住む男性(43)は「代金の返還より、建て直しを望む人が多い。私も子供を転校させたくない」と話す。墨田区のグランドステージ東向島に住む男性(59)は「賠償してほしいが、ヒューザーがつぶれても困る」と語った。

 川崎市川崎区のグランドステージ川崎大師の住民たちは代金の返還を当初求めていたが、やむなく建て替えを受け入れる方針だ。管理組合の理事は「早く建て替えてもらいたい。倒産されては困るので国も支援してほしい」と話す。

 シノケンは耐震性が特に低い港区と新宿区の2棟(計65戸)を解体し、港区と渋谷区の2棟(計52戸)は解体するか改修するか近く決める。4棟はいずれも投資向けに分譲され、主に賃貸で使われていた。購入者には代金を全額返し、賃貸入居者には転居先を確保してその費用も負担する。

 サン中央ホームは船橋市の賃貸マンション2棟(計118戸)を解体することを決め、入居者に転居を勧めている。敷金は返還し、転居費用なども支払う。

 しかし、支払う額に上限を設けたことなどから、船橋市が23日に開いた説明会では入居者たちが納得せず、急きょ呼び出された工藤祐政社長が陳謝した。

 こうした対応策を実行するには多額の費用がかかる。13棟のうち8棟を施工した木村建設(熊本県八代市)が22日から事業停止状態に陥った影響も懸念される。

 国交省は転居費用向けの低利融資制度など支援策を検討している。


2005年11月01日(火) 日本の異才,寺山修司の世界


寺山修司の世界






寺山修司は、生前、職業は?と聞かれて、職業は寺山修司と答えている。
彼は好奇心のおもむくままありとあらゆることに手を染めた。

詩人、映画監督、シナリオライター、競馬評論家、ルポライターなどなど。
その中でも彼は演劇に特に力を入れた。

寺山修司は常に、世界の涯を目指したが、演劇こそが彼のもっともふさわしい表現手段だった。

寺山修司は1968年、劇団天井桟敷を旗揚げし、1983年になくなるまで、常に舞台を作り続けた。

そして彼の舞台は日本よりもむしろ世界に出ていくことが多くなった。
「奴婢訓」が彼の代表作であるが、同時に「奴婢訓」は「ヴィレッジボイス」における80年最優秀外国演劇賞を受賞している。

寺山修司は最初、歌人として出発し、初期の彼の演劇はまさに言葉の演劇だった。しかし、海外での公演が多くなるにつれて、言葉は剥ぎ取られ、肉体とイメージで彼の舞台は満たされていく。

このころは、演劇はどんどん舞踏化していき、舞踏はどんどん演劇化していった時代でもあるのだが、まさに寺山の演劇もそうだったと言える。
寺山のイメージは常に世界の果てを目指したけれど、そういう意味では寺山にとって「奴婢訓」はイメージの果てだったように思える。




《 寺山修司の詩作から 》


ひとの一生かくれんぼ

あたしはいつも鬼ばかり

赤い夕日の裏町で

もういいかい まあだだよ

百年たったら帰っておいで

百年たてばその意味わかる

かもめは飛びながら歌をおぼえ

人生は遊びながら年老いてゆく

人はだれでも

遊びという名の劇場をもつことができる

どんな鳥だって

想像力より高く飛ぶことは

できないだろう

わかれは必然的だが

出会いは偶然である

野に咲く花の名前は知らない

だけど野に咲く花が好き

人生はたかだか

レースの競馬だ!







●「思い出多き北上の舞台」 昭和精吾


岩手には昭和46年の今頃の季節、青森県出身の歌人で、天井桟敷主宰の寺山修司と一緒に足を運んだ。当時私は劇団「青俳」(故/木村功、岡田英次、蜷川幸雄らが在団)を経て東映に移り、演劇実験室「天井桟敷」にいた。寺山の第一回監督作品『書を捨てよ町へ出よう』(サンレモ映画祭グランプリ受賞)の上映、寺山の講演、われわれ劇団員3人の詩の朗読をワンパックにした東北巡演だった。

最初の盛岡公演は大盛況だった。問題は、その後の北上市にあった。

当時あまり面白くなかった寺山の講演から幕が上がり、一通り話し終えて寺山は言った。
「何か今までの話の中で質問がありますか」。場内はシーンと静まり返り、沈黙が続いた。
「ここの観客は街が静かなせいか随分、おとなしいですね」。寺山は皮肉たっぷりに言った。
「人間がおとなしいのと静かなのではどうちがいますか?」。突然、甲高い女性の声で質問があった。

「おとなしくしているから静かなのか、静かにしているからおとなしいのか、どっちにしても同じような事が言えますが、人間一番おとなしい時は死んだ時です。次が眠っている時です。死んでも眠ってもいない人間がおとなしいのは主義主張を持たない、僕から言わせればほとんど無知に近い人間です。そういう意味で言えば目の前にいるあなたがたは、ほとんど無知に近い人間です」。場内が騒然となった。

そのしっぺ返しが詩の朗読の時にくる。最初は佐々木英明(映画『書を捨てよ・・』の主演男優)のぼそぼそ語りかけるような青森県の方言詩から始まったが、途中でマイクトラブルが起き、声が届かなくなってしまったのである。
「聞こえない!」「やめろ!」「帰れ!」。先程の静けさとは打って変わって猛烈なヤジが飛んできた。「聞こえなかったら前へ来いよ!」佐々木も負けてはいなかった。
「昭和、発煙筒を投げろ!」

舞台のソデで次の出番を待っていた私に、寺山が興奮しながら近寄ってきて叫んだ。当時、本番中はいつも発煙筒をポケットに忍ばせて観客の挑発に備えていた。それほど挑戦的な舞台を「天井桟敷」は作っていたのである。
「わかりました」真っ白な煙の帯が何本も客席めがけて飛んでいった。「昭和! もっと投げろ! 北上をつぶせ!」

自分も興奮していたが、これから一体どうなるのだろう? 心の隅に確かな冷静さはあった。あの時一番発煙筒を客席に投げたのが劇団の後輩で、今は盛岡の劇団「赤い風」にいるおきあんごだったように思う。今年夏、三沢市に設立された寺山修司記念館のオープニングでおきと再会してこの話をしたら、「昭和さん、おれ一本も投げてないですよ。同じ県民じゃないですか」「うそつくな、おきが一番多く投げたじゃないか」

26年前の、なんとも懐かしい話だ。二人とも血気盛んなころで、寺山さんも元気だった。その時の寺山が構成した生原稿が今、手元にある。この話の続きは16日の盛岡公演本番で、あの時の生原稿をお見せしながら、ゆっくり語ろうかと思っている。

今日も稽古場のある東京・有明の空は赤とんぼの乱舞だ。あの遠い日、北上市の劇場で我々に一生懸命ヤジを飛ばしてくれた方々は今ごろどこで何をしているだろうか。夕焼け雲の下、ふとよぎる郷愁に似たこの思いは、やはり人恋しい秋のせいかもしれない。

お元気ですか。今もお変わりございませんか。
あの日あの時と時代も大きく変わりましたね。
私、昭和も今は発煙筒など忍ばせて舞台に立ってはおりません。


「 ふるさとの 訛りなくせし友といて モカ珈琲はかくまでにがし 」  寺山修司






●「寺山修司さんへ ─1983年『弔辞』」 山田太一


寺山さん

あなたは「死ぬのはいつも他人ばかり」というマルセル・デュシャンの言葉を口にしていたことがありましたが、そして、あなたの死は、私にとって、もとより他人の死であるしかないわけですが、思いがけないほどの喪失感で──あなたと一緒に、自分の中の一部が欠け落ちてしまったような淋しさの中にいます。

あなたとは大学の同級生でした。
一年の時、あなたが声をかけてくれて、知り合いました。大学時代は、ほとんどあなたとの思い出しかないようにさえ思います。
手紙をよく書き合いました。逢っているのに書いたのでした。さんざんしゃべって、別れて自分のアパートへ帰ると、また話したくなり、電話のない頃だったので、せっせと手紙を書き、翌日逢うと、お互いの手紙を読んでから、話しはじめるというようなことをしました。

それから二人とも大人というものになり、忙しくなり、逢うことは間遠になりました。
去年の暮からだったでしょうか。あなたは急に何度も電話をくれ、しきりに逢いたいといいました。私の家に来たい、家族に逢いたいといいました。
そして、ある夕方、約束の時間に、私の家に近い駅の階段をおりて来ました。
同じ電車をおりた人々が、とっくにいなくなってから、あなたは、実にゆっくりゆっくり、手すりにつかまって現れました。私は胸をつかれて、その姿を見ていました。ようやく改札口を出て、はにかんだような笑みを浮かべ「もう長くないんだ」といいました。あなたは、昔からよくそういっていたので、またはじまったと、笑って応じましたが、その時は冗談にならないものが残ってしまいました。
その晩は、どの時をとっても、哀惜とでもいうような感情が底流に流れているような夜でした。

あなたは、私の本棚を魅せろ、といい、どの棚もどの棚も丁寧にたどって、昔の本を見つけると「なつかしいねえ」と声を高め、ミシェル・フーコーを読んだか? ジャック・ラカンはどうだと、本棚と本棚の間の狭い空間が学生時代に逆行してしまったような時間をすごしました。

それから続けて二度逢い、最後は深夜、あなたの家の前で、タクシーに乗る私と妻を送ってくれたのでした。それから一週間もたたないうちに、あなたは倒れてしまいました。終りの四カ月に、再び濃密な思い出を残して──。

十八歳の時の「チェホフ祭」からはじまり、あなたの作品には、幾度もおどろかされ、感動しましたが、私には、あなたは何より、姿であり声であり、筆跡でありました。それらは、かけがえのない魅力を持っていて、いまはただ、とめどようもなく燃えつきてしまった輝きを惜しんで、うずくまるばかりです。本当に、あの世というものがあるなら、再会して、狭い片隅で、時間を気にしないで、本の話を、心ゆくまでしたいものだと──切望しています。せめて、そんな時の来るのを、あてにして。
じゃ、また──といわせて下さい。








●「寺山修司・五月の死」谷川俊太郎


五月四日午前、主治医から夕方までもつかどうか分からないと告げられて、九條映子さんと私は病院前の喫茶店で二十分ほどぼんやりとしていた。そのとき不意に寺山の初めての本の題名が心に浮かんできた。<彼の最初の歌集の題名覚えてる?>と問うと、九條さんは<『空には本』>と答えた。<いや、その前にもうひとつあったじゃない。歌集ではなかったかもしれないけれど>

一九五七年、中井英夫の好意で作品者から詩、短歌、俳句、小品、エッセイなどをまとめて寺山の最初の単行本が出版された。そのときも彼はネフローゼで絶対安静の身だった。題名は『われに五月を』。
四月二十二日の入院以来、ありとあらゆる医療器械にとりまかれて昏睡状態をつづける寺山を見守ってきたのだから、とっくに覚悟はできていたはずだが、『われに五月を』という題名を思い出した瞬間、私の心に哀しみと解放感をともなった不思議な感情が生まれた。
肝硬変をかかえていたとはいえ、無理をしなければまだまだ生きられたし、その残された時間に寺山がどのように変貌するか、じっくりつきあいたいと思っていたから、今回の急変に私はある口惜しさを押さえきれなかったのだが、そのとき初めて私は寺山の死を受け容れる気持ちになったのかもしれない。

何十冊にも及ぶ著作のその出発点から、彼は死のときを自分のうちに予感し、呼びこんでいたのか。だが、当時二十歳という若さで死に瀕していた寺山が、死を覚悟していたとは思わない。おそらく健康な人間には思いもつかない烈しさで、彼は生きたかっただろうと思う。「五月の詩」と題された序詞には、<二十歳 僕は五月に誕生した>という行が、二度くり返されている。
集中に収められた作品は、その後の彼の仕事にくらべればほとんどとるに足らぬものかもしれないが、そこに死の影はおろか、病の影すらおちていないのは、おどろくべきことだ。当時の彼にとってもっともさし迫った現実であった病と死に、寺山は全く背を向けている。
それらの作は(発病以前のものも含めて)私的な現実を徹底して否認するところで書かれているように思える<・何の作意ももたない人たちをはげしく侮蔑した。ただ冗漫に自己を語りたがることへのはげしいさげすみが、僕に意固地な位 に告白癖を戒めさせた。>と、寺山は一九八五年に出た『空には本』のノオトに書いているが、<はげしく侮蔑>、<はげしいさげすみ>と重ねられる表現には、方法論の表明として読むだけでは片づかない深い感情がひそんでいる。

詩歌においても、劇や映像作品においても、ときには単純な履歴においてすら彼は自分というものをかうしてきた。それは一貫した方法論でもあったのだが、そうした態度をとったその根本に、いわば<私の死>とも呼ぶべき彼の年少のころの体験があったのではないだろうか。

九歳のときに父を失い、母が働きに出たため一人暮らしをしたこと、高校文芸部の仲間ふたりが自殺していること、そして十八歳から二十二歳までネフローゼで入院生活をし、何度も死線をさまよったこと、年譜を見るだけでも彼が日常の私的な現実に背を向けたくなる材料には事欠かない。

だがそこから寺山が虚構へと・・したり逃避したりしたとは私は考えたくない。過酷な指摘現実をひっくり返すようなより広い現実、寺山自身の言葉をかりれば、<私の体験があって尚私を越えるもの、個人体験を越える一つの力>、<たったいま見たいもの、世界。世界全部。>(『血と麦』ノオト)それを彼はもとめた。
それは死を否認する生の力と言っていいだろう、彼にとってはそれは同時に言語の力でもあったのだ。現実の死に先立って原義によって自分自身を殺すことで、彼は誕生し、生きた。そこからしか彼は生きる力を得ることができなかった。『われに五月を』と記したとき、その<五月>は彼の死のときであったけれど、それは同時に彼の生そのものでもあった。


五月四日午後零時五分、心電図の針が上下動をやめ、グラフに画かれていた弱い波動が、私の目の前で一本の平坦な直線に変った。人工呼吸器が装着されていたので、まだ生きているようだったけれど、そのとき初めて寺山は生と死とを連続させたのだ。死へと向かって成熟してゆくことを終始拒否しつづけてきた彼にとって、その瞬間は<私>の消滅の瞬間ではなくて、<私>との和解の瞬間、むしろ誕生の瞬間であるかのように思われた。





昭和58年(1983)47歳
絶筆となったエッセイ「墓場まで何マイル?」を書く。5月4日午後0時5分、肝硬変と腹膜炎のため敗血症を併発、死去。享年47歳


カルメンチャキ |MAIL

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